アタシには、分かったんですよ。
だから、いけないと思った。

でも、見てられなかったから、せめて…。






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雨の降る日は傍にいて
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約束の時間よりも早くやってきた一護を見て、浦原は小さく笑った。
制服のまま。
不機嫌そうな表情で、河原に下りてきた一護は、浦原を見るなり、顔を顰めた。

「…なんでいんだよ」

約束の時間より、早いだろ。
顔にはそう書いてあった。

「キミこそ、早いじゃないっスか」
「…お、俺は、…別に…。家に帰るのが面倒くさかっただけ」

何となく早く会いたかった。
なんて言えるわけもなく、一護はぶっきらぼうに呟く。
他に理由があります。
と明言しているような一護の態度に、浦原は笑みを深くした。

「黒崎サンに早く会いたかったもので」
「…は?」

浦原がそう言うと、一護は一瞬呆気に取られたように動きを止めた。そして、急になにを言うんだ。
とばかりに、一護は怪訝そうに浦原に視線を向けてきた。

「約束より早く来た理由、っスよ」

そう浦原が言った瞬間、一護は一気に顔を染め上げた。
早く会いたかった。
なんて。
まるで、自分の心を見透かされたような気がして、一護は勢い良く浦原から視線を逸らした。
その行動が、もう自白しているのと同じだとも気がつかずに。

これが、本来の彼なのだろう。
そう、浦原は思った。

「ちょっと、お話でもしましょうか」

そう言って、浦原は川の流れのすぐ側にしゃがみ込んだ。
一護も、その隣へと座り込む。
川の流れは、昨日一日が土砂降りだったにもかかわらず、穏やかに流れている。
川面に反射する陽射しが眩しくて、一護は目を細めた。
しばしの沈黙の後、浦原はおもむろに、口を開いた。

「さて、黒崎サン。ここに黒崎サンがいます」

浦原はそう言って、手のひらに乗せた笹舟を一護に見せた。
一護はその笹舟を見て、怪訝そうに浦原を見上げた。
浦原は、そんな視線を受けて、微かに笑い、手のひらの笹舟を指先でつまみ上げる。

「では、この黒崎サンを、川にあずけるとしましょう。
黒崎サン、キミの行くべき航路はどちらでしょう」

川の流れは上から下へ。
そんなことは当たり前だというように、一護は、「こっちだろ」と、川下を指差した。
浦原の指から離された笹舟は、一護の言うとおり、川の流れに沿って川下へと流されていく。
それを一護はじっと見つめていた。

「そう、キミの航路はあちらに向いてるんです」

そんな一護の横顔を見つめながら、浦原は言った。
その声音に、どこか否定的な響きを感じ、一護は浦原に視線を向ける。
川の流れに乗って、川上から川下へ流れることは当たり前なのに、一護には、浦原がまるで、それが間違っていると言っているような気がした。

「キミのとるべき航路はあちら。…でも、本当はそうじゃないんスよ。
キミがそう思い込んでいるだけだ。心の中で、頑なに、ずっとね」

言われている意味が分からない。
一護の顔には、明らかな困惑が浮かんでいた。
それと同時に、原因不明の焦燥が一護を苛みはじめた。

「…なにが言いてぇんだ?」

眉間に皺を寄せて、顔を顰める一護には、苦痛の色が見え隠れしている。

背伸びした子供の、胸のうち。
こびり付いた景色の中の雨模様が、浦原には見えていた。
隠したいもの。隠されたもの。
逃げられないもの。逃げたいもの。
心を荒らすもの。荒らされたもの。
未だ癒えぬ、雨と、子供。


そう。
浦原には分かっていた。
目の前の子供が、なにを必要としているのか。
どんな救いを求めているのか。

いけないと、思った。
けれど、こんな苦しい顔をする子供を、そのままには出来なかった。
見ていられなかった。
だからせめて、道標だけ…。



浦原が抉り始めた傷跡から、一護は無意識に目を逸らそうとしていた。
言い様のない不安な心を隠すように、うつむいて、重たい息を吐いた。
心を落ち着けようと、一護は胸元を手で押さえ、目を閉じる。
一護が、胸の不可思議な焦燥を何とかやりすごし、そして再び開いた時。

目の前は真っ暗になっていた。
辺りを見回しても、何も見えない、暗闇。
そこに、浦原の声だけが響く。

「黒崎サン、キミの行くべき航路は、どっちだと思います?」

二度目の、問い。
それと同時に、一護の回りが少し明るくなった。
見回すと、一護は浅い川の流れの中に立っていた。
浦原の姿は見当たらない。

「さあ、航路はどっちでしょう」

再び聞こえた問いに、一護は先ほどのやり取りを思い出した。
川上から川下へ。

声に答えるように、一護は身体を川下へと向けた。
川下の先、ぼんやりと見える光景に、一護は目を凝らした。

「…あ、れは…」

川下に向いた一護の視界に映ったのは、あの日の、あの雨の日の光景だった。
雨の帰り道。
濡れた道と、繋いだ手。
視界に捕らえる、雨に濡れて立つ子供。

「…っ」

この先を知っている。

見たくない…。
嫌だ…。

押しつぶされそうな思考の中、一護は目を瞑った。








「ほら、キミの航路はこちらに向いたままだ」


全ての感覚を閉ざそうとした一護の耳に、その声が届いた瞬間、一護を覆っていた世界はあっけなく消え去った。
目を開けると、そこは、見覚えのある河原と、隣には浦原の姿。
目の端には、川に流れていく笹舟。

「…な、にが…」

一護は目を見張って、浦原を見た。
浦原は笑みを浮かべたまま、一護を見つめていた。

「時間は、流れていくものです」

浦原はそう言った。
その流れは、この川のようなものだ。

「けれど、その流れは、キミを追い越していくのもじゃない。
キミがこうして生きて歩いているなら、時間はキミの後ろへと流れていくでしょう」

わかりますか。
そう、優しい声音で浦原は一護に語りかけた。

「この川の流れを時間とするなら、キミはそう、まさにあの笹舟のように、時間とともに後ろへと流れている。
それはつまり、キミが進んでいない。立ち止まっているということなんです」

流れる一護の回りの景色は変っていく。
けれどそれは、一護が進んでいるからではない。
進まない一護を追い越して、回りの景色は色を変えるのだ。

「まずは、流れる笹舟から降りて、前を向いて御覧なさいな。
キミが望むなら、この川の上流、あの山の頂にだって行けるんです」

そう言って、浦原は笑った。
ポンポンと、頭を撫でられて、途端に緩くなった涙腺を押し留めようと、硬く拳を握る。
穏やかに流れる川の流れに、いつの間にか笹舟は跡形もなく。
さわさわと水が流れるだけ。

「…さんきゅ…」

消えそうな声で呟かれた言葉が、浦原の耳に届いた。
それとともに、顔を上げた一護の目は、勝気な明るい色をしていた。
本来の、一護らしい瞳の輝きの眩しさに、浦原は思わず目を細める。

「…俺、なんかアンタに格好悪いとこばっかり見せてる気がすんな」

そう言った一護は、照れを隠すように浦原から視線を逸らした。
思えば、初めて会った時もそうだったのだ。
浦原は、まるで一護の心内を知っているかのように、言葉を紡ぐ。
迷っている心に、まるで道標をくれるように、優しく、語ってくれるのだ。
どうして。
と思う。
その理由が、一護には分からなかった。

「…なあ、浦原さん…」

その答えを聞くべく、一護が口を開いたのと、浦原が間の抜けた声を出したのは同時だった。

「あ〜れ〜?いけませんねぇ」
「…はぁ?」

あまりの間抜け声に、一護は怪訝そうに浦原をみた。
浦原は、空を見上げながら、どうしましょう。なんて言っている。

「どうかしたのか…?」
「雨ですよ。降ってくるっスよ!
急いで、ええと、そうっスね、あの橋の下まで走りましょ」

そう言うと、浦原は一護の返事も聞かずに、一護の手をとって走り出した。
引っ張られるままに、一護も駆け出す。
見上げた空は相変わらず青空で、雨が降りそうな気配はない。
疑いながらも、目的の橋の下まで辿り着き、一護が、本当に雨なんて降るのか。そう、聞こうとした時だった。

ザーッ…

響いた雨音に、一護は目を丸くした。
そんな一護を尻目に、浦原はのんびりと降り出した雨を見ていた。

「やー、なんとか間に合いましたね」

そう言って、にこりと微笑まれ、一護は何も言えなくなる。
降り出した雨は、かなりの土砂降りで、とても濡れて帰ろう。なんて気分にはならない。
結局、止むまで雨宿りをすることになり、2人して堤防に寄りかかり雨にくすんだ景色を見つめていた。

それといった会話もなく、雨音だけが鼓膜に入り込む。
太陽の光を失って、薄暗くなった景色のなかで、それでも浦原の目には、一護の色が明るく見えていた。
浦原が一護を見つめていると、ぼんやりと雨模様を見つめていた一護が、ふいに振り向いた。
お互いに視線が交わって、また沈黙。
目を逸らせないまま浦原が見つめていると、一護が視線を地面へと逃がした。

「…どうして、浦原、サン、はさ、…俺に…」

言い難そうに、ぼそぼそと紡がれる言葉に、浦原も一護から視線を外し、燻った景色へと向けた。
それは、一護が聞きたくなるのもしょうがないことだった。
何の理由もなく、ただのボランティア精神で、こんな付き合い。
あるわけない。

「…そうっスね…」

そう。
浦原は思った。

恐らく、初めて会った時から、惹かれたんでしょう。
雨の中、消えそうな背中。
強がりの綺麗な瞳と、その精神に。

「…目が離せなかったんですよ。キミから」

その言葉に、驚いたように浦原を見返してきた一護に、浦原は微笑した。
見開いた目が、ゆがみ、泣きそうな表情に変る。
軽く唇を噛み締めた子供を、愛おしいと、思った。

「…今日、早く会いたいと、思ったんだ…。
毎日会ってるけど、そのうち、会えなくなるんじゃねぇかな、って思ったら、…なんか、すげぇ嫌だったんだ…」

そう、ポツリポツリと話す一護の頬を、浦原は撫でる。
俯いていた視線が、浦原と交わったと同時に、ゆっくりと、薄く開いた唇を塞がれ、一護は目を閉じた。


一度離れた唇は、啄むようにもう一度重なった。
五月蝿いはずの雨音も、遠くのほうで聞こえている気がする。
徐々に上がっていく体温に、眩暈がした。





















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