「まさかキミまでついて来るとはね・・・」
呆れ半分で呟かれた言葉は青年と共にこの場所へと転移してきた古泉に向けられたものだった。 床には先刻まで居た冷たい石の牢屋とは正反対の、毛足の長い上等な絨毯が敷かれている。窓の外を覗けば、見えるのは遥か下方に広がる針葉樹の森―――ここが随分と高い位置にあることが判った。 「ま、いいや。」 キョンがキミの手を掴んじゃってたんだからしょうがない。そう言って二人を連れてきた人物―――黒鷹は肩を竦める。そして貴人のように胸に手を当てて優雅に一礼すると両手を広げて笑った。 「『管理者の塔』へようこそ、お二人さん。とりあえずここには僕の結界が張ってあるからね、そう簡単に追っ手が侵入することはないはずだよ。」 * * * 管理者の塔。 青年と古泉を連れて来たこの場所のことを黒鷹はそう紹介した。とは言っても、細かな説明がなされる前にやはりまだ体調が万全ではなかった古泉が熱を出して倒れてしまったため、話は中断。慌てて彼をベッドの在る部屋に運ぶなどというハプニングが発生したのだが。 そして現在、青年は古泉が寝かされたのとはまた別の部屋で黒鷹と相対していた。 腰を下ろしたソファは随分と質の良い物で、滑らかな手触りと共に青年の身体を受け止めている。正面には湯気の立つ紅茶が乗ったローテーブル、その向こうに青年と同じくソファに座った黒鷹がいて、にこにこと笑みを浮かべていた。 「そう緊張しないでよ。僕はキミに危害を加えたりなんかしない。」 「証拠は?」 端的に訊き返す青年に対し、黒鷹は肩を竦めて答える。 「そうだねぇ。キミ達を牢屋から助けてあげたでしょ?・・・なんてことは、そう大した証拠にはならないだろうね。キミの知らない事情がめいっぱい渦巻いていることくらい、あの会話でも解っただろうし。僕としては、キミが過去のことを思い出してくれるのが一番楽で手っ取り早いんだけどね。」 「過去のこと、か・・・」 青年が失った記憶を取り戻すことで目の前の人物を信用するようになる。黒鷹が言ったのは、つまりそういうことだ。しかしどうやらこの人物と浅からぬ繋がりを持っていることには気付いていても、それが何なのか具体的にはさっぱり判っていない青年に、彼の言葉が実感を伴って届くことは無かった。ゆえに青年は眉間に皺を寄せて訝ることしか出来ない。 「そう。過去のことだよ。」 こちらの険しい表情とは逆に、黒鷹は口元をゆっくりと持ち上げて相手を見つめる。視線に含まれるのは優しさと愛しさ、それからほんの少しの悲しみ―――そう感じ取ってしまったのは、青年の気のせいなのだろうか。 「ねえ、キョン。」 名前すら思い出せない青年の呼び名らしい呼称を口にして黒鷹が微笑む。 「キミは忘れてしまったようだけど、小さかったキミを拾って育てたのも僕なんだよ。」 「え?」 「ふふ、そんなに驚いた顔しなくても・・・。住んでた場所はここじゃないけどね。この塔は僕の『職場』みたいなものだから。ま、そんなことはさておき。一緒に住んでたのは本当だよ。小さい時に捨てられたキミの養父みたいなものになったこともね。」 「そうは言っても、お前、俺とそう齢も変わらんように見えるぞ。」 「こう見えても僕って結構お年寄りなんだ。なんたって『管理者』だからね。そうそう簡単に年食ってヨボヨボになるわけにもいかないよ。」 何でもない風にそう言い、黒鷹は己が人間であることをあっさりと否定した。牢屋であの軍人に告げた台詞からも薄々察することは出来たが、やはり記憶が欠けた青年の"常識"を逸脱している存在であるらしい。 「・・・で、その『管理者』ってのは一体何なんだ?玄冬―――俺のことについてもかなり深く関わっているように思えるが。」 「まあね。・・・それはそうと、キョン。僕の前で自分のことを『玄冬』って呼ぶの、やめてくれない?」 そう告げると同時に、にこにこと微笑んでいた双眸がスッと細くなる。一瞬で不機嫌さを身に纏った黒鷹の態度に青年の背を冷たい汗が伝った。 「記憶が無くてもこれまでの中で色々聞いたんでしょ?玄冬っていう存在が世界にどういう認識のされ方をしているのか。・・・そう、玄冬はこの世界に生きる人間にとっての悪だ。そして――世界の仕組みの深くまで関わってる人間はまたほんの少し違った見方もしてないわけじゃないけど――やっぱり滅ぼすべき対象としてしか見ていない。」 「知ってる。でもそれがどうかし「だからだよ。」 青年の言葉を遮り、黒鷹はきっぱりと告げる。 「記憶があろうと無かろうと、キミを育てた僕の前でそうやって自分を貶めないで。僕はそう言ってるんだ。」 キミを貶めることは、キミ自身ですら許したくない。 そう強い声音で告げて黒鷹は瞼を下ろした。射るような視線から外され、青年は無意識のうちに詰めていた息をゆっくりと吐き出す。 そんな変化に気付いていたのか、黒鷹は僅かに口端を持ち上げて苦笑を漏らした。 「っとまあ、お説教は控え目にして。管理者のことだね。―――当事者であるキミには一度話したことなんだけど、」 そう前置きをして始められた話は、雪が降り続く世界や黒鷹が使った不可思議な移動術を見ても尚、簡単には信じられない(けれど信じるより他がない)ものだった。 曰く―――。 この世界はある人物によって作られた物の一つでしかない。幾つも幾つも作られた世界の中の一つであるここでは、人が人を殺すことにより罪が蓄積し、規定値を越えればその罪によって滅ぶよう予め設定されている。しかしそんな絶望的な『システム』にも救いはあり、それが『玄冬』と『花白』。玄冬は人の罪でもってこの世界に生成され、殺されることによりそれまでの人々の罪が一度リセットされるのだ。ただし玄冬を殺害する際に殺人の規定値が超えてしまっては元も子もない。よって唯一殺人を許された花白もこの地に生を受け、玄冬の殺害を使命とする、と。 また玄冬には『黒鷹』が、花白には『白梟』が付き、各人の成長を見守り、また時にはその進むべき道を示す役目を負っているのだと言う。ただしいくら創造主から与えられた役目があると言っても、黒鷹も白梟も感情を持った個体だ。ゆえに今のような――白梟は玄冬を殺して世界が存続する道だけを望み、対して黒鷹は各個人の意志と比べて世界の行く末にそれほど執着を持っていない――状況が生まれているのである。 「彼女・・・『白梟』は我らが創造主殿のことを異常なほど好いているからね。創造主が作った世界を是が非でも存続させたがっているんだ。―――それにこの世界を保ち続ければ、ここから去ってしまった創造主がもう一度戻ってきてくれるかも知れないと思っているから。」 そう言って黒鷹は言葉を終えた。無駄なことなのに、と音も無く付け足されたと感じたのは青年の気のせい・・・とは言い切れない。が、こちらが口を挟むことではないと判断して青年は気付かなかったことにする。理由は、そう告げた黒鷹の表情が苦々しく、また同時に哀れみを含んだものだったからかも知れない。 「・・・・・・まあ、理解はした。実感を得られたかと訊かれれば、否、としか答えようがないがな。」 「だろうね。」 青年の返答に黒鷹は肩を竦めて笑い、次いでソファから腰を上げた。 「でもま、とりあえずキミを含むこの世界の背景はそんなところかな。ただし一つ、僕から言わせてもらうとすれば、」 扉の方に足を向けながらそう言葉を切り、黒鷹が目を眇める。訝る青年を僅かに茶色がかった瞳に映して彼は静かに呟いた。 「世界にとってはどうか知らないけど、キョンは死ぬために生まれてきたんじゃないよ。それだけは、覚えておいて。」 黒鷹が去り、一人取り残された室内で、青年はぽつりと呟いた。 「死ぬために生まれてきたんじゃない、か―――」 記憶が失われているためか、今はまだ己の死が世界に必要とされているというしっかりとした実感は沸いてこない。しかし短い期間の中で玄冬だと恐れられた経験を持ったからには、こうして誰かに己の生を肯定されることを嬉しいと思う。ただ、その言葉を告げた本人の表情があまり気軽とは言えない――どころか、ひどく悲しげであった――ことを考えると、記憶を失う前の自分の行動に「もしかして」と思うところがあり、何とも言えない気分になるのも事実だった。 かつての自分は己の死を望んでいたのだろうか。 それほどまでに自己犠牲の精神を持っていた、とは思わない。今の己からすれば。と言うことはつまり、忘れてしまった記憶の中に青年をそこまで走らせる何かが存在していたと推測出来ないだろうか。 「・・・想像、できないな。」 片腕を持ち上げ、手の平で照明の光を遮る。指の隙間から零れる暖色系の光に目を細めながら、青年は苦笑を浮かべた。 と、その時だ。それまで青年一人だった部屋の中にもう一つ、見知らぬ気配が増えたのは。 「誰だ。」 「そう警戒しなくてもいいんじゃない?」 声は意外なほどすぐ傍から。青年が慌ててソファから立ち上がって振り返ると、その背凭れに腕を預けるような格好で一人の少女がこちらを見つめていた。 「別にあんたを害そうなんて思っちゃいないわ。」 笑う、その姿。どう見ても少女だ。年の頃は十代半ばと言ったところだろう。可愛らしい部類に入る整った顔立ちに淡い笑みを浮かべ、その少女は青年に黒い瞳を向けている。場所がこんな変わった所でなかったら、そして気配が一般人のそれであったならば、青年は特に警戒することもなく彼女と接することが出来ただろう。しかし現実は違う。彼女は突如としてこの部屋に現れ、声をかけ、加えてその気配はどこか『人間』と違っていた。黒鷹に似ているかも知れない、という考えが浮かんで青年は眉根を寄せる。 (それから―――) 気配に次いで、もしくはそれ以上に気になったのは、彼女の瞳の色だ。勿論、ただ単なる色彩のことではない。黒い瞳の奥に渦巻く得体の知れない何かがある。しかし深く探ろうとしていた己を本能が止めた。知ることは危険である。飲み込まれてしまう、と。 瞳と同じ漆黒の髪を揺らして少女は青年に一歩近付く。 「なん、だよ・・・」 「だからそんなに警戒しないでってば。あたしはただ、あんたがどうも記憶を取り戻したがっていそうだったから、その手伝いをしてあげようと思っただけ。」 「記憶を取り戻す手伝いだと?」 「ええそうよ。」 にこりと笑って――だが、あの瞳だけは変わらない――少女が答えた。 「別に望んじゃいないって言うなら放っておくし、あたしとしてはどっちでも構わないんだけどね。この世界に残された『創造主の残滓』としては、やっぱり何か出来ることをやってもいいかなぁとは思ったりするわけよ。」 「創造主の、残滓・・・?」 創造主とはあれか、黒鷹の話にもあったが、「この世界の」と言う意味か。そして彼女はその残滓―――残りカス? 眉根を寄せる青年に少女は頷く。青年達が暮らす世界を作った本人はこの『失敗作の世界』を既に見限っており、おそらくは別の新しい世界を作っている。もう二度とこちらに姿を見せることなどないだろう。しかし残滓である己はこの地を離れられないし、元よりそんな意思も無い。ただ思うように、存在出来る限り存在しているだけだ、と。 「それで、俺が記憶のことで頭を悩ませていたから、気まぐれにその手伝いをしてやろうと?」 「まあそんなところね。でもあたしだって、誰にでも手を差し伸べてやろうなんて思わないわ。あんたは・・・そうね、特別、かしら。」 「玄冬だから?」 「いいえ、逆よ。」 青年が放った(無意識ながらも)自嘲の言葉は、創造主の残滓を名乗る少女によって即座にかつ端的に否定された。だがその意味が解らない。玄冬だから特別なのではなく、特別だから玄冬であるとは一体どういうことなのか。 「ごめんね、答える気は無いの。あんたが知ったってどうにもならないことだし。―――そんなことより、記憶よ記憶。どうするの?思い出したい?それとも思い出したくない?」 ぱっと話題を元に戻し、少女はそう問いかける。特別と言う意味の答えを受けられないと悟った青年も、それに合わせてとりあえず思考を切り変える。記憶を思い出すべきか、出さざるべきか。(前提として彼女が本当に記憶を甦らせることが出来るのか否かというところは、おそらく彼女の人に在らざる存在全てが保証している。) 「・・・記憶を思い出したら、俺は死にたくなったりするんだろうか。」 「さあね。それは今のあんた次第なんじゃない?でもあんた、実のところ何も思い出せないまま宙ぶらりんなのも嫌なんでしょ?」 「確かに、な。」 それは認める。己が玄冬であり、世界に死を望まれていることは理解しているが、それに感情が追いついていないのだ、今の青年は。だから酷くその足場は不安定で、どうにも居心地が悪い。 短く、かつぎこちなくそう答えた青年に、少女は「それじゃあ」と言葉を発して一歩近寄った。 「記憶を取り戻すとしましょうか。・・・大丈夫よ、すぐに済むから。」 にこりと笑い、少女がこちらに手を伸ばす。視界を覆うように手の平が顔へと被さり、視界が黒く染まって―――。 (ああ、そうか。) 意識が薄れる寸前、青年はようやく思い至った。己の記憶に関することではない。ただ、理解したのはこの不可思議な少女のこと。彼女を構成する要素のうち殊更異様に感じたあの目に宿っていたのは、果てしない『狂気』だったのだ、と。(その理由を考える間も無く、青年の意識は失われてしまったのだが。) |