ネ バ ー エ ン  #12






「だからー、やはり当麻お兄ちゃんと兄貴が同じ部屋で寝て、私だけが仲間はずれというのは納得いかんのだぞー」
「何言ってるんだにゃー舞夏。男女七歳にして席を同じゅうせず、だぜい。オレとカミやんなら問題ねーが、お前とカミやんが一緒の部屋ってのは問題大有りだろう」
「なにおうー」
 相変わらず間延びした声にはいくらかの苛立ちが、時折「にゃー」と猫語を混じらせる声には優越感が含まれている。前者を左耳で、後者を右耳で聞きながら、上条当麻は内心こっそりと溜息を吐いた。
 場所はかつて土御門が舞夏に親殺しの話を聞かせた場所。晴天に覆われたその庭はあの時の重さを忘れるのではなく飲み込み己の糧とし、太陽の光に照らされていた。その明るい景色の中、兄妹喧嘩に挟まれた当麻は喧嘩の内容が自身に関わっているため動く事も出来ず、やや達観した目をしてちょうど視界の端を飛んでいた鳥達を視線で追いかける。
(まあ、こう言っちゃなんですが……平和だよなぁ……)
 左右で交される口喧嘩は確実に激しさを増し始めているのだが、これもいつものことだ。全く血の繋がりはない二人だが、喧嘩するほど仲が良いという言葉通りだと思う。切れる事がない縁を持っていると互いに思っているからこそ一時的に険悪な雰囲気も作れるのだろう。それともこの口喧嘩が一つのじゃれ合いということか。
 そうやってのんびりと考えていると、
「元春様」
 屋内の方から女性の声。土御門兄妹の喧嘩も止まる。見れば、縁側の所で膝を折り床に両手を付き頭を下げている着物姿の大人が一人。この屋敷に勤めているお手伝いさん―――女中の一人だ。
 女中は頭を下げたまま「ご歓談中の所、申し訳ございません」と付け加える。
「分家の方がお越しになりましたが……」
「それなら親父―――当主が対応しているだろう?」
「いえ、それが……」
 女中は不穏な土御門の気配に当てられ僅かに口篭ると、視線をしきりに下へと落としながら告げた。
「相手方が申されるには次期当主の第一候補である元春様のお耳にも入れて頂きたい話だとかで」
「……ふむ」
 土御門はスッと双眸を細めて逡巡する。だがすぐに立ち上がり、女中へ言葉を投げかけた。
「わかった。すぐに支度する」
 凛と立つその姿は上条当麻の友人・土御門ではなく、陰陽師一族・土御門家の次期当主第一候補・土御門元春のものだ。彼が一瞬にして纏った雰囲気に圧倒され、当麻は無意識のうちにごくりと唾を飲み込んでいた。しかし次に土御門が女中から視線を外して当麻を見ると―――
「って訳らしいですたい」
「……へ」
 へらり、と笑う土御門。そのあまりの変化の激しさに唖然としつつ、けれども何処か安堵も覚えてしまう。
 当麻のそんな変化に気付いているのかいないのか、土御門はいつも通りの調子で頭を掻いた。
「悪いにゃーカミやん。ちぃーっとばかし行ってくるぜよ」
「あ、ああ」
 当麻が答えると、土御門は軽く手を振って支度をするために自室がある方向へと向かう。だが続いて聞こえた「兄貴ー」と言う声にぴたりと足を止めて振り返った。
「“ゆっくり”行って来いよー」
「…………。すぐに戻って来てやる」
 舞夏が浮かべた満面の笑みと大きく手を振る動作を見た土御門は、こちらも負けず劣らず晴れやかな笑みを浮かべてはっきりと言い切った。しかも表情とは裏腹に、その声にはドスを効かせて。
 だが二人のこんなやり取りもよくある事の一つだ。当麻は若干乾いた笑い声を上げながら土御門を促す。
「ほら、じゃあ俺達はここで待ってるから行って来いよ。あんまり向こうを待たせるのもよくねえんだろ?」
「だにゃー。んじゃ」
 土御門は牽制の意を込めてちらりと舞夏を一瞥し、当麻の言う通り再び背を向けて歩き出した。外履きを脱いで縁側に上がり、頭を下げたままの女中の前を通り過ぎる。そしてその女中も土御門の後を追うかと思いきや―――。彼女は土御門が屋内に消えた後、滑らかな動作で頭を上げて今度は当麻の横に立っている舞夏に視線を向けた。
「舞夏様」
「なんですか」
 女中の呼びかけに舞夏が応える。あの間延びした口調ではなく、まるで切り替えスイッチでも存在するかのような丁寧でありながら冷たさが目立つ話し方だった。雰囲気も若干先刻の土御門と似ているように思うのは、なにも当麻の気の所為だけではないだろう。
 義妹である彼女が義兄に似ているという言葉だけならば、当麻もそれを然して悪いものだとは感じない。むしろ微笑ましいと思う。だが流石にこういう場合は別だった。
 彼ら兄妹が土御門の姓を負う者として相応しい態度を求められ、また自らそれを行おうとしているのは知っている。その結果として、義兄がそう変化するのと同様に舞夏ががらりと雰囲気を変える様を見るのは初めてではなかったため、当麻が今の心情を素直に表に出す事態にはならない。
 しかし、それでも気付く者はいる。
 舞夏はちらりと当麻を見遣った後、安心しろとでも言うように微笑んで見せた。そして舞夏の名を呼んだまま動かない女中の方へわざわざ足を運ぶ。何の用かは知らないが、さっさと済ませて当麻の元に戻るために。
 そして舞夏は女中のすぐ傍、手を伸ばせば簡単に届くような距離で立ち止まった。
「この場で済ませられる話ならば、ここで」
「はい。これだけ対象と距離を開けてくだされば」
「ッ! それはどういう―――!?」
 怪しい物言いに舞夏が相手を睨み付けるのと同時、女中が懐から薄い何かを取り出して少女の額に押し付けた。途端、舞夏の身体が力を失ってくずおれる。細い身体が地面とぶつかる前に女中は素早く腕を差し出して支え、縁側の上にそっと寝かせた。動きに合わせて舞夏の額に張られたそれ―――複雑な文字とも絵ともつかない何かが書かれた御札らしきものがフワリと揺れる。
 一瞬の出来事で呆気に取られていた当麻は、しかしハッとなって相手を睨み付けた。
 この土御門家の屋敷に仕える女中の数は多く、客人である当麻がその全ての顔を覚えられるはずもない。だが次期当主と言われている土御門が特に何も言わなかった事からして、昨日今日入ってきた偽物という訳でもないだろう。つまりはこれまできちんと土御門の家に仕えてきた人間の一人であるはず。それなのに(『義』ではあるが)当主の娘に危害を加えるとは―――。
「なんのつもりだ、てめぇ」
「お怒りをお鎮めください、上条当麻様。今の舞夏様は気を失っておられるだけです。外傷も、これによる副作用・後遺症等も一切ございません」
 舞夏を丁寧に寝かせた後、女中はそう言って当麻に頭を下げた。舞夏を扱う手つきとその言葉に嘘は感じられない。しかしだからと言って警戒を解く訳には行かなかった。
 そんな当麻の警戒心を承知した上で女中は再び顔を上げる。落ち着いた態度を保ちながら彼女は静かに当麻へと語りかけた。
「わたくしは本日、上条様にのみおいで頂きたい所がございまして、このような手段を取らせて頂きました」
「俺にだけ来て欲しい所…?」
「その場に何者にも邪魔されず上条様とお話されたいという方が待っておられるのです」
「何を話したいんだ? その俺を招いてるって奴は」
「そこまでは……。わたくしはただ、昔お世話になった方の頼みを断る訳にはいかなかったものですから」
 あちらにも色々と事情があるらしい。女中は自分が土御門家に反旗を翻そうなどとは思っていない事、詳しい事情は知らない事等を控え目に語って、最後にもう一度だけ当麻に「お願いです」と頭を下げた。
「あの方に非はございません。舞夏様にこのような術式を使ってしまったのは、ひとえにわたくしの力不足によるもの。わたくしのことはいくらでも責めて頂いてかまいませんので、どうか一度お越し頂けないでしょうか」
「あんたが言う“あの方”ってのは、俺と話をしたいだけなのか? 俺以外の誰かに危害を加えるような事もない、と?」
「はい。そのはずです」
 詳細を知らされていないという女中の言葉は100%を約束するものではない。それでも彼女の視線を真っ直ぐに受け止めた当麻は相手を信じる事にした。ゆっくりと首を縦に動かし、承諾の意を伝える。
「ありがとうございます、上条様」
「舞夏の事、そんな所に寝かせてねえでちゃんと部屋に運んでやってくれるよな」
「それは必ず。……では、こちらへ」
 女中に案内され、当麻もその場を後にした。人と会わないようにするためだろうか、いくつもの角を曲がって女中は進んで行く。
 そんな相手の様子にあまりいい予感を抱けないままついて行くと、最終的に屋敷の裏口へと辿り着いた。待っていたのは黒塗りの外車とスーツをきっちり着こなした男性が一人。
「上条様、どうぞお乗りください」
 女中が当麻を置いて去ると、運転手らしいスーツの男性が落ち着きのある声でそう言い、車の後部座席のドアを開ける。この車で当麻を目的地まで運ぶのだろう。当麻はドアを開けたまま待っている男性に目を遣り、自身が車に乗り込む前に彼へと問い掛けた。
「この車でどこへ行くんだ? …って訊いたら答えてくれんのかな」
「それでしたら……」
 そこまで言って一度口を噤んだ男に、やはりこの問い掛けは無駄だったかと思う。そりゃこんな所で答えてくれるなら、あの女中も『上条当麻と話したがっている人物』の名前くらい口にしてくれただろう。正解を知りたければリスクを承知で進むしかない。―――と当麻は思ったのだが。
「土御門の分家の一つに」
「え…?」
 意外にも答えは簡単に返された。
 当麻は答えが返って来た事とその答えの意味の両方に疑問の声を上げ、ひとまず前者に関してはこの場まで足を運んだ当麻にそれなりの誠意を見せたか、もしくは今更逃げようとも屋敷の中央部から離れたここではそう簡単にはいかないと思われているからだろうと推測する。が、後者に関しては理由も何も解らず思考が半ば停止状態に陥った。
「なんで……」
 まさか何かまずい事でもやったのか?
 その場で固まる当麻だったが、男もまた詳しい事を話してはくれなかった。事情を知らないためか、事情を知っていても話せない理由があるからなのか、それは不明だ。ただ彼は当麻に乗車するよう再度勧めた。
 こればかりは本当に行ってみるしかないのだろう。当麻はもう一度決心をつけるため深呼吸した後、車へと乗り込んだ。


 着いた先は土御門本家の屋敷をいくらか小さくしたような和風建築だった。本家ほどではなくとも、ここもまた『屋敷』と言った方が適切であろう広さを誇っている。このような分家がまだいくつもあると言うのだから、『土御門』という一族の大きさは相当なものだ。
 それはさて置き。当麻が通されたのは、和風の建物の中でも違和感が無いよう作られた客間と思しき洋風の部屋だった。そこで待っていたのは土御門の父親(当主)より少なくとも十歳は上だと思われる恰幅の良い男性。この分家の主だと言うその男は人の良さそうな笑みを浮かべて当麻に席を勧めた。
「まあ座ってくれ。突然招待してすまなかったね」
「いえ……と言いたい所ですが、この様子では本家の―――俺を預かってくれている当主様には話を通していらっしゃらないようですね」
 当麻の言葉が正解である事は状況から明らかだ。しかし非難を含めた当麻の物言いにも男は動じず「事情が事情だから」と余裕の態度を崩さない。―――所詮、相手は子供。そう思われているからなのか。
 僅かに苛立ちながら当麻はやや早口で告げた。
「なら単刀直入にお伺いします。俺なんかに一体何の用ですか?」
「“なんか”と下卑するのはよくないね。そんなにも大層な力を持っていると言うのに」
「―――…」
 人の良さそうな笑みを崩しニヤリと欲を覗かせる相手の顔に、当麻は一瞬口を噤む。しかし男の言った意味を頭の中で反芻し、公にはされていないはずの情報が漏れている事を悟った。
「力、とは?」
「とぼけないでくれ。こちらもまあ……なんだ。色々と知っているのだよ」
 例えば先日、あの当主と大規模な“調査”を行ったそうじゃないか。
 鬼の首を取ったように―――とは誇張し過ぎた表現かも知れないが、それくらいの勢いで男は自身が持つ情報を当麻の前に突きつけた。一個人たる上条当麻としては、力の所為で嫌悪されたり迫害されたりしない限りは特にどうということも無いのだが、
「……密偵、という奴ですか? 土御門の一族も本家と分家の仲はあまりよろしくないんですね」
「本家と分家とは得てしてそういうものだろう」
 さらりと言い返され、意趣返しは失敗に終わる。
 だがここで当麻は魔術を含めた異能を打ち消す自身の力とこの本家・分家の対立を同じ次元に持ってくる事で、男の目的が解ったような気がした。
「まさか俺に、本家と対立するあなたの側に立てと?」
「有り体に言ってしまえばそうなるな」
 微塵の否定も無しに男は笑う。
「勿論それ相応の礼はしよう。君だってその方が良いだろう? ただ力の性質を調べるだけで終わってしまうより、持った力を使って自分のためになる事をした方がずっと有意義じゃないか。―――私なら君の欲しい物、なんでも揃えてみせる。好きな物を願うといい。金でも、物でも……ああ、ちょっと早いかも知れんが、女だって用意しよう」
「俺にそれだけの価値があるんですか」
「あるとも! 君は素晴らしい能力の持ち主なんだ。どんな魔術も効かない右手……それがあればあの当主でさえただの人だ!」
 すでに当麻の力を手に入れたかのように男は興奮で顔を紅潮させて力説する。完全に本家と対立―――『戦争』をする気だ。相手の興奮とは反対にどんどん冷めていく頭を自覚しながら当麻はそう思った。そして、その冷め切った頭で考える。この男はただの物“ごとき”で上条当麻が土御門達を裏切ると思っているのだろうか。だとすればそれは酷く愚かな考えだ。あの家の人々は上条当麻にとってかけがえの無い人達だと言うのに。
 ガタンッと勢いよく椅子から立ち上がり、当麻は座ったままの男を見下ろした。男は突然の暴挙に目を丸くしている。当麻が何に対して怒っているのかさっぱり解っていないのだろう。そんな相手に解らせるため、当麻ははっきりと言った。
「俺は土御門元春とその家族を裏切らねえ。俺はあの人達の側の人間だ」
「な、にを……」
「何で釣ろうとしても無駄だって言ってんだよ。あの屋敷にいるのは俺の大事な友人とその家族―――代わりになる物なんてどこにもない。もし俺が力を使うとしたら、それはあんたのためなんかじゃなくて、あの人達を守るためだ」
「……っ、私を、敵に回すというのかね、君は」
「俺があんたを敵に回したんじゃねえ。あんたが勝手に本家を敵視してるだけだろうが」
「ふっ…」
 大きな腹を揺らして男も立ち上がる。怒りと嘲りを混ぜ合わせた表情で当麻を見下ろし、彼は「だったら…」と呟いた。
「障害は、早めに取り除いておくべきだな」
 告げるのと同時に、部屋に厳つい男達が何人も入ってきた。主人たる男を守るように、また当麻をこの場から逃がさないようにその護衛ガードマン達は大きな身体で壁を作る。
 上条当麻の異能無効化能力を考慮して、護衛達は魔術よりも体術等の非・異能を武器としているようだ。つまり彼らの主人は最初から当麻が自分の仲間にならない場合を考え、その対策を立てていたという事だろう。護衛が胸ポケットから取り出した黒光りする金属の塊を見ればすぐに判った。利用出来ないのなら殺してしまえ、という意思が。
「ははっ、マジかよ」
 まだ小学校を卒業する事も出来ない年齢の子供に向けられる拳銃と殺気。
 当麻は全身に嫌な汗をかきながら呻く。だが。
「今ならまだ間に合うぞ、上条当麻。私のためにその力を使え」
「ヤなこった。誰がテメーなんぞのために使うもんか!」
 恐怖に全身を縛られていても、そう言って相手の誘いをきっぱりと断った。
 本当は怖い。銃も体格のいい護衛達も向けられる殺気も、そして男が浮かべる侮蔑の表情でさえ、本当は怖くて怖くて仕方が無い。コップになみなみと注がれた水のように恐怖は限界値にまで達している。それでも当麻は気丈に両足でしっかりと立ち、相手を睨み付けた。
 そんな当麻の態度に男は鼻で笑って護衛達に命令した。
「やれ」
 たった一言。
 それだけで逃げ出した当麻の足元に銃弾が撃ち込まれる。大きな発砲音に身を竦ませながら当麻は走った。だが広い部屋であっても所詮は室内。同士討ちを恐れて護衛達がこれ以上発砲してくる確率は随分低いものだったが、代わりに彼らは素手で当麻を捕まえにかかり、あっという間に太い腕が当麻の襟首を掴んだ。
「ぐっ……」
 後ろ向きに引っ張られ息が詰まる。そのまま床に押し倒された。肩や頭部を強打し痛みに声も出ない。加えて護衛達は二人かがりで当麻を押さえつけ、身動き一つ取らせないようにしていた。
「くそっ」
 短く毒づく。
 視界が陰って視線だけで見上げれば、嘲笑を浮かべてこちらを見下ろす男と目があった。男は弱者を甚振るのが心底楽しくて仕方ないとでも言いたげにニヤニヤと笑いながら、当麻の顎を足で持ち上げる。
「ガキが。身の程もわきまえず私に逆らうからこうなるのだ」
「ぐぁっ!!」
 バキィッと頭全体に衝撃。護衛達に押さえつけられたまま思いきり顎を蹴り上げられ、衝撃に脳が揺れた。だが痛みを痛みと認識する前に男からの暴力は更に追加される。蹴られ、踏みつけられ、また蹴られ。意識が無くなるギリギリの所までそれは続いた。
「ふん」
 普段運動などしないような体格の男は、そう鼻を鳴らすとようよう暴力の嵐を止めた。頬を腫れ上がらせ、青痣を作り、鼻血を流したまま当麻はうっすらと目を開いて男を見上げる。
 こちらに抵抗するだけの力が残っていないと判断したのか、男の暴力が止むのに少し遅れて護衛達も拘束を解いた。彼らの判断は正しく、当麻が起き上がろうとして腕に力を込めても僅かに震えるだけに終わる。むしろその行為は男が浮かべる嘲弄の色を更に濃くするだけだった。
「そうだな……一応の慈悲だ。もう一度だけ貴様にチャンスをやろう」
 男は護衛の一人から拳銃を受け取り、引き金に指を掛けて当麻へと向ける。
「私のために働け」
 これが最後のチャンス。この誘いを断れば、今度はあの鉄の塊が自分に向かって弾丸を発射するだろう。生きたければ首を縦に振れ。生きたければこの男に従属しろ。そんな事は意識が朦朧としている当麻にも嫌と言うほど理解出来ていた。けれど。
「はっ……」
 短く息を吐き出し、当麻は男を見上げる―――否、睨み付ける。
 土御門元春と初めて出会い、差し伸べられた手を取ったあの日。それを無かった事にしてしまうくらいなら、その時の事を裏切ってしまうくらいなら、いっそ。
 強気な態度でニッと笑う。答えはそれだけで充分だった。
 男は「そうか」と呟き、護衛達を一歩後ろに下がらせる。そして口元を醜く吊り上げると、銃口を当麻の右手に向けた。
「では、まずその右手から消えてもらおう」
 パンッと鼓膜を破るような破裂音。次の瞬間には右手から駆け上ってくる激痛に当麻の喉が悲鳴を上げた。
「が、ああああああああああっ!」
 まるで聖痕のように穿たれた右手から血が吹き出す。殺す事を決定しておきながら最初に右手を狙ったのは、やはり魔術師たる男が当麻の力を恐れたためだろう。
 当麻の右手を潰した男は続いて左手で当麻の前髪を掴みあげ、無理やり上を向かせた。そして額に銃口を押し付ける。
 喉から迸る悲鳴はまだ続いていた。
 打撲とはまた別の、脳神経を直接焼かれるような痛み。加えて額に押し付けられた死の象徴に当麻は限界まで目を見開く。そして男が引き金を引く直前。
 ぷつん、と何かが切れる音。
 その音が当麻の頭の中でだけ聞こえた音だと理解する間も無く、悲鳴の種類――とでも表現するしかない何か――が変わった。
「あ、あ、あ、…あ、ああああああああああああああああああああああ!!!!!!!」
 悲鳴。否、雄叫びを上げた当麻には、もう自分が何をやっているのか自覚する事が出来なかった。
 抵抗する力などとうに尽きていたはずなのに、当麻は銃身を払い除けて立ち上がり、撃ち抜かれ血を流し続ける右手で男の顔面を鷲掴みにする。弾みで発射された弾丸が肩を掠めても痛いなどとは思わない。ひたすら右手だけに力と意識の全てが注ぎ込まれるような感覚に支配され、『消す』ための能力が働くままに任せた。
「キ  エ  ロ  !  !」
 その言葉は誰の口から出たのか。自分が自分の意志で喋ったようには思えなかった。もしかしたら本当は音にすらなっていなかったのかも知れない。だが、どうでもいい事だ。
 力は流れ、収束し。一つの存在となって具象化する。―――“それ”を見た者はきっとこう言っただろう。上条当麻の右腕に『竜』が宿った、と。
 右手から溢れる血にまみれ暗い赤の輪郭を得た竜は、顕現した瞬間にその大きな顎で男を呑み込んだ。悲鳴は無い。噛み砕かれる事も無く一口で呑み込まれた男は、その次の瞬間に糸が切れた操り人形の如く意識を失って床に倒れる。そして竜は残った獲物―――驚愕で動けない護衛達にも襲いかかり、彼らの主人と同じ末路を齎した。
 全ての敵を薙ぎ払うと、竜は一度だけ声無き雄叫びを上げて姿を消した。同時に、当麻も力尽きて床に座り込む。意識が遠い。誰かが、複数の足音が近付いて来ているようだったが、もう身体が動かない。
 そして段々と降りてくる瞼が閉じ切る直前、当麻は勢いよく開いた扉の向こうに―――何故か自身の大切な友人の姿を見たような気がした。


 その三日後。
 土御門本家の屋敷で目を覚ました当麻は、あの後自分が土御門やその父親に助けられた事を知った。誘われるままついて行った自身の不用意さを謝罪すると、彼らは屋敷の警備を厳重にしていなかった自分達にも責任があると言って当麻を責める事はなかった。しかも土御門は当麻を守れなかったと言って酷く悔しげな表情を晒してまで。
 その後、彼らは僅かに逡巡してから教えてくれた。
 舞夏を気絶させ当麻を屋敷の外に連れ出した女中が遺書を残して自害した事。そして、
「カミやんをあんな目に合わせた奴らだけどな……あいつら全員、すっからかんに記憶を失って赤ん坊みてーになっちまってたんだにゃー」
「そっか」
 驚く事もなく、「どうして」と問う事も無く、当麻は呟いた。
 そう、疑問に思う事は何も無い。右手から『竜』を出したあの瞬間は、まだ当麻も半分意識が飛んでいて自分が何をしているのか解っていなかったのだが、時間を置いた今なら何故か全てが理解出来ていたのだ。まるで力と知識を封じ込めていた鍵が命の危険に晒された事で吹き飛んでしまったかのように、必要な知識が自分の中にある。上条当麻という人間に何が出来るのか、この右手に宿る力には何が出来るのか。という事が。
「カミやん…?」
 あまりにも落ち着き過ぎた当麻の様子に土御門が訝しげな声を上げる。ひょっとしたらまだ本調子ではないだろうからと当麻を心配してくれているのかも知れない。
 そんな友人の気持ちが嬉しくて、当麻は薄く笑う。たとえ複数の大人達の人生を滅茶苦茶にしたのが自分だと解っていても、その事実に押し潰されそうになっても。加えて、隠しようもない今回の一件で当麻の能力が他の分家にも公になり、これから一体何が始まってしまうのか薄々勘付いていても。今はただ友人のためだけに上条当麻は笑う。
「何でもない。助けてくれてありがとな、土御門」
 笑って、笑って、笑って。
 上条当麻はこの優しい幻想じかんが右手に宿る力によって殺されるくずれる音を、泣きそうな思いで聞いていた。


(この右手は、俺の大事な幻想を殺す手だ)
 きっと分家の人間達は今回の一件で上条当麻という異能無効能力者の存在と、当麻が完全に本家側に立つ事を知った。つまり彼らは今まで保たれてきた『土御門』という陰陽師一族内での力の均衡が崩れ去った事を知ったのだ。
 この事実から導き出される次の事象は、きっと本家の人間である当主や土御門が一番よく解っているだろう。当麻にすら検討がついているのだから。
(嗚呼、もうすぐ)
 一族内での戦争が、始まろうとしていた。
 上条当麻をキッカケとして。








(2009.12.06up)



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