ネ バ ー エ ン  #2






 聖ジョージ大聖堂の裏手にある庭で神裂火織は一人の人物を待っていた。日本人の割には長身の、一六、七歳の少女――には実の所見えない――が片手に携えているのは長さ2メートルを超える日本刀。……だからと言って別にこれから果し合いなどという物騒な出来事が起こる訳ではない。ただ単に彼女の基本装備が長大な日本刀こと七天七刀であり、それは魔術師の一人として平時でも肌身離さず持ち歩いているがゆえである。
「遅いですね……インデックスは」
 ぽつりと零れ落ちた言葉は日本語。彼女もイギリスに来てからそれなりの期間が経つため英語には不自由していないのだが、こうして無意識に口をついて出る言葉はまだまだ日本語ばかりだった。同じ日本語で会話できる人間が必要悪の教会には極端に少ないのも原因の一つかも知れない(と言うか実際の所、必要悪の教会に所属する日本人は神裂を含めて三人しかいないらしい)。何せ日本語で会話が出来る人間のうち最も多く顔を合わせる土御門元春とでさえ、お互いの仕事もありそうそう言葉を交わす事は無いのだから。
(……それ以前に土御門は時々とんでもない知識を披露するので安心して会話が出来ないというのもありますね)
 金髪サングラスの少年及び以前その少年の口から聞いた「ミニスカウエイトレス」という単語を思い出しながら神裂は「はぁ…」と大袈裟なくらいに溜息をついた。
 と、その時だ。カサ、と大聖堂側へと繋がる道の方から木々の擦れる音がしたのは。
「インデックス…?」
 待ち人来たり。そう思って顔を上げた神裂は、しかし頭に描いていたのとは違う人間を目にしてすぐさま頭を下げた。
「ぁ……す、すみません。人違いを……っ、」
 あっと思った時にはもう遅い。神裂の口をついて出たのは英語ではなく日本語。慌てすぎだ。
 現れた人影をよく確認する事も無く――だがそれでもぱっと視界の端を掠める色だけであの純白シスターではない事くらい判る――、神裂はもう一度英語で謝罪を言葉にしようとして、
「いえ、お気になさらず。どなたかお待ちのようですね」
「え?」
 返答はまだ声変わりを終えていない少年の、日本語。
 神裂がはっとして姿勢を正すと、そこには一四歳くらいの少年が立っていた。短い黒髪をツンツンと立たせ、ほんの少しだけオシャレに気を使っている程度の、日本ならばどこにでも居そうな様子の少年(ただしこの場が教会であることを考慮して落ち着いた色の服を纏っているし、左腕には黒のコートを掛けていた)。だがその少年の顔と彼が普段どういった場所に現れるかを知っていた神裂は驚きに目を見開く。
「あな、たは……」
「……えっと、神裂火織さん、でしたよね。はじめまして、と言うべきでしょうか」
 少年はそう言って薄く微笑みながら、コートを右腕に掛け直して左手を差し出す。挨拶の握手、という事だろうか。
「上条当麻です。その顔を見ると俺がどこで何をしている人間かは知っていらっしゃるようですが」
「…あ、はい。その、神裂火織です。上条さん」
「当麻、で結構ですよ。最大主教アークビショップもそう呼んでいらっしゃいますし」
「そうです、か」
 当麻に合わせて左手を伸ばし、握手を交す。普通ならば右手でするものなのだが、その右手で武器を扱う武人でもある神裂に合わせて左手を差し出してくれたのかも知れない。名前も知られていた事だし、きっとそうなのだろう。
 神裂は相手の細かな気遣いに表情を緩めて小さく笑った。これまで最大主教の背後で静かにかつ無表情で佇んでいる姿しか見かけた事がなかったために気後れしてしまっていたが、これなら悪くないと思う。
(しかも同じ日本人。やはり日本語が話せると落ち着きますね)
「あの……当麻さん、はこれからご用事ですか?」
「神裂さんの方が年上なんですし、当麻と呼び捨てにしていただいて構いませんから。……俺はもう今日は暇ですね。最大主教から急な呼び出しが無ければの話ですが」
「では私の事も火織―――はちょっと日本人としてはあれなんで、神裂とお呼びください。えっと…当麻」
 初めて言葉を交わした人間の名を呼び捨てにするには、たとえ本人から許可を得ていても躊躇いが残るもの。神裂はほんのりと目元を朱に染めて当麻を呼んだ。
 当麻はそれでいいと言うように微笑み返し、
「解りました。ついでに口調も元に戻していいですかね?」
「え?」
 口調を元に戻す?
 頭の上に疑問符を浮かべる神裂へ、少年は「こういう事だよ」口元に弧を描く。
「で、神裂はここで誰を待ってるんだ? 確かインデックスとか言ってたけど…それって禁書目録の事でいいのか?」
「へっ!? あ、その口調……」
「あれ? やっぱ初対面の女性にこういう喋り方はマズかったかな」
「い、いえ! そんな、事は!」
「そっか? じゃあこのままで行かせてもらうぜ」
 そう言った当麻の顔は先刻の丁寧な言葉遣いの時より幾分年相応に見える。途端に目の前の少年を身近に感じられるようになり、神裂は自分の中の変化に大いに戸惑った。が、それに気付いていないのか、当麻はにこにこと表情を崩したまま楽しげに口を開く。
「いやぁ、それにしてもひっさびさかも知んねー。最大主教と話す時は英国語クイーンズか堅苦しい日本語だったからさ、神裂とこんな風に会話できて本当に助かった。ありがとな」
「い、いえ! そんな! 私の方こそ母国語で話せるのも久々で……とても嬉しく思います」
 建前からではなく本心でそんな言葉がすらすらと出たのは、それだけ自分の国の言葉に飢えていたという事なのだろう。この国で年下の大切な友人を得られたのは本当に素敵な事だと思うが、やはり自分は日本人だったらしい。あの島国に置き去りにしてきた元仲間達のことを振り返れば胸に痛みが走るものの、神裂は少年と言葉を交わす事で温かいような切ないような気持ちになった。
「あ、でさ。やっぱここは同じ日本人として訊いてみたかったんだけど、」
「はい、何でしょう?」
「最大主教の日本語っておかしいよな?」
「…………、立場上黙秘権を行使してもよろしいでしょうか」
「それってもう答え言っちまってるようなモンだと思うけど」
「ですよね」
 神裂が控え目な声でそう答えると、次いでどちらともなく「ぷっ」と吹き出した。
「あれって誰が教えたんだ? ……いや、やるとしたら“残りの一人”くらいか」
「おそらくそうでしょう。最大主教の独学もあるのでしょうが、身近に日本人が居れば頼ってしまうのは当然の事。彼女が日本語を話し出したのは貴方が現れるよりも前だったようですから―――」
「じゃあ決まりか。良くやったと言うべきか、何をしでかしてくれたんだと怒るべきか」
「と言いつつも、今一番あの方の傍にいる貴方が何もしていないというのは、つまりそういう事では?」
「や、あれは一応あの方の自尊心その他諸々の事も考えてだな……」
「顔が笑ってますよ、当麻」
「それは見なかったフリをしてくれると上条さんは非常にありがたく思いますですよ」
 話すうちにもっと気が緩んできたのか、当麻の言葉に奇妙な言い回しが表れ始めた。神裂はそんな相手の口調に口元を押さえながら笑い声を上げる。
 そうして会話を続けていると、視界の端にひょっこりと真っ白な姿が映った。
「かおり!」
「インデックス!」
 今度こそ現れた待ち人。真っ白な布に金の刺繍を施した修道服姿の少女がぱたぱたという軽い擬音が似合いそうな調子で神裂達の元に歩いてきた。銀髪碧眼、まだローティーンだと判る小柄であどけない容貌の少女の名はインデックス。正式名称はIndex-Librorum-Prohibitorum、日本語に訳せば禁書目録と言う。完全記憶能力を持ち、それゆえに読むだけで魂が穢れると言う魔道書を十万冊以上も頭に叩きこまれた少女である。
 だがそんな酷な運命など微塵も感じさせず、少女は溢れんばかりの笑顔を湛えて神裂の身体に抱きついた。
「ごめんね、かおり。ちょっと待たせちゃったかも」
「そんな事はありませんよ」
 微笑む神裂。その口から流れ出る言葉は既に英語へと変化している。ずば抜けた記憶力を持つインデックスならばきっと日本語も話せる(現在話せなくてもすぐに話せるようになる)だろうが、それはそれ、これはこれ、である。
「あれ? そこに居るのは―――」
 神裂との抱擁の後、インデックスの視線が当麻へと向かった。その表情から察するに、彼女もまた上条当麻という人間がどこで何をやっているのか多少知っているのだろう。と言うか、互いに最大主教越しに顔を合わせた事くらいならある。視線や、まして言葉を交わすまでには至らなかったが。
 当麻は僅かに硬くなったインデックスの表情を見ると、神裂に向けたのと同じようにやわらかな表情を作って、今度もまた左手を差し出した。
「はじめまして、禁書目録。俺は上条当麻。インデックス、と呼んでも?」
 当麻が紡いだ言葉は日本語ではなく英語。しかも神裂より滑らかで美しい英国語クイーンズだ。やはりローラ=スチュアートの傍に仕えているだけはある、と他人に思わせるには充分な発音だった(ローラの操る日本語はかなりおかしいが、英国語は完璧すぎる程に完璧なのである)。
「うん、もちろん! じゃあ私もとうまって呼んでいい?」
「ああ、そうしてくれると嬉しい」
 生来が人懐っこく清んだ気の持ち主なのだろう。インデックスは当麻の手を握ると硬くなっていた表情を崩し、神裂に向けるのと同じように輝く笑顔を形作った。
 その少女の様を神裂は眩しそうに眺める。インデックスの笑顔は人の心を癒すのだ。聖女のようなその少女は神裂の大切な、本当に大切な友人。一年周期で彼女の身を襲う悲劇を思うとなりふり構わず叫び出したくなるが、今はそれを抑えて神裂はやさしく笑った。
「ん? どうしたインデックス」
 ふとそう言って首を傾げたのは当麻。その視線の先ではにこにこと笑っていたはずのインデックスが急に元気を無くして「はうー」と小さく呟いていた。
 それを見て神裂は「ああ」と思う。彼女はきっと―――
「お、おなかすいた」
 うん。やはり。
 予想通りな友人の様子に神裂の心は和む。
 こうして教会の裏庭で待ち合わせていたのも一緒に食事に行くためだったので、インデックスのこの変化は当然と言えば当然なのだ。
「かおりぃ」
 神裂を見てインデックスが呻く。相当お腹が空いているらしい。「お店に行くまで保ってくださいね」と苦笑いする神裂をインデックスの恨めしげな瞳が見つめていた。
「それじゃあ店に行くまでにこれでもどうぞ」
「へ?」
 疑問符つきで呟いたのはインデックス。彼女の前に手を差し出したのは上条当麻。そして当麻の左手の平に乗っていたのは数個の飴玉。
「え! いいの!?」
「最大主教用の余りでよければ」
「わーありがとう!」
 両手で飴を受け取るとインデックスはとても嬉しそうに頬を緩ませた。“最大主教用”という単語の意味は気にしないらしい。まぁ最大主教も甘い物好きの女性であるというだけなのだから、それで良いのだろう。
「本当にいただいてもよろしいのですか、当麻」
「ああ。俺はそんなに甘い物も食べないから」
 やや申し訳なさそうな神裂の様子に当麻は首を横に振って答える。その対応に神裂はほっと息をつき、短く礼の言葉を告げてからインデックスに微笑みかけた。
「よかったですね、インデックス」
「うん!」
 大きく頷き、次いでインデックスは銀色の髪をふわりと揺らしてもう一度その翡翠の双眸に当麻を捉える。
「君、とってもいいひとだね!」
 きらきらと光る、純真そのものの瞳。打算も何もない無垢な心は未だ数々の邪本・悪本に侵される事なく奇跡のように目の前にあった。神裂はきっとそれに心囚われ、癒されているのだろう。
「良い人、ねぇ……」
 インデックスの視線が再び神裂へと向いた後、当麻は口元に指を当てて苦笑する。
 そうして早速口の中に飴玉を放り込んで幸せそうな顔をするインデックスとそれを見て楽しげに笑う神裂の姿を前にして小さく口元を歪めた。
「良い人なんかじゃねーさ。俺はただの―――――だよ」
 他の二人には気付かれぬよう、そっと。








(2009.04.12up)



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