ネ バ ー エ ン ド #14
最初に感じたのは消毒液の匂い。視界は闇。それが瞼を閉じているためだと気付いて土御門元春はゆっくりと両目を開けた。 「ここ、は……」 長い間眠っていたのか、声が酷く掠れてしまっている。 真上を向いて寝ていたので最初に見えたのは真っ白な天井。照明が抑えられている所為でやや薄暗いが。それからほんの少しだけ首を左に向けると窓があり、カーテン越しに薄い青色の空が見えた。朝の早い時間帯なのだろう。なんとなくそう思い、今度は首を右側に向ける。すると視界に入ったのは――― 「舞夏……?」 自分の今いる場所がどうやら病院である事は匂いや部屋の感じから判っていた。しかもどうやら個室。そして部屋に椅子を持ち込んみ、そこに座った体勢のまま義妹が布団に頭を預けて眠っている。しかしながら眠りは浅いものだったらしく、土御門がゆっくり上半身を起き上がらせると、彼女も釣られて目を覚ました。 「兄貴、目が覚めたんだなー。大丈夫かー?」 「あ、ああ」 たぶん、と心の中で付け足して答える。 だがそもそも自分はどうしてこんな所で寝ているのだろう。ふと疑問に思った土御門に、その答えは回転し始めた自身の頭によってすぐさま与えられた。 「―――ッ!!」 脳裏に甦ったのは父親の生首と、鋭利な日本刀と、嫌な笑みを浮かべる叔父と、激痛と、それから。 「カミやんは!? それに舞夏っ、お前も斬られて…!」 「私は大丈夫だー。今はまだ服の下が包帯ぐるぐる状態だがー、ここの医者の話によると跡も残らんそうだぞー」 義妹が無事であったことに土御門は安堵の息を漏らす。「あと兄貴も完璧に治るからなー。出血が多かった分だけ私より時間かかるのは当然だが」と続ける彼女の声を聞きながら。 しかし土御門は舞夏の言葉にふと違和感を覚えて問いかけた。 「お前“は”大丈夫? じゃあカミやんはどうなって―――」 土御門が問いを発するのと同時、舞夏の表情が色を失くす。まさか、と最悪の事態を予想して全身が総毛立つ土御門に彼女は首を横に振りつつ、それでも双眸に透明の液体を溜めて顔を伏せた。 「生きてる。怪我も無い。でも…っ!」 舞夏の言葉を続けるように、がちゃり、と部屋のドアが開く。 「あっ……」 現れた人物を見て土御門はそんな声を出した。 ドアを開けた状態でこちらを見つめ返すのは大切な友人・上条当麻。舞夏が言った通り、どこにも怪我の跡は見られない。簡素な、けれど清潔なシャツとズボンに身を包み、ふわりと淡い笑みを浮かべる。 「土御門も起きたんだな。調子はどうだ? ここの―――学園都市の技術だから跡も残らねーはずだぜ」 「学園都市…? いや、それよりもカミやん! お前…!!」 魔術師たる自分が敵勢力の長である学園都市の中にいる事、それは非常に重要視する事態だろう。敵のど真ん中ではいつ殺されても可笑しくないのだから。しかしそんな魔術師として当然考え警戒すべき事を頭の中からことごとく追い出し、土御門は絶望感に支配されながら友人の顔を見ていた。 上条当麻は笑っていた。美しく、澄み切って透明な。とても綺麗で、だからこそ『仮面』でしかない笑みを浮かべて。 「……ぁ、……っ」 これなら彼と初めて出会ったあの日に見たぎこちない笑みの方が何倍も何十倍も何百倍も何千倍も何万倍もマシだ。 続けるべき言葉を失い、土御門はただひたすらに当麻を見つめる。当麻は土御門の視線を受けながらベッドの傍にもう一脚の椅子を用意してそこに腰を下ろした。 「魔術師のお前がこんな所にいるのは驚くよな。でも心配しないでくれ。科学側の人間はお前が魔術側だからって何か害を齎すような事はない。それが条件だからな」 「……条件、だと? 一体誰と―――」 「この街の統括理事長と。あっちが必要とする時に俺が力を貸すなら、土御門達を助けてくれるって。だからもう大丈夫」 言って、当麻はまた仮面の笑みを浮かべる。 どうしてこんな事になってしまったのだろう。これじゃあまるで生贄だ。土御門は上条当麻を守りたかったのに、結局自分は彼に守られて彼を犠牲にしている。 「と言うわけで、俺の行動は多少制限されんだけど、お前と舞夏は自由だから。怪我が治ったら土御門は舞夏を連れてどこへ行ってもいいんだよ。魔術師だし、それなりに場所はあるんじゃないか?―――俺はもうどこにも行けないだろうけど……」 一度自ら科学の街を出て、その後滞在した魔術師の一族を壊してしまった“化け物”の自分には。 最後にぽつりと付け足された言葉を聞いて土御門は思わず叫んでいた。 「バカ野郎! お前を置いて行けるか!!」 土御門の怒鳴り声に当麻がハッと目を瞠る。その仮面の隙間から覗いた当麻の素の表情をもっと曝け出させようと、土御門は必至になって頭を回転させた。自分に出来る事は何か、今からでもこの友人の心を守ってやる事が出来るのではないか、と。 そして土御門は――― 「待ってろ。二年…いや、一年だ。一年で全部整えてお前を迎えに来る」 「な、に……」 「なに、じゃねーぜカミやん。オレと舞夏が『ハイそうですか』って言ってカミやんとそのままオサラバ出来ると思ってんのかにゃー? だったらそれはオレ達兄妹にとっちゃ失礼極まりない事だぜい」 「でも俺は土御門の家を―――!」 「だからカミやんは悪くねーって! こう言うのもなんだが、あれは土御門の一族の問題だ。カミやんが負わなきゃなんねー責任なんかこれっぽっちも存在しないにゃー。そんでもってオレも舞夏もカミやんの事が大切でしょうがない。ンな顔させたままお別れなんて出来るかよ」 言って、土御門は当麻の右手を取り、それを両手で覆うように握る。そこへ更に少女の小さな手が重ねられた。 少女―――舞夏は義兄の勢いを貰ったかのような強い瞳で当麻に笑いかけ、重ねた手に力を込める。 「そうだぞー当麻お兄ちゃん。これで縁を切ってしまうような悲しい事は言わないでくれー」 「でも俺は…っ!」 二人の視線を受けながら当麻は全てを遮断するように俯いた。彼らに笑いかけてもらう資格など自分にはない。世界の存在までもを否定し、ありとあらゆる物を殺してしまえる力を持つ自分には。 尚且つ上条当麻という人間は実際にその力を振るった。異能を消し去るだけではなく、人の記憶を奪ってその者の有り様を失わせるだけではなく、存在そのものを消失させたのだ。こんな醜悪な化け物が、一体どうして彼らの友人として居続けられると言うのだろう? 「カミやん……」 資格が無い、と頑なに拒む当麻に対し、土御門がその名を呼ぶ。 土御門達は当麻が本家を襲った分家の人間に対して行った事を正確には知らなかった。だが兄も妹も己が凶刃に倒れた後、当麻が涙を流しながら振るった力を(意識は大分薄れていたが)その目で見ている。ならば助けられている現在の自分の状況を考慮し、何があったか想像する事は然程難しくなかった。 その上で土御門元春と土御門舞夏は当麻の手に重ねた己の手の力を強める。ぎゅっと、痛みすら感じられるほどに強く。 「誰が何と言おうと……上条当麻が否定しようと、オレはカミやんの友人だ。カミやんが大切だ。あの時―――あの力を振るった時、カミやんは自分の事、化け物だって言ってたよな。けど、それがどうした。カミやんに不思議な力が備わってんのは最初から判ってた事だにゃー。ンでもって偶々あの時すっげぇレベルまで発露したってだけですたい。それ以外は何も変わんねーぜ。カミやんはオレと舞夏を守るために立ち上がっただけ。自分が傷つく事を承知で立ち上がってくれたんだ。それを解っていてオレがお前から離れるとでも?」 「見くびらないでくれー、当麻お兄ちゃん。私と兄貴の想いを」 「土御門、舞夏……」 二人の言葉に当麻は顔を上げた。 「本当に……いいのか?」 「当たり前だにゃー」 当麻の弱々しい声に土御門が大きく頷く。舞夏も「うんうん」と大袈裟に首を縦に振った。同時に、重苦しい空気をさっさと追い払ってしまおうとでも言いたげに、ガラリと雰囲気を変えて口元に楽しげな笑みを刻む。 「ま、とりあえず兄貴が帰って来るまで私がしっかりぴったり当麻お兄ちゃんの傍にいるからなー」 「おい、カミやんに変な事したらただじゃ済まさねーぜい」 「変な事ってどんな事だー? あ、当麻お兄ちゃんが嫌がる事じゃなければオッケーって所かー。それなら任せておくれー」 「………一年も空けてらんねーかにゃ、これは」 不穏な舞夏の発言に対し、土御門はぼそりと呟く。 そんな兄妹のやり取りを聞きながら当麻は次第に己の心を埋めていた暗いものが徐々に晴れていくのを感じていた。自分のやった事は消えない。けれどそれを認めた上で当麻と共にある事を望んでくれる者達がいる。これを喜ばずして他の何を幸福と感じると言うのだろう。 「あは、あはははは!!」 当麻が笑い声を上げた。そこにはもう、あの仮面の笑みは欠片もない。 胸の奥が暖かくなるような友人の笑みを見つめて土御門も、そして勿論舞夏も声を出して笑う。そんな彼らの背後―――窓の外には澄み切った青空が広がり、朝の太陽が眩しく輝いていた。 「さてと」 土御門が目覚めてから時間は少し進んで、その日の午後。当麻が席を外した隙に、椅子に座っていた舞夏がそのままの体勢で土御門に語りかけてきた。 「当麻お兄ちゃんにもそのうちでちゃんと言うつもりだがー、先に兄貴に言っておく事があるのだ」 「オレに言っておく事…?」 義妹の相変わらず間延びした、けれどもどこか真剣みを含む物言いに、土御門の意識も自然と集中する。 「そー。兄貴はその怪我が治ったら一年くらいどっか行く予定だろー? んで当麻お兄ちゃんと私を迎えに戻って来る訳だがー、私はここに残ろうかと思っている」 「……なんで、って訊いてもいいか」 ここに残るとは、つまり土御門や当麻と離れ離れになるという事だ。 当麻が好きだと言って憚らない義妹が告げたとは思えない台詞に土御門は疑問符を浮かべる。すると舞夏は「わっかんないかなー」と言いながらわざとらしく呆れた表情を作ってみせた。 「まず一つめ」 すっと人差し指を立てる。 「兄貴は忘れたのかー? 私は魔術が嫌いなのだ。兄貴は魔術師だからなー、身を寄せるのも必然的に魔術側だろー。さすがの私もそれについて行くのはちとキツい」 舞夏は魔術師だった両親を殺されている。そして両親を殺したのも魔術師―――彼女の目の前にいる土御門元春だ。義兄の事に関しては、彼女の中でそれなりの葛藤があった後、今こうして上手い具合に消化されている。しかし魔術自体はまた別物だった。 土御門は義妹があまりにも魔術師たる自分の傍に自然体でいてくれたおかげでそんな彼女の傷を忘れてしまっていた自分に気付き、己の至らなさを恥じた。確かにそうだった、と。 そんな義兄の自虐の念をさっさと追い払うためか、舞夏が早々にもう一本の指を立てる。 「そんでもって二つめー。魔術は嫌いだが、力は必要だ。なにせ――自惚れで無いのなら――私は当麻お兄ちゃんや兄貴に対する人質になり得る立場の人間だからなー。って事は力がなくちゃ身が守れん。兄貴達にも迷惑をかける事になるしー。だが学園都市の人間になればー、上手く行けばの話だが魔術とは別の強い能力が手に入る。加えて学園都市の中ならそう易々と魔術側に危害を加えられる心配も無いだろー」 彼女の言には一理ある。まだ年齢が二桁にもなっていない少女が言うには空恐ろしい台詞でもあるが。 しかし舞夏が告げる二つ目の理由よりも更に、三つ目の理由は土御門を多いに驚愕させた。 「で、三つめだがー、これはまぁ二つめの理由とちょっとばかり矛盾するかも知れんがなー。私がここに残るという事は、当麻お兄ちゃんに対する学園都市側の人質になるって事だ。つまり当麻お兄ちゃんが兄貴と一緒に地球の裏側にいたとしてもー、学園都市が求めれば当麻お兄ちゃんは必ず戻って来る根拠になるー。だから結果的に当麻お兄ちゃんはどこへ行ってもオッケーって事で。行動の自由がかなり大きくなると思うのだー」 「それは―――」 人質にされるのではなく、人質になってやる。という宣言。 義妹が三つ目に告げた尊大な発言に土御門はしばし呆気に取られていた。が、やがてくつくつと喉を震わせ笑い始める。 悲劇のヒロインを装って嘆き悲しむのではなく、損得勘定を嫌味なほどしっかりと行い、その上で大切な人が少しでも幸せになれるように動こうとする意志。年齢に見合わぬ思考を持つ彼女に心の中で喝采を送りつつ、土御門は自分の義妹がこれ程までに強く頼もしい人間である事を嬉しく思った。 「了解だぜい。じゃあオレはお前とカミやんの両方を守れるような力をつけてくる。魔術側のオレと、科学側の舞夏と、それからオレ達の所為できっとどちらの側にも立たなきゃなんなくなるカミやんの三人が、他の誰かの意志でバラバラにされたりしないような、そんな世界を保つための力を」 「おう! 期待しているぞー兄貴!」 兄妹と言うよりは同志や共犯者とでも言った方が良さそうな風情で二人はコツリと拳を付き合わせた。きっと自分達は強くなる。今よりももっともっと、力も意志も。そして自分と大事な二人を守るのだ、と。 そして、時は流れて一年後―――。 上条当麻と土御門元春は学園都市第二三学区の空港ロビーにいた。 「イギリス行きの便は……あったあった。土御門、六番ゲートだってさ」 発着便を表示する巨大な電光掲示板を見上げてそう言った当麻が、くるりとこちらを振り返る。一年。一年だ。土御門元春は長いとも短いとも取れるこの間、彼と離れて力を蓄えてきた。まだまだ大事な人間を守るためには足りないけれど、己と当麻の居場所を確保出来るくらいには必要な物を揃えられたはずだ。 そして今日、土御門は当麻を連れて日本を発つ。本当ならば土御門達を助けた代償に学園都市へと縛り付けられるはずだった当麻を、魔術側に立つ己の傍に。 (つっても、オレだってそのうちアッチやらコッチやらに立ちまくって活動せにゃならんけどにゃー) 今はまだ土御門元春は完璧な魔術側だ。更に詳しく分類するなら自分達の向かう国の国教・イギリス清教『必要悪の教会』の魔術師。だがその立場だけでは当麻と舞夏を守れない。魔術側と科学側が争いを起こしてしまえば即アウトなのだから。特に当麻の場合は争いそのものに参加させられる可能性が高い。 ゆえに土御門は決心した。大事な者達を守るためならどんな事だってやってみせよう。たとえ裏切り者と謗られようと、科学側にも魔術側にも己の場所を用意し、争いにまで発展しそうな両者の摩擦を最小限に押さえ込むのだ。 そして、その準備も着々と整ってきている。 (多重スパイ? 裏切り者? 結構結構。カミやん達のために刻んだ こちらを振り返って「六番ゲートってあっちだよな?」と向かう先を指差す当麻に穏やかな顔で笑いかけ、土御門は頷いた。 「搭乗開始までまだ時間あるけど、とりあえず行っとくか」 「そうだにゃー。行っときますか」 必要な物はあらかじめ郵送してあるため、荷物はほとんど無い。そのまま街に遊びに行くような軽装で土御門と当麻は搭乗口へと向かう。ただし当麻の台詞の通り出発までは余裕があるため、ゲートの周囲に用意された休憩スペースで時間を潰す事になるのだろうが。 ごくごく一般的な国際便でイギリスに向かうため――学園都市が開発した非常識に速い飛行機ではないので悪しからず――搭乗口に近付くに連れ同じ便に乗る予定の人間の姿も増え始めた。今の時期は学園都市の一般解放が行なわれていないので観光客ではないだろう。おそらくほぼ全員がビジネス関係だ。そんな中、明らかに子供である土御門達は酷く悪目立ちしていた。しかし目立っていようがいまいが、気にする事はない。こちらには正当な理由が―――土御門も当麻も書類上は学園都市の学生が長期研修としてイギリスへ留学するという事になっているのだから。 この『イギリス留学』に関して、上条当麻の両親には表の理由と裏の理由(再び当麻が学園都市に身を寄せた理由も)を全て明かしてある。息子の能力とそれによって起こった出来事、これからの事、それらを話しても彼らは泣きも怒りもしなかった。ただ強く優しい顔で息子を見つめ、「たまには顔くらい見せに来るんだぞ」と小さな身体を抱きしめたのだ。抱きしめられた当麻は両親の腕の中で涙したけれど、それはとても温かなものだったと後で土御門に語ってくれた。「お前と舞夏のおかげだな。ありがとう」と笑って。 その時の事をふと思い出しながら土御門は隣を歩く当麻を見遣る。自分達はまだまだ幼い。体力も権力も無く、目に見える身長だって二人ともそれほど変わらない、どこからどう見ても子供。だが土御門は舞夏と上条夫妻と、そして己自身に誓ったのだ。必ず上条当麻を守る。全てを賭けて守ってみせる、と。 「カぁミやん」 「ん?」 呼びかければ当麻がこちらに顔を向ける。 これが、土御門元春の守りたいもの。土御門にとってとても大切で、そしてその気持ちと同じくらい土御門を大切に思ってくれる人。 足を止めた土御門は当麻の右手をぎゅっと握って目をやわらかく細めた。 「これからもよろしくな」 「もちろん」 間髪置かずに当麻が笑う。 ああ幸せだと、土御門はそう思った。 「幻想殺しの書」終了。 次からは「禁書殺しの書」です(時間軸が元に戻ります)。 (2010.01.27up) |