「二人ともここにいたのか!・・・・・・っ、あんたは、」
「こうして会うのは初めてですね、『玄冬』。・・・私は『白梟』。救世主『花白』を導く者です。」
 青年が古泉と黒鷹の二人を見つけたのは、黒鷹にこの塔へと連れて来られた時、最初に足を踏み入れた(転移してきた)広間だった。しかし現在その場には目的の二人だけではなく、『白梟』を名乗る黒髪の女性と、その背後につき従うような格好でこちらを見据える男―――牢で捉えられた時に現れた眼鏡の軍人までもが存在していた。
 軍人が青年を見据える目には――職業柄、感情をあまり外に出さないのだろうが――まだ人間らしさがある。おそらくは『玄冬』がどういう理由で生まれるのかを理解し、それゆえに複雑な思いを抱くことになっているのだろう。あの街の牢屋で告げた通り、一人の人間よりも世界を選ぶという意志に変わりは無くとも。
 そんな軍人とは趣を異にして、白梟が青年へと向ける視線は酷く無機質なものだった。そこにはかつて黒鷹の話に聞いたような、(多少使命感に燃えすぎる嫌いがあっても)人間を慈しむ心を持った優しい女性を思い起こさせるものなどない。これは彼女自身に何か変化があった訳ではなく、花白を育て、世界を存続させるという役目を担う彼女からすれば、玄冬など所詮は排除すべき『物』でしかないということなのだろう。
 白梟の視線から彼女の考え方を悟り、青年は下を向いて微かに眉根を寄せる。理解出来ない訳ではないが、やはり実際にそういう目を向けられると苦しいのだ。化け物、と呼ばれるのと同じくらいに。
 しかしふと気が付くと、そんな青年の視界を遮るように何者かが前に立っていた。その何者かの陰に顔を再び上げた青年は、白梟の無慈悲な視線から己を守るような立ち位置の相手を瞳に映して「・・・あ」と小さく声を上げる。
「黒鷹、」
「結界を張ったこの塔に侵入するなんて・・・無茶をするね、あなたも。」
 青年の小さな呼びかけに気付いた素振りも見せず(本当は気付いているだろうに)、黒鷹は白梟の視線を代わりに受けながらそう言って肩を竦めた。
「あなたが無理やり入って来てくれたおかげで、こっちは酷い揺れだったんだよ?訪問手順はもうちょっとちゃんと踏んでくれなくちゃ。」
「世界の本格的な死が始まった今、一刻も早く使命を果たさなくてはなりませんから。黒鷹、創造主の願いも忘れて遊び呆けているあなたとは違うのです。」
「願い、ねぇ・・・」
 黒鷹はそう言って一瞬、嘲るように口元を歪めるが、白梟の眉が跳ね上がるのを見てすぐさま表情を元に戻した。
 もしかすると黒鷹は同じ管理者でありながらも、白梟の知り得ない何か重要なことを知っているのかもしれない。しかし黒鷹自身にはそれを口にするつもりなど欠片もないということもまたその表情や雰囲気から窺える。
 白梟が一つだけ諦めを含んだ溜息を零し、次いで青年を一瞥。しかしそれも掠めるような一瞬だけで、彼女の瞳は最終的に古泉へと向けられた。視線を受けた古泉は微かに身を強張らせる。もう、彼女に何を言われ、何を望まれるか解ってしまっているからだ。
「古泉。」
「はい。」
「あなたは自分が何者か解っているはずですね?あなたはこの世界で唯一の、殺しても罪にならない人間、なのですよ。」
「・・・は、い。」
 古泉に『花白』であることを望む視線。これまで一番身近で一番『花白』を強いてきたその瞳。白梟はまさしく『花白』を作り上げた人物と言えた。
 白梟の言葉に古泉は顔を伏せて立ち尽くす。それを古泉の服従と見て取ったのだろう、白梟が冷たい表情に微かな笑みを乗せた。
 彼らの会話の対象たる青年は何をすれば良いのか、何を話せば良いのかも分からず扉の近くに佇んでいる。眼鏡の軍人は白梟の背後に控えたまま不測の事態に備え、その男も含めた全員を黒鷹がただ無言で見据えていた。
 動きが止まった部屋の中、ふと白梟の顔が動いた。彼女が見据えた先はこの部屋にある大きな窓、その向こう側。重く暗い雲が立ちこめた空が広がっている。そして地面には土の茶色も植物の緑も覆い隠す白い雪。静寂が支配するその様子はまさに世界の死と言えた。静かに、静かに、世界は死んでいく。
「・・・玄冬が、生き続ける限り。」
 白梟と同じく外へ視線をやった者の心の中に等しく思い浮かんだ言葉を引き継ぐかの如く声を発したのは、それまで臣下らしく無言を貫いていた軍人だった。彼は白梟が視線で自身の発言が許されたことを悟ると、目礼してから青年へと顔を向ける。
「以前、お前は記憶が無いと言ったな?だがそんなことはどうでも良いのだ。重要なのは一つだけ。このまま『玄冬』が生き続ければ、世界は死んでしまうということ。・・・解るだろう?記憶も、これまでの行いも、他人からの好意も悪意も、何も関係ない。結局のところ、」
 眼鏡の奥の瞳がスッと狭まる。
「お前は生きているだけで罪なんだ。」
「その通り。・・・玄冬、あなたは死ぬべき人間なのです。」
 哀れみのひと欠片も無く白梟が青年を射った。
 しかし、
「―――違う!」
 軍人と白梟の言葉に反応したのは青年本人ではない。青年はただ、口元を緩めて力無く笑っただけだ。わかっている、と。
 その青年の表情に白梟達が何かを思う暇も無く声を荒げたのは、顔を伏せて沈黙を保っていたはずの古泉。叫んだ古泉は鞘から剣を抜き放つと共に床を蹴って白梟へと肉薄した。自分が育てた『花白』の反逆に白梟が目を剥く。しかし古泉の剣が白梟へと振り下ろされる直前、彼女の前に彼女を守るための剣が差し出された。
 キンッ・・・!と清んだ音が響き渡る。
 古泉の剣を弾き返した眼鏡の軍人は白梟を下がらせ、「やっぱりか。」と独りごちた。
「玄冬に近付き過ぎたな、花白。殺すべき相手に無闇矢鱈と接触するからそうなるんだ。初めて顔を合わせた瞬間に正義感を持ったまま殺せていれば、今のように苦しむことも無かっただろうが・・・本当に『花白』というのは愚か者の代名詞だな。」
 その台詞に自嘲が含まれていたのは――古泉や青年は知る由も無かったが――軍人の男が自身の先祖である先代『花白』のことを思い出していたためだった。世界を生かすためにわざと『悪』を演じた先代の玄冬と、そうとは知らず正義の名の下に彼を討った(もしくは偽悪と知りながらも世界の流れに押されるまま一人のやさしい人間を殺してしまった)先代花白。歴史書には記されていない真実に、軍人は当事者である先代花白の子孫だからこそ気付いていた。そして嗤う。本当に『花白』という存在は愚かだと。人を殺すことしか知らず、また教えられてこなかった存在だと。
 軍人の様子に白梟は――彼女自身にはどうでも良いことだと思っているためか――これと言った反応を見せなかったが、代わりに黒鷹がほんの少しだけ片眉を上げた。その表情は言葉にするなら「おや、知ってだんだ?」と言ったところか。
 しかしながらちょうど黒鷹に背を向ける形になっていた古泉がそれを知ることなど出来るはずもなく、また青年を想うが故の激昂と自身の一撃が防がれたことへの苛立ちで、元より軍人の台詞に含まれていた自嘲を察知することも不可能だった。だからこそ古泉はギチギチと鍔迫り合いを続けながら知り合いの軍人を睨み付ける。
「隊長殿、まさか高が一兵団の隊長がこの『花白』に敵うとでもお思いで?」
「言ってくれるな、クソガキが。」
 腕前はさて置き、人間を殺した数で言えば『花白』の方が圧倒的に多いだろう。彼は特別だ。世界のカウントダウンに含まれぬまま人を殺めることが出来る。だからこそ数多くの戦場へと駆り出され、腕を磨き、敵を屠ってきた。いずれ倒すべき『玄冬』がどんなつわものであろうとも決して屈しない強さを持たなければならない、などという建前で国から下された命令により。
 本当に花白で世界を救いたいならば、軍が玄冬を捕らえ、そして抵抗出来ないところで花白に最後の一撃を頼めば済むだろうに。それに気付けず言われるまま多くの人間を屠ってきた花白はやはり愚かだ。
(こんな風に、無駄に強くして最後には反抗される国も馬鹿っちゃー馬鹿だが、なっ!)
 胸中での呟きに合わせて思い切り腕を撥ね上げ、軍人はガラ空きになった古泉の胸へと刃を突き出す。しかし咄嗟に古泉が身を退いた所為で脇腹に掠める程度の怪我しか与えられなかったが。
 軍人の行動に迷いは無い。例え心中でどのように思っていても、自分は軍に属する人間であり、国に従う一人なのだという意志があるからこそ。
「退け、花白。お前は玄冬を殺すためだけに今まで生きてきたんだろう?ならば存在意義を、役目を、全うしろ!」
「うるさい!」
「・・・っ、」
 古泉の横薙ぎの一線が軍人の胸部を切り裂く。瞬時に滲み出る赤は決して少なくない。
 膝をついた軍人はそのまま古泉を睨み上げる。
「世界を、見殺しにするつもりか。」
「『僕』を見ない世界なんて要りませんよ。それに彼だって―――」
 ―――大切だったものは、すべて忘れてしまった。守りたいと思うようなものはもう無いでしょう。
 軍人にだけ聞こえる音量で告げられたその言葉には、ぞっとするような歓喜が含まれていた。声にするだけで一瞬前まであった怒りを塗り変える程の狂った喜び。軍人は舌打ちして呟く。本当に『花白』は愚かだと。
「例え『玄冬』が生き長らえても、お前は死ぬんだぞ。」
「知ってます。」
 それだけ答えて古泉はもう戦えない男から視線を外し、白梟を見た。
「さあ、次はあなたの番ですよ。」
「理解出来ませんね、古泉。あなたは『救世主』。"あの方"がお決めになった世界を救う者だと言うのに。」
「世界・・・世界、ですか。」
 く、と喉の奥を震わせ、古泉は可笑しそうに双眸を細める。その様子に白梟は眉根を寄せて未だ上位に立つ者としての態度を保つが、しかしながら彼女の足は無意識のうちに半歩ほど下がっていた。古泉の喉が再び震える。
「世界、世界、世界、世界、世界。そんなに世界が大切ですか。」
「当然です。世界を存続させることこそが我々の存在意義なのですから。それは勿論あなたもですよ、古泉。」
「・・・ッ!あなたという人は・・・!」
 あまりにもきっぱりと告げた白梟の態度によって古泉の目に再び烈火が灯る。
「そんな誰かに予め決められた役目のためだけに、僕は『僕』を認めてもらえなかったんですよ!?ずっと、ずっと!!」
「それが何だと言うのです。」
「なっ、」
「あなたは『花白』。これは光栄なことなのですよ?世界存続のため、世界の全てから必要とされる存在。そのように壮大で光栄な役割の前に、あなた個人がどうこうなど、どうでもいいことではありませんか。・・・古泉、あなたも素直に認めてしまいなさい。世界に必要とされる花白として、世界を必要としなさい。世界の希望に応え、あなたの役目を果たすのです。」
 薄気味悪く笑う古泉よりも激昂している方が扱いやすいのか。無意識に後ろへと下がっていたはずの白梟は気丈な態度を取り戻し、半ば陶酔しながら古泉に「花白であれ」と説く。
 彼女の言を聞き、古泉の柄を握る手にはぎゅっと力が篭った。世界が必要としているから?だから『花白』として世界を救え、と?古泉一樹を見てくれない、こんな世界のために大切な人を失え、と?
(――― 一度『彼』を失った僕にまた失えと言うのか・・・!)
 抑えようもない怒りが古泉の中で吹き荒れる。奥歯を噛み締めてギリ、と歯軋りをし、双眸は鋭く白梟を睨み付けた。
(だったら!)
 古泉が駆け出す。その動きに白梟はついて行けない。ただ唖然として己に向けられた切っ先を見つめるだけ。
「こいず、」
「世界なんか要らない!『僕』を必要としてくれない、存在を認めてくれることすらしない世界なんて!・・・・・・僕には、彼、だけが・・・!」
 古泉が勢いのまま剣を突き出したその時。とん、と白梟の身体が横から誰かによって押し出された。彼女の身体は銀の軌道を外れ、代わりにその誰かが古泉の剣を受け止める。ずぶり、と確かな手ごたえに古泉が相手の顔へ意識を向けると―――

「それでも俺は、世界みんなに生きて欲しいよ。」

「・・・・・・あ、」
 それまで沈黙を保っていた青年が腹部に古泉の剣を突き刺していた。
「そんな、どう・・・して。」
「思い出したんだ。俺が生きて欲しいと思っていた人達のことを。」
 白梟を庇って血を流しながら青年は答える。その声は確かに痛みで辛そうではあったが、同時にとても穏やかなものだった。言葉に偽りなど無いということを証明するかの如く。
「うそ、だ・・・」
 反対に古泉の呟きは酷く掠れていた。その手が剣の柄から離れる。しかし青年の腹部に深く突き刺さった刃が抜けることは無い。皮肉にも抜かれない剣が出血を抑える栓の役目を果たし、青年が出血多量で死亡することを先延ばしにしていた。しかし青年を襲う激痛は相当のもので、古泉が数歩下がった後、青年はぐらりとくずおれた。
 剣を伝って床に広がる血は止まることを知らない。自身で首を切り裂いた時のことを思い出し、青年の喉が弱々しくも笑い声を漏らす。
「回復しないってことは、今のはれっきとした花白からの攻撃だって見做される訳か・・・」
「っ・・・!は、早く治療を!」
 青年の呟きを認められないとでも言うように古泉が声を荒げた。守りたかったはずの存在をその手で傷つけたことで気が動転している。青年に近寄って止血することすら思い出すことが出来ず、ただ周囲に視線を向けるしかなかった。しかし古泉の必至な顔を向けられても軍人は職務を全うせんと無表情・無行動を貫き、白梟もまた無表情。否、見間違いでなければ、彼女はどこか安堵しているようだった。この二人の様子はあまりにも無慈悲かもしれなかったが、立場を考慮するならば当然だと言える。―――古泉が信じられないと目を瞠ったのは黒鷹の様子だった。
 黒鷹は立場を超えて青年が精一杯生きることを望んでいたはずではなかったのか。
 そう古泉が非難と疑問を胸に抱くも、当の本人は既に何もかも諦め切った表情で青年を見つめている。急いで対処すれば一命を取り止めるだろう傷が、さも致命傷だったとでも言わんばかりに。
「なに、を、しているんですかっ!早く彼の傷を塞がなくては―――!」

「無駄だよ。」

「な、ん・・・」
 それはまさしく、絶句、だった。
 諦め切った声と表情で告げる黒鷹に、古泉は言葉を失う。
 動きを止めた古泉へ向け、黒鷹は全ての希望を否定するように小さく頭を横に振った。
「それがこの世界のルールだから。『玄冬』は『花白』から傷を与えられた時点で死亡が確定するんだよ。あとは傷の具合によって死ぬまでの時間が長いか短いかの違いしかない。・・・だからキョンを傷つけてしまったキミに出来ることはもう一つしかない。苦痛に苛まれているキョンの時間を止めてあげることくらいしか。」
「それは・・・っ、それは、彼にとどめを刺すということじゃないですか!」
「だから!そう言ってるんだよ!!」
 古泉の声を押し潰すように黒鷹が初めて激昂を露にした。
「キョンが記憶を思い出した!死に掛けの世界を前にしてっ、自分が生きるより大切な人が生きることを望んでっ、死ぬことを決めてしまった!そして『花白』の剣で傷を負った!・・・だからもう、もう僕らに出来ることは何も無いんだ!!」
 それは、胸が痛くなるような慟哭だった。
 管理者としてこの世界を形作るシステムの全てを理解しているからこそ、今の状況に救いなど得られないという事実に打ちのめされているのだ。ずっと大切にしてきた青年との時間も残りは数十分と無いだろう。黒鷹は呆然となった古泉の横を擦り抜け、膝をつく青年の元へ歩み寄った。
「キョン、」
「くろ、たか・・・」
「キミの最後の望みはある?欲しい物なら何でも持ってきてあげる。見たい景色があるなら何処だって見せてあげる。・・・だからキョン、僕のエゴを少しだけ叶えてくれないかな。」
 眉尻を下げ、震える唇で黒鷹が語りかける。彼を見つめる青年の瞳は徐々に焦点を失いつつあったが、それでも声を聞き、黒鷹の姿を視界に捉え、小さく笑い返した。
「・・・じゃあ、空を、見たい。」
「わかった。」
 黒鷹が小さく頷く。それからチラリと古泉を一瞥して近寄ってくるよう手招きをした。
「花白、キミも一緒に。・・・白梟達はもう帰るみたいだから。」
 その言葉に古泉が白梟達を見ると、彼女は「ええ。」と肯定して台詞を続けた。
「これで世界の存続は確定されました。もう『玄冬』の最期を看取る必要はありませんし、私達は城に戻ります。」
「だそうだよ。・・・それじゃ、花白。キョンの望みを叶えに行こうか。」
 声と共に黒鷹が立ち上がり、パチンと指を鳴らす。すると三人の身体がスッと透け始め―――


 ――― 一瞬後にはどこかの屋上らしき所に足をつけていた。
 頭上に広がるのは鉛色の曇天。風は殆ど無いが、キンと透き通るような冷たさが身体の奥へと潜り込んで来る。
 古泉は瞬きを数度繰り返し、真っ白な息を吐き出した。
「―――ここ、は。」
「塔の屋上だよ。」
 古泉の疑問には手短に答え、あとは視線で地面に横向きで寝そべっている青年の傍へ行くよう黒鷹が促す。古泉がふらふらと頼りない足取りで青年の元に辿り着くと、黒鷹は入れ替わるように後退し、二人を視界に納めた。
 すとん、とその場に古泉が膝をつく。
「どうしてあなただったのでしょう。」
「さあ・・・ね、」
(もっと違う出会い方が出来ればよかったんだがな。例えば平凡な友人としてとか、さ。)
「どうしてっ・・・こんな、ことに。」
 声の主は泣きそうなのか、泣いているのか。
 実のところ、もうこの距離でさえ青年には確認することが出来なかった。激痛は視界を霞ませ、加えて出血が意識を黒く塗り潰し始めている。古泉の頭越しに雪雲を眺めることは出来たが、それも「辛うじて」というレベルだ。もしかしたら現在進行形で網膜に映し出された空ではなく、記憶の中の映像を引っ張り出しているだけではないのかと思えるほど。だが青年はそれでもこの空を本物の"今の"空として古泉ごと視界に納めた。
 これで、いい。
 古泉一樹は青年が守りたかった(生きていて欲しいと望んだ)ものの一つ。この空は青年が死ぬことによって世界に暖かな太陽の光を届けてくれる存在。きっと青年の知っている人間にも知らない人間にも等しく輝いてくれることだろう。
 ふっと青年の双眸が古泉を捉える。そしてひどく穏やかな声で願った。
「さあ、古泉。俺を殺せ・・・頼む、から。」
 ―――正直、痛くて痛くて堪らないんだ。
「・・・ッ、」
 古泉が息を呑む気配に青年は苦く笑う。
 本当のところ、死ぬのは怖い。こうして激痛と血を失う感覚に身体だけではなく心も悲鳴を上げている。しかしそれより何より、今はただ、自分が再び古泉に人殺しを頼んでいる状況が申し訳ないと思ってしまった。大切な、生きていて欲しい人なのに、その心まで優しく守ってあげることが出来なかった、と。それでも生きていれば何とかなる。何とかなって欲しいと思う。生きて幸せを感じて欲しいと思うのだ。
 そうして、古泉の両手が未だ青年に突き刺さったままの剣の柄に触れた。抜かれる刃。溢れ出す赤。
 古泉は全てを押し殺すように無言のまま立ち上がり、剣が大きく振りかぶられる。
 その刃が突き立てられる直前、ふわり、と青年の頬に落ちたのは白くて冷たいもの。
(雪、だ・・・。)
 でもきっと大丈夫。世界を白銀に染めるのはこの雪が最後になる。あとは優しく暖かな風が大地を巡り、人々に喜びの季節を告げるだろう。
 己を弔う最後の白に微笑を浮かべ、そうして青年は永久の眠りについた。





*


*


*


*


*


*






 青い空に一点の黒―――春を告げる鳥が天高く舞い、澄んだ声音で鳴く。
 喜びの季節であるはずなのに、その声はどこか悲しく、聞く者の胸を詰まらせた。
 世界が、また 始まる。






















(2009.03.21up)















<<