人々が殺し合わない、そんな世界が欲しかった。
 だから何度も何度も創っては見守り、壊し、見捨ててきた。
 でも未だあたしの欲しい世界は生まれてこない。
 ねえ、いつになったら優しい世界が出来上がるの?
 人が人を傷つけない、殺さない、世界が。


 ―――ああ、そうか。
 生きたいのなら絶対に殺してはいけない世界・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・を作ればいいのよね。
























(ここは・・・どこ、だ?)
 頭の片隅に僅かに残る鈍痛を感じながら青年は目を開けた。視界一杯に広がるのは鉛色の空とそこからふわふわと舞い降りてくる白。ああ雪か、と呟きながら青年は瞬きを一つ。地面と言うより雪の上に仰向けのまま、指先の感覚を確かめるように拳を作っては開く。悴んだ指先は鈍い痛みを訴えてくるが、そう気にすることでもないだろう。このくらい、雪が降り始めたこの世界ではすでに日常的なものだ。
 と、そこまで思い出して青年は首を傾げた。
(そもそも俺は誰だ・・・)
 思い出せない。
 名前は?経歴は?こんな所で気を失っていた理由は?
 次々と溢れ出す疑問に、しかし青年は何一つ答えを見出せない。雪ではない冷たさに身体の中心が侵される。ここは、俺は、何故、どうして、誰か、指先の感覚、白い雪、世界、コート越しに奪われる身体の熱、鉛色、ひらひら、ふわふわ、冷たい、頬に触れては消えてゆく、眦に触れる、水になってこめかみまで伝う、雪だ、そう雪、ユキ、ゆき、ゆき!

「おや、ようやくお目覚めですか。」

 押し寄せるイメージに狂いかけた青年の思考を穏やかな声が撫でる。何故かその一瞬で落ち着きを取り戻した青年は、雪の上に寝転がったまま声の方に視線を向けた。
(誰だ。)
 雪雲の淡い光を受けてこちらを見下ろす人物。一言で言えば美形、だろうか。自分と同じ年頃と思われる色素の薄い髪を持つ男をひたと見据えて青年は数度瞬きを繰り返した。全く記憶にない人間だったからだ。とは言っても、今の自分は己の名前さえ思い出せない体たらくではあったが。
「どうかしました?」
 不思議そうな顔をしていたためだろうか、如才ない笑みを浮かべた男が首を傾げる。その顔が微笑を浮かべたまま固まったのはきっと青年の台詞が原因だったに違いない。
「お前は、誰、だ?」



* * *



 男は古泉一樹と名乗った。だが青年の頭にその名前は記憶されていない。そもそも自分のことすら覚えていないのだから、他人のことなど尚更だろう。
「・・・雪で滑って転んで頭打ちましたもんねえ。それはもう盛大に。」
 困ったような、笑っているような、微妙な表情で美形の男―――古泉がしみじみと呟く。それにしても記憶喪失の原因が雪で転んだから?なんと情けない理由だろう。
 自然と眉間に皺が寄り、それを古泉に指摘される。ほっといてくれ、と返せば、跡が付いて困るのはあなたですよ、と笑われた。
「と言うかお前は一体誰なんだ?・・・いや、名前は聞いたが・・・どうして俺とお前はこんな所にいるんだ?旅でもしているのか?」
「ええ、まあそんなところですね。ちなみに僕はあなたの旅の仲間であり、僕の自惚れでなければあなたの友人でもある。今のあなたにとっては全く知らない赤の他人でしょうが、どうかそう警戒せず僕を頼ってくださると嬉しいですね。」
 にこりと人の良さそうな笑い顔を作る古泉。だがそれに違和感を覚えたのは何故だろうか。
 青年は内心首を傾げながらも、それはきっと知人が記憶を失って男の方も混乱しているためだろうと片付けた。それよりもまず、優先すべきことがあったのだ。
「なあ、」
「なんでしょう?」
「・・・その、俺の名前、何だっけ。」
 ぼそりと呟かれた疑問に、古泉はしばらく沈黙した後、優美な曲線を描いている眉をハの字に下がらせた。
「それすら忘れてしまったんですね・・・。」
 残念がっているような台詞であるはずなのに、どこか安堵の色があると感じたのは間違いだろうか。指先に出来たささくれのように、小さくも決して無視出来ない違和感に青年は首を捻る。だがそれを拭い去るかの如く古泉が楽しげに口端を吊り上げた。
「それじゃあ、その答えは秘密ということで。」
「なっ・・・!なんでだよ!」
「だって僕に教えられてばかりじゃ、ねえ?少しでも早く記憶が思い出せるよう、あなたの名前に関してはあなた自身の課題としましょう。」
「はあ?だったらお前、これから先俺のことなんて呼ぶつもりなんだよ・・・」
 うんざりした心地で呟く青年だが、次いで見てしまった古泉の表情にハッとする。
「こい、ずみ・・・?」
 視線の先に立つ男は泣く直前の子供のような表情で青年を見ていた。理由は解らない。だが甘い言葉がさぞ似合うだろうその口が音無き声を呟いているのは、なんとなくだが判った。
(まだ、ぼくと、いっしょに、いて、くれるんですか・・・かな。)
 正解は不明だ。しかし青年には古泉がそう告げたように思えた。そして胸の中に小さく怒りにも似た感情が生まれる。どうしてそんな風に自分と旅を続けることに驚いているのだ、と。まるで青年がここで旅を打ち切ってしまうことが当然だとでも言うのか。訳も分からず苛立ちが身体を駆ける。
 しかしそんな感情も古泉がすぐさま表情を取り繕うことで薄れてしまった。先刻までの様子こそが一瞬の幻だったのではないかと思わせるほど、古泉の取り繕い方は上手かったのだ。
「・・・?どうかしましたか?」
「い、いや。なんでもない。」
 穏やかな微笑を湛えて訊いてくる古泉に、思わず青年は首を横に振ってそう答える。それでますます、先程の古泉の表情が幻のように感じられた。
(気のせい、だったのかね。)
 ひっそりと呟く。
 僅かに身じろげば、腰に吊った剣――これは町の外を旅するなら標準的とも言える装備だ。古泉の腰にも装飾用と実用の中間を行くような剣が吊られている――がベルトの金具と擦れてカチャカチャと音を立てた。
「ふふ、こんな所に突っ立っていては風邪を引いてしまいますね。もう少し行けば町が見えてくるはずですから、今日はそこで一休みすることにしましょう。」
「あ、ああ。わかった。」
 穏やかな雰囲気に促され、青年は頷く。そして二人は雪原の上を歩き始めた。






















(2008.09.23up)















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