古泉が倒れてから一夜明け、青年はぱちりと目を開けた。ベッドの傍らの椅子に腰掛け、そのまま目前のシーツの海へとうつ伏せになるような形で眠っていたため、背中がギシギシと悲鳴を上げる。だが、ふと視界に入った連れの体調は悪くないようで、そのことに安堵の息をついた。
彼が自然に目覚めるまでそうっとしておこう。そう思いつつ青年はなるべく物音を立てないよう立ち上がり、昨夜古泉に薬を飲ませてから少女に案内してもらったこの屋敷の食堂へ向かう。途中で青年を迎えに来たと言うその彼女と一緒になり、古泉の様態がマシになったことを告げれば、無邪気な喜びが返って来た。 「今日はね、あたしもママのお手伝いして作ったんだよ!」 両目をキラキラさせてそう言った少女が示す先には、テーブルの上に広げられた朝食。パン、スープ、ハムエッグ、サラダ、それからデザートはフルーツにヨーグルトをかけたものだろうか。他にも色々と用意されて食卓を彩っていた。食料が足らなくなってきているこのご時勢のことを考えれば充分過ぎるほどだ。 驚きが表に出ていたのか、青年の顔を見上げた少女は少々照れくさそうに胸の前で手を組む。 「今日はお兄ちゃんたちがいるから特別ね。・・・もう少ししたらパパも来るから一緒に食べよ!ね!」 「ああ、本当にありがとな。」 「えへへっ、どういたしまして!」 照れたように頬を染めるその愛らしい笑顔に、青年は、 「・・・っ、」 突如、頭を針で貫かれたかのような鋭い痛みに襲われ、咄嗟に手でこめかみを押さえた。 「おにい、ちゃん・・・?」 「・・・なんでも、ない。心配するな。」 鋭い痛みの後に、じくり、と何かが溢れ出しそうな鈍いそれが続き、声を殺すために奥歯を噛み締める。しかし痩せ我慢は通用せず、少女が浮かべるのは戸惑いと不安の表情だ。 「お兄ちゃんもどっか悪いの・・・?だったらちゃんと休まなきゃ、」 そっと背中に添えられる手は小さくて儚い。己の手で握り潰すことさえ出来そうな少女の手の温もりが服越しに伝わったように感じて――― (ぅ、ぁ・・・・・・) 青年が知覚したのはぞっとするような寒さ。背筋を凍らせる痛みにも似たそれに、青年は今度こそ床に膝をついた。 直後、脳裏に閃いたのは見覚えの無い映像。雪の上に立つ誰かと、その足元に横たわる血塗れの、少女・・・? 「・・・ッ!」 「お兄ちゃん!!」 透き通った高い声。幼い喋り方。明るく、けれど控えめで優しい笑顔。小さく暖かな手の平。雪の上で飛び跳ねる姿。揺れる髪。―――その持ち主を知っている。でも知らない。自分が知っているのは目の前の彼女ではない。だが彼女しか知らない。 (なん、なんだよこれは!) 次々と現れては消えていく何かの光景と渦巻く感情に青年は心の中で絶叫した。 「おにいちゃ「その男から離れなさい!」 「・・・パパっ、」 青年達が入ってきた方とは別の扉――この食堂には立派な扉が二つもついていた――から新しい人影が現れる。口髭を生やした壮年の男性だ。少女の台詞から彼女の父親であろうことは推測出来るが、その男性の表情は病人を見て慌てたものと言うよりももっと危機感と焦りに溢れたものだった。 「なに言ってるのパパ、はやくお兄ちゃんを助けてあげなきゃ・・・」 「いいから離れなさい!その男は危険だ!!」 少女を見つめる・・・否、青年を睨み付ける父親の目は敵意に満ちていた。 彼が声を荒げてから徐々に頭痛は治まってきているものの、まだいくらか辛い状況にあった青年はそんな相手の様子をうっすら開いた双眸で眺めやる。どうしてそんな目で見られているのか、と。 (・・・でもそう言えば、俺たち国に追われてるかも知れねえんだったっけ。) それが原因なのだろうか。 今の自分に悪事を働いた記憶は無くとも、それ以前のことなど全く知らない。古泉は「あなたは何も悪い事なんてしてませんよ」と言ったけれど、その言葉を簡単に信じられるほどお人好しでも楽観主義者でもないのだ、自分は。 痛みの中でそう考える青年に、しかし少女の父親は最後の手段とばかりに別の(もしくは同じ意味合いの)答えを叫んだ。 「そいつは『玄冬』なんだぞ!!」 「・・・え、」 小さな呟きは青年のすぐ傍から。 視線を動かせば、優しく添えられていた小さな手が怯えるように引っ込められるところだった。そして青年が訝しむうちに、少女の顔が見る見る青褪めていく。 (ああ、確か『玄冬』ってのは世界を破滅に導く悪者、だったか。) 記憶は曖昧だったが、それを教えてくれた時の少女の笑顔は覚えている。救世主様が玄冬を倒して世界にもう一度春を呼んでくれるのだと、希望に満ちた瞳で語ったあの出来事を。 (・・・で、俺がその『玄冬』だって?) そんな馬鹿な、と胸中で一笑する。だが状況はそれを許さない。 ふらつく身体で立ち上がった青年の耳にまず入ってきた音は、「ひっ・・・」と引き攣った声を出して数歩後ろ――自分達が入って来た扉がある――に下がる少女のそれ。次いで意識が向いたのはもう一つの扉の向こう側でバタバタと複数の人間が騒ぐ気配。聞き間違いでなければ「警邏隊を呼んでくる!」と叫んだ人間もいるはずだ。 「あなた、どうしたの?」 心配そうに揺れる声は男性の背後から。遅れて食堂に入って来た少女の母親はまだ状況が飲み込めていないらしく、眉を下げて夫と青年を交互に見る。 そんな様子の妻に男性は懐から一枚の紙を取り出して掲げた。そして告げる。 「昨日の夜、王都から手配書が回ってきた。間違いなくその男が『玄冬』、世界を破滅に導く悪魔だ!」 「彼はそんな人間じゃない!!」 「古泉・・・!」 続いて現れ、男性の言葉を否定したのは臥せっているはずの古泉だった。青年の目が驚きに見開かれ、まだ本調子ではないらしい連れの姿を捉える。 「貴様は何者だ!玄冬の仲間か!?」 「はっ、この人の顔を知ってるくせに僕の顔までは知らないんですね。」 嘲笑を浮かべ、古泉は吐き捨てた。その意味を青年が理解することは出来ない。 古泉がチラリと視線を斜め下に向ける。そこにいたのは青年を恐れて後ずさった少女だ。彼女は自分に冷たい色の双眸が向けられているのを知ると、ビクリと肩を震わせて古泉からも離れようと片足を退く。しかしまるでそれが合図であったかのように、古泉の腕が少女の首を絞めるように伸ばされ、小柄な身体を引き寄せた。 「いやっ、離して!!」 「わたしの娘を離せっ!!」 少女の父親は喉が裂けるほどの声で叫び、古泉を睨み付けた。横で彼の妻が顔色を失っている。その様子を青年は己だけが取り残されたような感覚のまま眺めていた。唯一出来たことと言えば「古泉・・・っ、」と連れの名前を呼ぶことだけだ。 決して声は大きくなかったのだがきちんと聞こえたらしく、古泉の意識が青年に向いた。そして捕らえた少女と交互に見やってからまだ少し荒い息で呟く。 「彼女は人質です。僕が時間を稼ぐ間にあなたは逃げてください。まだ捕まるわけにはいかないんです、僕達は。」 「だが・・・!」 「行ってください!早くしないと本当に逃げられなくなる!!」 少女の両親が居る方の扉、その向こう側を見通すようにして古泉は叫ぶように懇願した。しかし彼の言う通り青年が逃げたとしても、古泉自身はどうなるのだろう。恐怖で足が竦んでいる少女など逃げる時にはただの足枷にしかならない。もうすぐ警邏隊までやって来ると言うのに、それでは古泉が捕まってしまうではないか。 その戸惑いが顔に現れていたのか、古泉は一瞬だけ嬉しそうに表情を緩ませると、次いで悲しげな笑みを浮かべた。 「僕は大丈夫ですよ。」 「何を根拠に!」 「いいから早く。僕と共に居る方があなたにとっては危険ですしね。」 「な、に。」 最後の言葉は音にされず、聞き取ることは出来なかった。口もほとんど開かれなかったために、そこから台詞を予想することも不可能だ。眉根を寄せる青年に、古泉がもう一度告げる。 「お願いです。早く逃げてください。でないと―――」 警邏隊が来てあなたを捕まえてしまう、と古泉が口にしたのとほぼ同時に扉の向こうからバタバタという沢山の足音が聞こえてきた。そして、 「玄冬!無駄な抵抗は止めて大人しく我々の指示に従え!」 「ちっ、」 古泉の舌打ちが聞こえる。 その視線の先、姿を見せたのはまるで真っ白な雪に逆らうかの如く、黒に近い濃い色の制服を身に纏った警邏隊の人間達だった。 □■□ 玄冬が捕らえられた。 その情報が王国第三兵団の元に届いたのは、行方を眩ませていた『花白』及び『玄冬』の探索を一先ず中止し、王の命令に従って王都へ戻ろうとしていた時だった。 救世主『花白』が『玄冬』を倒すことでこの世界を永遠の眠りにつかせんとする雪を融かすことが出来る。それは母親が子供に寝物語として聞かせる御伽噺などではなく、かつて本当に起こった出来事だ。事実、今の第三兵団隊長は先代『花白』の血を引く人物だった。 それ故にと言うわけでもないが、近隣諸国においてもその強さが知れ渡る兵団の長を任されていた男は、近々勃発するであろう隣国との戦いに向けて王都に引き返すべく準備をしていたのを一時停止し、齎された知らせに小さく鼻を鳴らした。武官よりも文官に似た雰囲気を出す眼鏡を指で押し上げ、位置を直す。 「なら、最初の任務を優先すべきなんだろうな。」 「そちらの方が我々にとってもありがたいことですしね。」 補佐官である女性がうっすらと微笑んでそう答えた。彼女の意見に隊長も同意を返す。 自分達が最初に与えられた命令は『玄冬』を探し出し、『花白』に殺させること。世界の終焉を止めるにはもうそれしか手段が残っていなかったからだ。しかしながらこの世界は最初から滅びるまでの時間を設定されていたわけではない。この終わりは自分たち人間が何年も掛けて導いてしまった結果だった。 一部の者達しか知らないことだが(正確には、長い時が過ぎる間にほとんどの人間が忘れ、今ではただの御伽噺か噂話だと思われてしまっていることだが)、この世界では人が人を殺すことによってカウントが刻まれる。一人殺されるたびに一つ、数が減っていくのである。そして全てがゼロになった時、世界が滅ぶのだ。しかし、その過程で――― 「限界間近まで人間が殺された時、この世界に『玄冬』が生まれる。『玄冬』は人々の罪の証というわけだ。」 「ええ。そして彼を救世主――人殺しのカウントダウンに含まれず、唯一殺人を許された人間――が倒すことで、世界は罪を浄化され、永遠の冬から抜けることが出来る。『玄冬』を背負わされる人間自体には何の罪も無いと言うのに。酷い、話です。」 「まったくだ。」 王都では決して口に出来ない言葉をひっそりと呟きながら、かつて先祖がその救世主であった男は言葉を続ける。 「王も・・・あの方も今更隣国と戦争を始めるなどと、一体何を考えておられるのやら。この雪を見て何も感じないのだろうか。世界にはもう争いで人を失えるほどの余裕なんて残っていないと言うのに。」 「だからこそ『玄冬』を捕らえるために動く方がいいんですよね。」 「・・・ふっ、例えどれだけ哀れに思っても世界の終わりと人間一人の命を天秤にかけるわけにはいかんさ。」 世間一般のように詳しい理由も知らずただ悪の権化だと玄冬を恐れるだけではなく、その真実を知る者の一人として、隊長である男は自嘲に満ちた笑い声を漏らした。補佐官の女性は何も言わない。ただ、そのまま空を見上げる上官の視線を追うだけだ。 天を仰いだ隊長が鉛色の空に切れ長の双眸を狭める。 「もうじき、雪が降るな。」 |