―――カラン
「・・・っ、」 磨いている最中のグラスを落とさなかったのは不幸中の幸いと言えた。けれどバイト先の食器類を壊さずに済んだなど思考の遥か彼方に追いやられ、僕はドアを開けて入って来た『客』の登場に意識の全てを注いでしまっていた。 「いらっしゃいませ。」 固まる僕の隣でマスターが今夜の新たな『客』に穏やかな微笑を向ける。 どうも、と『客』も低く落ち着いた声音で答え、実に何気ない動作でカウンター席に座った。まるで僕だけが間違っているかのように僕以外の全ては普段どおりに流れていく。 指先が凍るように冷たく、瞬きすら出来ない。僕はじっとその『客』を見つめ、折角磨いたグラスが汚れるのも気にせず手の中の固体を握り締め続けた。 「この前来た時にはそっちのバーテンダーさん、見なかったんだけど。」 「ああ、ちょうどお客さんがいらっしゃった時に裏で雑用を頼んじゃってましてね。」 「なるほど。」 僕を眺めながら『客』は納得したように頷き、続いてまだ今回で来店二回目でしかないにもかかわらず顔を覚えていたマスターに賞賛を送る。まるで僕のことなど気にも留めないように。 「そう言えば―――」 『客』はずっと落ち着いた仕草と表情でマスターとの話に花を咲かた。 二人の会話の中で僕がようやく酒作りに取り組み始めたという話題が出たところで『客』は興味深そうな(けれどそれは妙にわざとらしい)表情でこちらを見、それならばと口を開く。 「古泉くん、だっけ?じゃあ俺に一つ、何でも良いから作ってみてくれないか。」 「・・・、」 「古泉くん、お客さんがこう仰ってるんだし、ちょっとやってみないかい。」 まだまだ半人前である僕が「お客様に自分で酒を作って出すなんて!」と躊躇っているように見えたのだろう。マスターは優しげな表情で僕に視線を向けながら「やってみなさい」と勧めてくる。ああけれど、違うんですマスター。僕が固まってしまっているのは自分の技術の未熟さに躊躇っているからなんて理由ではないのです。 僕がこうして声も出せないでいるのは。 「大丈夫大丈夫。何出されても怒らないから。若きバーテンダーさんに全てお任せしますよ。」 くすり、と口元"だけ"で笑い、『客』も僕にそう促してくる。嗚呼、まったく十年なんて本当に大きな差が空いてしまったものだ、と絶望にも似た思いが胸に去来する。上手く取り繕って何でもない風に接しながら、それでも自身が決してそうは思っていないことを伝えてくるのだ、『彼』は。 「っ、―――」 そう。 今宵の『客』は『彼』だ。つまりバイトのことがバレた、知られてしまったということ。おかげで彼は怒っている、らしい。それとも悲しんでいるのか?僕が嘘を吐いてしまったことに対して。・・・いや、後者は僕の希望的観測に過ぎない。これは『彼』に対する明らかな裏切り行為なのだから。 「・・・?どうした。あ、無理に作ってくれってわけじゃないから嫌ならそう言ってくれても。」 「意外と完璧主義者なんだね、古泉くんは。」 素知らぬ顔で『客』を演じる『彼』と、全く何も知らないマスターが顔を覗きこんでくる。でもそんなのに構っている余裕なんて今の僕には無くて。彼に嫌われてしまったかも知れないということが、ただひたすら怖くて。まともに視線を返せない。もし視線を合わせた先の彼が冷たい瞳をしていたら。もし失望の色を宿していたら。 実を言うと、例えこのバイトが『彼』にバレてしまったとしても、僕は何となく大丈夫なんじゃないかと思っていた。だって相手は『彼』だ。仲間にひたすら甘くて許容範囲の果てしなく広かった『彼』。だったらこうして僕が嘘を吐いていたことにも苦笑して見せるとか、少しばかり"大人として"怒って見せるとか、そうなると無意識のうちに予想していたのだ。 でも現実は? 目の前に座る『彼』は怒っているのか失望しているのか、それすら悟らせないで(けれど穏やかでないことだけは明確に伝えて来て)微笑んでいる。ぞっとした。まるで奈落に突き落とされたように、必死で縋り付いていた糸がぷつりと無慈悲に切れてしまったような感覚。『彼』の感情を欠片さえ読み取れないことは今の僕にとってこんなにも不安なことなのだ。 早く何かを言わなければならない。このまま沈黙を保っていても何も変わらない。その思考に至ったのはすぐだったのか、それとも何十秒何分も掛かった後なのか。正確な時間が掴めないまま僕がはっとして口を開こうとした、その時、まるで嘘を吐いたことへの弁明を許さないとでも言うように電子音が鳴った。 「―――はい。」 携帯電話の画面に示された名前に不思議な顔をしながら『彼』が答える。が、その表情を見る間に青褪め、仕舞いにはガタンッと音を立てて立ち上がった。 「どうかなさいましたか?」 問いかけるマスターに電話を終えた『彼』が向き直り、落ち着かせようとした努力の跡をその表情に載せながら笑う。 「申し訳ないけど今日は無理でした。会社でちょっとトラブルがあったみたいで・・・」 「それはお気の毒に・・・。では、またのご来店をお待ちしております。」 「ああ、ありがとう。今度こそきちんと寄らせてもらいます。」 手早く準備を整え『彼』は店を出る。その背を見送りながら結局何も言えなかった僕はただ呆然とした表情のまま訳の解らない衝動に駆られていた。 □■□ 『こんな時間に申し訳ございません室長。例の件で少々問題が―――』 先日訪れて気に入り、もう一度足を運んだバーにて。突然電話を掛けてきたのは現在進行中の某プロジェクトの管理者を務めている桜木だった。 桜木が受け持つプロジェクトは我が社の命運を賭けた―――とまで大袈裟なものではないにしろ、それなりに重要な位置づけにある。その中で起こった『問題』を掻い摘んで話す声に俺はだんだんと顔が青褪めていくのを感じ、思わず大きな音を立てて椅子から立ち上がってしまった。 マスターと古泉が驚いた顔で俺を見る。いや、古泉は今の俺の動作に驚いたのではなく、俺とこんな場所で鉢合わせてしまったことを引き摺っているのだろう。俺自身、塾でバイトしているはずの古泉にそことはまったく異なる場所で会うとは思ってもみなかったが。 嗚呼、これってつまり、裏切りというやつになっちまうんだろうか。 そうやって自分を犠牲者として見るのは褒められた行為じゃないが、どうしても一度澱んだ感情を拭い去ることは出来ない。古泉のことだし、何か理由があってのことだとは思うのだが、やはり嘘を吐かれて何も感じないほど俺がこいつに対して無関心でいられるはずもないのだ。だからと言ってそれを素直に表へ出してしまえる年齢はとうに過ぎ去ってしまったのだけれど。 「どうかなさいましたか?」 「申し訳ないけど今日は無理でした。会社でちょっとトラブルがあったみたいで・・・」 立ち上がった俺に何事かとマスターが問い、俺は混ざり合う思考の海から脱して今夜はもうここを去らねばならないことを告げる。それはお気の毒に・・・、と返された言葉は決して社交辞令のみで構成されたものではなく、これからのことを考えて焦りと憂鬱に塗れた感情をほんの少し軽くしてくれたように思えた。 「では、またのご来店をお待ちしております。」 「ああ、ありがとう。今度こそきちんと寄らせてもらいます。」 本当ならここでもう少し古泉のことを(幾許かの期待も込めて)見極めたかったのだが、俺の感情を優先させるわけにもいかず、手早く荷物を纏めて店を出た。 ああそうだ、古泉にメールの一つでも送っておかなければ。桜木の話から察するに今夜はきっと家に帰れないだろうから。 「・・・父子の話し合い、なんてものは出来なさそうだな。」 ぽつり、と零れた呟きに俺は思わず苦笑した。この感情は『親子の感情』なんてものではないだろう?と。 |