ネ バ ー エ ン  #6






 その時起こった現象を、ルーンの魔術師は、そして一〇万三〇〇〇冊の魔道書を有する少女でさえも理解する事が出来なかった。
「な、に……」
 ステイルから外れた敵魔術師の攻撃が上条当麻へと向かい、そして彼の少年はその直撃を受けた。しかし実際に目の前で進行している状況は、そこから導き出されるはずの結果と全く異なっている。
 バチィッ!!!と激しいスパーク音の後、感電死しても可笑しくない少年は無傷でその場に立っていた。
 完全に魔術が無効化されている。生物の本能として頭部(または顔)を守るように掲げられた右手が唯一、攻撃を受ける前と受けた後での違いと言えるだろう。
 何か特別な魔術を少年が使ったのだろうか。いや、確か少年は魔術を使えなかったはず。では魔術を無効化するような霊装を装備していたのか。インデックスは自身の脳内に詰め込まれた知識から今の現象を引き起こしたものを探ろうとする。しかし一〇万冊以上の魔道書によって作り上げられた知識の泉からもその答えは導き出せなかった。
 ―――ヒュン!
 少女の思考を遮るようにまたあの長い紙が高速で突き刺しにくる。だが少年が右手でその飛来物に触れた瞬間、紙はまるで長い時を経てきたかのようにボロボロと崩れ去った。そして崩壊は根元にまで及んだらしく、紙が襲いかかってきたあの暗がりからは「ひ、うわっ!?」と男の慌てた(また些か悲鳴混じりの)声が聞こえてきた。
「ねえ、何……何なの、とうま……?」
 インデックスは右手動かすだけで一言も発しなくなった少年の名前を呼ぶ。すると少年は僅かに身動ぎし、次いでゆっくりと右手を下ろした。
「とう、」
「ったく……。(面倒な事にネタバレ開始ですかってな)
「とうま、何て言ったの?」
「悪い。ちょっとここで待っててくれ」
「ちょ、ちょっととうま!?」
 インデックスの制止を聞かず、上条当麻は何事かを短く呟いた後、紫電の光弾を放っていた魔術師の居る方へ駆け出した。
「ステイル! インデックスの事ちゃんと見てろよ!」
「何をする気だ上条当麻!!」
 ステイルが問い掛けたが、にへらと笑い返すだけで答えない。
 再び紫電の光弾が襲いかかってきた。しかし少年が右手を振るうだけでいとも簡単に消滅してしまう。そのまま少年は魔術師がいるであろう暗がりに姿を消し、直後聞こえてきたのは―――
「…ぅ、ご……ふっ! ひっ、ぃ……ごはっ……」
 男の呻き声と、どすっ、がすっ、という何やら不穏な鈍い打撃音。
 それが終わってしばらく沈黙した後、ずるずると大きな物を引き摺る音と共に、上条当麻が一般人のような服装で気絶している人間を片手で引き摺りながらインデックス達の方へと戻って来た。
 上条当麻は無傷のままだ。しかし彼が浮かべる表情は苦い笑いであり、決して勝利を喜ぶものではない。またインデックスとステイルも予想し得なかった展開に唖然とし、そして上条当麻が振るった何らかの力に対しては困惑するしかなかった。
「ほい、今回の襲撃の犯人。向こうのは逃げちまっただろうけど、とりあえず一人だけでも捕まえといた方がいいだろ?」
 どさり、と気絶した人間をステイルの前に放り出し、当麻が言う。
「君は、一体……」
「“何者なんだ?”って質問は無しだぜ。俺は上条当麻で『必要悪の教会』所属の非魔術師。最大主教ローラ=スチュアートに仕える……えっと、雑用係、かな。それ以上でもそれ以下でもない」
「しかしその力はっ!」
「ああ、これね」
 当麻はステイルが詰め寄った所為で一歩身を引きながら右手を上げる。
「魔術ではなく、また科学サイドの超能力でもない何か。働きは異能の力を触れただけで打ち消す事。以上」
「以上って……。ふざけるのも大概にしろ!」
「そんな事言われてもなぁ」
 激昂するステイルに当麻はやや困った顔をする。そこへ助け舟を出すかのようにインデックスが口を挟んだ。
「ステイル、とうまの力はたぶん本当に魔術じゃないよ。科学サイドの事はよく解らないから何とも言えないけど、少なくとも私が持ってる知識の中にはとうまの右手みたいな魔術や霊装は存在しない。だからとうまは本当にそれ以上の事は知らないし、説明出来ないのかも」
 だからとうまを困らせるのはやめてあげて、とインデックスが付け足すと、ステイルはしぶしぶといった風に身を引いた。
「君がそう言うなら……」
「ありがとう、インデックス。それからステイルも、ちゃんと説明してやれなくて悪いな」
 当麻は弱々しく笑い、次いで襲われた際に手放してしまっていた荷物を集めてなんとか破れずに済んでいた紙袋に再び詰め始める。インデックスがそれを手伝うと両目を細めて礼を告げた。
「どういたしまして。さぁ、とうま。とうまは買い物中だったんでしょ? この時間帯じゃ早い所はもうお店を閉め始めちゃうかも」
「うおっ、本当だ! じゃあ悪いけどインデックス、今日はこれで!」
 慌てた様子で当麻が先を行こうとする。
 それを見たステイルが声を上げた。
「あ、待て上条当麻! 僕はもう一つ君に訊きたい事がっ―――」
「ステイル!!」
 しかし呼び止められて当麻が振り返る前にインデックスが鋭い声でステイルを制止させる。いつも穏やかなイメージがあった少女の思いがけない様子にステイルは瞠目して動きを止めた。
 ステイルに呼び止められた上条当麻も呼び止められたためではなく少女の大きな声によって振り返る。こちらもステイルと同じような顔をしているが、インデックスは「なんでもないよ」と首を横に振って先に行くよう促した。
「ステイルの事は気にしないでいいんだよ。ばいばい、とうま」
「ぇ……あ、ああ。それじゃあな」
 インデックスの様子が腑に落ちないと顔にはっきり書きつつも、当麻は彼女の強い言葉に従って再び二人に背を向ける。
 その姿が視界から消えた後、インデックスは未だ瞠目したままのステイルに顔を向けた。
「ステイル、“それ”は訊くまでもない事なんだよ」
「な、に…?」
「私もどうしてだろうって思ったけど、答えは簡単なものなのかも。それにとうまの口からそれを説明させるのは酷なんじゃないかな」

「どうして最初からあの右手を使ってくれなかったんだ、って」

 インデックスが音にした疑問は、まさしくステイル=マグヌスが抱いた疑問。
 それを少女も抱いておきながら何故問い掛けなかったのかとステイルは悔しさの混じった声で告げる。
「っ、問い質したくもなるだろう!? あの右手が最初から使われていれば君が危険な目に合う事は無かったはずだ! それなのにあいつは何のデメリットもないくせに出し惜しみをして……っ」
「ステイルはわからない? 私は『訊くまでもない事』だって言ったよね?」
 どんどん語気を強めるルーンの魔術師に対し、禁書目録の少女は静かな口調のまま問い掛けた。
 そのあまりの静けさにステイルの感情の高ぶりまでもが抑えられていく。冷静に話が聞けるまで彼の感情が落ち着いたのを見計らい、インデックスが先を続けた。
「とうまが力を出し惜しみ……ううん、今までずっと隠してきたのは何故か。―――あの手は触れただけで魔術を消してしまう。しかも右手の力自体はおそらく魔術じゃない何か。その効果と奇怪性は魔術世界にとってとても受け入れがたいものだと思わないかな? ねえ、ステイルだってそう感じない? もし自分の炎の魔術が一瞬で、いとも簡単に、全く原理の解らない方法で無効化されてしまったら」
「…ッ!」
「……怖い、よね?」
 自分が抱くであろう感情を想像し息を呑んだステイルに、少女は悲しげな表情を作る。もし己に異能を操る力があれば、ステイルと同じ感情を抱く事になっただろうと暗に告げながら。
「その感情がとうまを取り巻く全ての魔術関係者に生じたとしたら、とうまはきっと辛い目に合う。それに、これは私個人としてではなく『必要悪の教会』に属するシスターとしての意見だけど、とうまの力が表沙汰になったら魔術世界はきっと歪んでしまうのかも。それは、あんまり推奨出来ない事態なんだよ」
「確かに、そうかも知れないが……」
「『が』は不要かも」
 未だ納得出来ない――否、『したくない』か――ステイルの様子にインデックスは小さく笑う。過保護な彼はそんな事情を踏まえても尚、インデックスの身の安全を最優先に考えてしまうのだろう。それはきっと仕方の無い事で、少女がこれ以上何を言っても如何にもならない事なのだ。あとはステイル=マグヌス自身に委ねるしかない。
 インデックスは話題を切り替えるように「ほら、」とステイルを促し、気絶している今回の事件の犯人を指差した。
「私じゃ運べないし、ステイルに頑張って欲しいかも。帰るの遅くなっちゃうけど、もう一仕事だよ!」
「……ああ。そうだね」
 ステイルも表情を和らげて首を縦に振る。
 人払いの魔術が効果を失ったらしく、徐々に人の気配が近付いて来ていた。


「ってな事があった訳ですよ」
 食卓を囲みながら上条当麻は土御門元春に彼と別れた後の出来事を語り、最後にそう締め括った。
 今回相手にした魔術師の隠密性は大した物で、流石に陰陽道の天才だった土御門にもあの距離からは察知出来なかったらしい。そして彼が異変に気が付いた時には全て終わってしまっており、慌てて当麻の姿を探したのだとか。無論、土御門は上条当麻という人間がそんじょそこらの魔術師に後れを取るとは思っていない。彼が気に掛けていたのは上条当麻の能力が他者に知られ、それにより当麻に精神的・物理的害が及ぶかも知れないという事だった。
 そんな友人思いの土御門に当麻はふっと口元を緩めるとパスタの最後の一口を租借し飲み込んで「大丈夫だよ」と告げる。
「右手が魔術を打ち消せるって事はバラしちまったけど、それ以外は何も。あとは流石『必要悪の教会』重要メンバーって所かな、禁書目録は俺が力を使おうとしなかった理由にも気づいたみたいだった。あれなら下手な事は喋らないだろうし、ついでにステイル=マグヌスの暴走も抑えてくれるはずだ」
「不幸中の幸いって所か……」
「だな。それに禁書目録の首輪に関しては当然の事ながら掠りもしなかったし、俺が上の思惑を知ってて下手に動かなきゃなんねー事態になるにはまだまだ遠そうだよ」
 土御門の呟きに当麻は苦笑を滲ませて答えた。
「ただし禁書目録からか、それともステイル=マグヌスからか……どっちの口から知れるかは分かんねーが、おそらく神裂火織には早々に俺の右手の事がバレると思う。でもそれは大した問題じゃない。神裂の態度が多少変化する事があっても、ああいう人間は口が堅いからな」
「そうだにゃー。確かに神裂ねーちんは口が堅いな。っつか今時珍しいくらい『日本人』だぜ、ありゃ。ひょっとしたら今回の件―――カミやんが禁書目録を助けたって事で何ぞ恩返しでもせにゃならんとか言い出すかもしんねーですたい」
「だったら一度ああいう『お姉さん』の手作り弁当を食してみたいぞ、俺は。なんかこう、手の平サイズくらいのチマっとした弁当箱で」
「……趣味丸出しすぎだぜい、カミやん」
「悪いか」
 ストライクゾーンが年上の女性である上条当麻としては当然の希望であったのだが、流石にきっぱりと言いすぎてしまったらしい。土御門が半眼を向けてきた事で当麻はやや視線を逸らしながら短くそう呟く。
 そのどこか不貞腐れた感の漂う応えに土御門が小さく吹き出した。だが彼は「なんだよ」と顔を上げた当麻を正面から見据えると、すぐに笑いを引っ込めて顎の下で手を組む。その双眸は穏やかに細められており、居心地が悪そうに一度だけ身じろいだ当麻に対して土御門は緩やかに口の端を持ち上げた。
「正直言って、恩云々がマジ話なら、オレとしてはカミやんの力がこれ以上周囲に知られないためにも『聖人』神裂火織にはカミやんのボディーガード的な役割を担って欲しいっちゃー欲しいんだけどにゃ。本当ならオレが傍にいられりゃいいんだが、仕事の手前、そう簡単にもいかんってのが辛い所だぜい」
「……ッ」
 表情に違わず土御門の口調は穏やかだ。おかげでただでさえ恥ずかしい台詞が余計に羞恥を煽るものになっている。
 真正面から、じっと見つめられて、声音からも視線からも偽りが無い事をはっきりと証明されて。土御門の言葉を受け取った当麻は自分に向けられる過保護なまでの愛情に声を呑んだ。居心地の悪さやむず痒さはいや増して当麻の中を駆け巡る。
 いきなり何言い出すんだこの野郎、と胸中で毒づいてみたが、それで治まるなら苦労はしないだろう。結果、当麻は土御門からの視線を遮るように自らの両目を手の平で覆い、無駄な抵抗だと解っていながらそれでも多少は羞恥が消える事を期待して大きく息を吐き出した。
 ちらりと指の隙間から相手を覗き見れば、土御門の顔は未だこちらに向けられている。
(……ああ、そうか)
 当麻はふと正面の彼が彼自身の胸に刻みつけた魔法名を思い出した。何のために裏切りを己の名としているのか、それを今、肌に触れて感じるように理解する事が出来る。
 彼の名は裏切る事が目的ではない。多くを裏切ってでも守りたいものを守りぬく。それこそが土御門元春の願い。そしてまたその守るべきものの中に上条当麻という人間も含まれているのだと。
「あのさ、」
 両手を下げ、当麻は土御門と再び視線を合わせた。その表情にはすでに羞恥などなく、代わりに浮かべられていたのは感謝の念と過保護すぎる相手への苦笑だ。
 聖人の守護? もしそれを受けられるならば、確かに有り難い事だろう。だが物理面ではそうであっても、上条当麻としてはより大きなものが確かに存在する。
「どうかしたかカミやん」
「んー。いやな、今さっき解った事をちゃんと言葉にしとこうかと思って」
 キシ、と椅子の背に体重を預けながら土御門の問いに答えた。
 一体何が解ったんだ? と再び問を重ねられ、当麻はそれを口にする。

「つまりさ、一人の聖人より一人の友人の方が俺にとっては心強いんだって事だよ」

 そう言って当麻は驚きに目を見開いた友人へふわりと笑いかけた。








「魔術殺しの書」終了。
次からは「幻想殺しの書」(過去編)です。

(2009.06.06up)



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