「おにいちゃんたち!早く早くっ!」
 ぴょんぴょんと雪の上を飛び跳ねる少女。動きに合わせてその二つに結った髪が揺れるのを眺めながら、呼ばれた青年と古泉は僅かに足を速める。一歩踏み出すたびに、昨夜の間に降ったらしい雪がさくさくと音を立てた。
 現在彼らがいるのは、少女が属するサーカス団の次の公演地である街。王都にも近く、この国第二の都市としても有名な場所である。
 到着したのは昨日の午後のことだったが、それからすぐに公演が出来る訳ではない。まずは舞台である大規模なテントを張る必要があり、また開催期間中に団員達の生活場所となる所も用意しなくてはならないからだ。そんな中、少女は一人前の演技者ではあるが、力仕事となる会場の準備に関しては手伝えることなど殆ど無く、暇を持て余していた。団長である父親について各地を回る少女にしてみれば慣れたことと言えたが、それでも暇なものは暇。遊び相手も居らず、その数日間はあまり好きになれない期間だった。が、今は違う。サーカス団の人間ではない(つまり準備を手伝う必要の無い)青年達が傍に居るためだ。
 そうして自分達によく懐いた少女に悪い思いを抱くはずもなく、少女に追いついた青年達は差し出された両手を各々取り、間に少女を挟むような格好で笑みを浮かべる。すると小さく暖かな手にぎゅっと力が篭り、少女は明るく、けれど生来の性格ゆえかどこか控え目な淡い笑顔を返してくれた。
「公演は明後日からでしたよね。」
 古泉の問いかけに少女は大きく首を縦に振る。
「うん!おにいちゃんたちも絶対来てね。あたし、うんとがんばるから!」
「ああ。楽しみにしてるよ。」
 彼女の父親から貰った特等席のチケット二枚をひらひらと揺らしながら青年が答えた。古泉もその反対側で同意を示している。少女の笑みはいっそう深まり、その感情を表すように青年達と両手を繋いだままステップを踏んだ。
「っと、騒ぐとまたこけちまうぞ。」
「だ、だいじょーぶだよ!おにいちゃんたちがいるもん!」
 初めて出会った時のことを振り返って青年は苦笑し、そのことに少女がやや羞恥で目元を染めながらも信頼の証である言葉を返す。
 嬉しいはずのその台詞に、しかし青年は胸の痛みを覚える。それはこのところ鉛色の空や地面に積もった雪を見るたびに感じるようになったのと同じものだった。
 飛び跳ねる少女には「そうか」と普段通りの口調で返答しつつ、青年は少女にも古泉にも悟られぬよう心中のみで自嘲を漏らす。
(・・・俺が死ななきゃ、この子も死んじまうんだよな。)
 システムに関わる一部の者達を除いた全てが自身の命と引き換えられる立場にあるのだ。その自覚がこの冬に傾く世界と己の傍らで笑う相手により否応無く強まっていく。この少女も、共に街を移動したサーカス団の気さくな団員達も、立ち寄った商店で楽しげに世間話をしてくれた店主も、そして古泉も、決して失いたくはない。『世界』などという曖昧な存在ではなく、自分の傍で笑ってくれる彼らにこそ生きていて欲しいのだと、青年は強くそう思った。



* * *



 そして公演初日。その日は朝から雪がチラついていた。開場に合わせてホテルを出た青年と古泉は頭や肩に白色を乗せながら足を動かす。大通りを横切って少しばかり入り組んだ道へ。この街に着いてから本日まで、少女と会うために(少女も自分達も)通った道順だ。
 雪と時間帯の所為で周囲に人は居ない。しんと静まり返った世界にさくさくと二人分の足音が鳴る。きっかけを掴めなかったためか、ちょうどホテルとテントの中間地点に至っても二人の間に会話は無かった。無言でも心地のいい空間というのは確かにあり、また二人の間にそのような時が偶に存在したこともあったが、青年は今のこの状態を気まずく感じる。自分だけが無言の状況を過剰に意識しているのだろうか。
 それまでなんとなく同行者に視線をやっていなかった青年は、そこでようやく古泉の横顔を窺った。ホテルを出て以来、(こちらも会話と同じく)きっかけを掴めぬまま意識外に追い遣っていたその顔は普段よりも幾らか上を向き、進行方向ではなく空へと視線を向けている。何かあるのだろうかと青年も同じ方向を見ようとするが、広がっているのは先刻からずっと変わらない鉛色の空だけだ。
(一体何が―――・・・・・・・・・ああ、そうか。)
 古泉の整った横顔。しかしそこには現在、微笑ではなく憂いが宿っていた。それに気付き、青年は気まずさを保ったまま会話が無い理由を悟る。
 これまで古泉と過ごした期間の中、気まずい無言を体験しなかったのは、そうなる前に向こうから何かしらのきっかけを与えてくれていたからだ。言葉然り、動作然り。しかし今それが無いということは、古泉が他のことに気を取られて一時の雰囲気にまで配慮出来ていないということ。では、『他のこと』とは一体何か。―――それは古泉の視線を辿れば自ずと知れる。鉛色の重たい空。そこから降ってくる白く冷たいもの。世界の『死』の象徴。
 あまりにも簡単な解答だと青年の口元が微かに上がる。
「・・・・・・もう限界ってことか。」
「ッ!?」
 零れ落ちた呟きに古泉が息を呑んで視線を寄越した。見開かれた双眸から判るのは青年の考えが正しいということだ。青年が揺れるその視線に苦笑すると、古泉の顔が今にも泣きそうに歪められた。
「ぼく、は・・・っ、」
 震える唇から吐き出される息は白い。
 いつの間にか足は止まっており、T字路の手前で二人は互いを見据える。その対称的な表情は立場ゆえと言うよりも考え方や優先順位の違いかもしれない。もしくは『受け入れる』か『受け入れない』かの違いだ。
 しかし世界が得なければいけない結果も青年が得たい結果も同じものであり、それを古泉が覆すことは誰からも認められはしないだろう。
 だから、青年は、
「僕は、あなたを―――!」
「忘れるなよ、古泉。」
 動揺も露わに声を荒げる古泉に対し、その言葉を遮って、告げる。

「お前は『花白』・・・そして俺は、『玄冬』なんだぜ。」

 自嘲を含まない穏やかな声が青年の覚悟と意志を物語る。
 それを理解しても尚、納得など出来ない古泉が反論を口にしようとした、その時。
「・・・うそ。」
 どさり、と雪の上に座り込む人影。呟きを発したその人物は大きく目を見開いて青年達を見つめていた。
 曲がり角の向こうから現れたその"少女"が見知った人間であることと、今の青年の発言が聞かれたことに気付いて青年達の方もうろたえる。どうして彼女が―――共にこの街まで移動し、遊び相手にもなった少女がこんな所にいるのだ。
 青年達から向けられる視線の意味を悟ってか、少女がふらふらと立ち上がってどもりながら言葉を口にする。
「あ、あの・・・あたしっ、こ、公演前に、おにいちゃんたちに会いたく、なって!と、泊まってるところまで、むかえに、行こうかな・・・てっ!・・・あの、でも、今っ、」
 ―――キョンおにいちゃんが『玄冬』なんだって聞こえたよ。
 そう言い切った少女の顔は戸惑いを抱く隙すら無くはっきりと負の感情に歪んでいた。加えて喋りながら後退していたものだから、今や背中をぴたりと外壁につけて青年から精一杯距離を取ろうとしている。
 そんな少女の姿を見て青年は頭を鈍器で殴られたような衝撃を受ける。足元が覚束無くなりフラリと一歩前に踏み出してしまうと「ひっ!」と悲鳴が聞こえた。彼女が見ているのは最早『おにいちゃん』ではなく、世界を滅ぼすとされる存在『玄冬』だ。物心着く前から周りの大人達が語ってくれた物語――ただし現実に生きる――の登場人物。倒されなくてはならない悪しき者。生きていてはいけない者。この世界に生きる人間を永遠に続く冬の中に捕らえ、殺す者。
 恐怖と憎悪を全身で表して少女が叫んだ。
「来るな!来るな来るな来るな!・・・近寄らないで!この化け物!!」
「・・・っ、あ。」
 少女の拒絶に青年の古い記憶が甦る。彼女と重なるように現れた母親の幻は、少女と同じく汚らわしいものを見る目で青年を射った。胸を襲うのは痛みと、今すぐ蹲りたくなるほどの嘔吐感。青年の顔色は血の気が下がって青を通り越して白くなり、目は大きく見開かれて揺れ動く。
 そんな青年の様子に古泉の動揺は消え去った。今目の前に居るのは古泉の大切な存在である『彼』。そして『彼』を拒絶し、『彼』を苦しめる少女。何もせずこのまま少女を見逃せば、彼女は間違いなく他の誰かに「青年=玄冬」であることを教えるだろう。そうなれば一瞬にして青年はこの街の人間全員から追われる立場となり、また古泉自身は強制的に『玄冬』を討つ『花白』であることを強要されることになる。青年一人の思いだけならなんとか丸め込むことも可能だろうが、『世界』を相手にして古泉一樹と言ういち個人に一体何が出来よう?―――それこそ本当の終わり、だ。
「・・・そんなのは、嫌だ。」
 ぼぞりと呟かれた古泉の声は、興奮しきった少女にも動揺を露わにする青年にも聞こえない。その声に続く剣が引き抜かれる音もまた同じく。
 そして古泉が鞘から抜き放ち振り上げた剣は、その時になって自分に向けられた刃にようやく気付いた少女の胸を袈裟懸けに切り裂いた。
「古泉・・・っ!?」
 飛び散る赤に遅れて我を取り戻した青年がその名を叫ぶ。だが古泉の視線はそちらに向かない。その顔には惑いもいつもの如才ない笑みも無く、完全な無表情が貼り付いていた。
 古泉の足元にまで届いたのは少女から流れ出す赤い血液。雪に染み込んだそれがあっという間に範囲を広げ、少女の周りを凄惨に彩る。軽やかに跳ねていた細い手足は力無く投げ出され、微かな呻き声を放った後に彼女の双眸からは光が失われた。虚ろな瞳からは、恐怖ゆえかそれとも痛みゆえか、一筋だけ透明な雫が零れ落ちて暗い赤に混じる。そして瞼を閉じることも出来ず鉛色の空へ視線を投げかけるだけだ。
 雪の上で急速に冷えていく少女の亡骸と、斬りつけた時に飛び散った彼女の血で僅かに頬を濡らす古泉。その両者を前にして青年の喉はカラカラに渇き、痛みを訴える。何かを言おうにも思考は纏まらず、声はその乾いた喉の奥に張り付いて音にならない。どうして、どうして、どうして!叫ぶような問いかけが脳内で渦巻く。・・・が、解答などというものは既に理解出来ていた。己の立場も古泉の立場も、それに反して古泉が抱き始めている(もしくは既にしっかりと抱いてしまった)であろう想いも、青年は認識していたからだ。足らないのは古泉に対する共感とそれに付随して起こる「納得」の二文字。しかしながら青年がそれらを抱くには、大切にしたい対象とその守り方があまりにも違いすぎていた。
(古泉っ、俺は――――――)
 音にならない言葉が何かを語ろうとした時、青年の耳に雪を踏む足音が届いた。小さな音だったが、古泉も同様に気付いてピクリと反応する。足音がやって来る方向から推測するに、開場時間が近付いているにもかかわらず戻って来ない少女を心配して探しに来たサーカス団員の可能性もあり得る。また例えそうでなかったとしても、今のこのような惨状を他者に見かけられればどうなるか。それが解らない青年ではない。ゆえに未だ剣を鞘に仕舞っていなかった古泉が次にとる行動も、青年には予想出来たことだった。
「やめてくれ・・・!」
 人影が曲がり角の向こうから姿を見せた瞬間、剣先を前方に向けてその人物を刺し貫かんと地を蹴った古泉の背に青年の声が被さる。そして今度こそはと青年の両手も古泉の動きを止めるため伸ばされた。一瞬早く反応出来ていた青年の指はなんとか古泉のコートを掴み、そのまま彼が動けぬよう羽交い絞めにする。
 そこでようやく現れた男――やはりサーカスの団員だった――が自分に向けられていた刃に気付き、ぎょっと瞠目して足を止める。だが今の青年にはそうやって男が驚いたまま逃げることを忘れている状況を甘受することは出来ない。それほどまでの余裕など、無い。あまり意識していなかった古泉との体格差は、こうして力比べとなると歴然として青年の前に立ち塞がり、彼を羽交い絞めにしていられる時間など殆どないと知らせてくる。「放してくださいっ!」と鬼気迫る古泉の声が更にその考えを強め、拘束する手に限界まで力を込めて男へ叫んだ。
「早くッ!早く逃げろ!彼女みたいになりたいのかっ!?」
 青年の声により男の視線が一瞬だけ地面に向けられ、次いで幾らも間を置かずに引き攣った悲鳴を上げさせる。男の行動を停止させたと思わせたその惨状は、しかし彼を恐怖に落とし入れて本能のまま逃走させるには充分な威力を持っていた。
 ザッと汚れた雪を蹴り上げて背を向ける男。それに僅かでも安堵してしまったのが悪かったのか、気付いた時には青年の手から古泉の身体が離れていた。否、その映像は青年の脳内が作り出した「予想図」だったのかもしれない。何故なら逃げ去る男の背を青年が認識した直後、容赦の無い力が腹腔を抉り――古泉の肘が打ち込まれたのだ――、込み上げる嘔吐感に腰を折ってしまったからだ。しかもそれだけでは終わらず、「すみません」という声が上から降って来たかと思えば、首筋に衝撃。そのまま青年は意識を失い、まだ汚れていなかった白雪の上に崩れ落ちる。
「僕はあなたを失いたくない。」
 気絶した青年を一瞥し、古泉が走り出す。右手に握られた剣が二人目の血で刀身を濡らしたのは、それから程なくしてのことだった。



* * *



「うっ・・・」
 小さな呻き声と共に青年が目覚めたのは、(青年は起きたばかりで判らなかったが)あの街から馬の足で半日ほど離れた街道の外れだった。あの後、目撃者である男を屠ってから古泉が青年の元に戻り、無断拝借した小さな荷馬車に気絶したままの青年を乗せてここまで逃げて来たのだ。ただし殺人と関連しているなどとすぐに知られなくとも、盗難で追っ手が掛かるのは予想出来たことであり、そんな追っ手を多少なりとも撹乱するため、青年が目覚めて荷馬車を降りてすぐ、古泉によって馬は解放された。空っぽの荷台を付けたまま馬は何処かへ去って行き、残されたのは青年と古泉の二人だけ。
 太陽は既に頂点を通り越していたが、雲に切れ間が生じていたため今朝よりも明るい。キラキラと光を反射する白の中、青年は鈍い痛みを抱えたまま古泉を睨み付けた。
「・・・なんで、殺した。」
 理由を問うためではない。無実の二人を手に掛けたことに対する糾弾だ。
 古泉も求められた回答が殺人の理由でないことには気付いており、しかしながら青年の思考を完全には理解せず――否、もしかしたら理解した上でわざと――求められたものから僅かに外れた答えを口にする。
「世界が耐えられる殺害数のことならご心配なく。僕は、殺しても罪にならない人間、ですよ。僕が人を殺しても世界には何ら影響ありません。」
「・・・ッ!システム上の問題じゃない!世界がどういう仕組みになっていようが、人を殺すことは罪だ!やっちゃいけないことなんだよっ!」
 笑顔のまま何でもない風にそう語る古泉の態度に、青年の目の前が赤く染まる。そして古泉の想いに薄々勘付いていながら「それ」を口にしてしまった。
「そうやって他の人間を殺すなら、さっさと俺を殺せばいい!『玄冬』である俺を!!」
「っ!あなたという人は・・・!どうして解ってくれないんですかっ!!」
 激昂する青年に釣られ、古泉までもが顔を朱に染めて双眸を吊り上げる。その手は青年の襟首を掴み上げ、悲哀と理解が得られない故の怒りに濡れる瞳を間近にさせた。だがその程度で怯むわけにもいかず、青年も負けじと声を荒げて力一杯相手を掴み返す。
「俺を殺せよ!『玄冬』を殺せ!お前はそのために今まで生きてきたんだろう!?なあ、『花白』っ!そして世界を生き長らえさせてみせろよ!」
「嫌だ!僕はあなたを殺さない!あなたを殺すくらいなら、この世界を殺してみせる!!」
「お前は・・・っ、もういい!!」
 ばっと手を放し、青年は古泉から距離を取る。そして己の腰に吊るしていた剣を鞘から抜くと、
「もう二人も目の前で死んだんだ。あと一人分の余裕くらい、残ってるだろ?」
 口元を歪ませ、その剣を自らの首筋に宛がった。古泉が総毛立ち、その凶行を止めるために手を伸ばす。が、間に合わない。
「怖がらずに最初からこうすれば良かったんだ。」
(迷ってないで。他人任せになんかしねえで、さ。)
 噴き出す、赤。崩れ落ちる身体。
 首筋から大量の血を流し、そうして青年は、死んだ。






















(2009.03.01up)















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