古泉がアルバイトを始めた。正確には、増やした。今から二ヶ月ほど前のことである。
大学に入ってからこっち、あいつのバイトは週一の家庭教師のみだったのだが、最近になって塾講師のアルバイトもするようになったのだ。しかも働くのが土曜の午後だった今までと比べて、格段に多い週四日になってしまっている。時間は午後七時から十時までの三時間。実際にはバイト先への通勤時間も含めて最低三十分はプラスされる。・・・理系学生にしちゃあちょっと無理しすぎじゃないか、と思っているのだがどうだろう。 どうやら友人の紹介らしく、それを聞いた俺は最初、もしかして断りづらいのかなとも考えた。しかし古泉は笑顔で首を横に振り、自分から頼んだと言う始末。まあ、中学・高校とそれなりにハードなアルバイト生活を送ってきた奴だから、これくらいのことは屁でもないのかも知れんが・・・。いや、こんなのは俺がごちゃごちゃ言うもんじゃないな。青白い巨人と戦って怪我をするような危険な仕事ではないのだし、あいつがやりたいと言ったならそれでいいじゃないか。 と、自分を納得させようとする俺だが、納得したと見せかけていつも思考はそこで止まり、しかし気分はスッキリしない。スッキリしたいならもっと深く考えればいいのかも知れないが、それ以上自分のもやもやした感情の原因を探ろうとすればあまりよくないものが見えてしまいそうで、無意識にブレーキが掛かるのである。 ちなみに。古泉より十年も年食ってる俺の帰宅時間だが、仕事の都合上定時に帰れることは滅多に無く、普通は午後七時以降になる。つまり古泉のバイトがある日は見事にすれ違っちまうわけだ。家に帰っても照明は点いてなくて真っ暗なんて、一年前まで当たり前だったのに、それが今じゃこんなにも―――。 「くそ、弱いな俺も。」 そう独り言ちたのは、帰宅後、暗い部屋の灯りを点けてダイニングテーブルの上に置かれたメモを見つけてしまったからだ。メモには顔に似合わず(そして相変わらず)乱暴な筆跡で今日は時間が無く俺の分の夕食が作れなかったというような内容が書かれていた。申し訳ありません、なんて必要ないんだぞ古泉よ。別に当番制でお前が絶対に作らにゃならんって事態にはなっていないんだからな。出来る奴がする、出来ないなら無理はしない、それが一緒に暮らす上で俺達の間に出来上がった暗黙のルールだろうに。・・・ああ、だけど。 色々思考を紛らわせようと思ってみても肺の奥に溜まるような重く暗いものはすでに見過ごせない量になってきていた。古泉がアルバイトを増やしてから徐々に嵩を増してきたそれが何なのか、俺ももうそろそろ認めてしまわねばならん頃なのだろうか。そう、なんだろうな。 ソファに腰を下ろし、溜息を吐き出す。 相手は同性で、十歳も年下で、しかも書類上は自分の息子だ。けれどそんなあいつのことを、俺は、確かに。 「・・・こんな気持ちにさせてんじゃねーよ、あの馬鹿。」 毒づく。 しかし気持ちはちっとも晴れちゃくれなかった。 * * * 「どうかされたんですか?」 最近お元気が無いように見受けられましたが、と続く言葉に思わず肩を揺らす。 話し掛けてきたのは同じ職場で働く部下の一人。場所は会社の休憩室。自動販売機で缶コーヒーを買い、一息ついていた時のことだ。 後ろを振り返れば眼鏡越しの理知的な瞳とぶつかる。いかにも"デキる"雰囲気を纏う男―――俺の補佐役でもある桜木はこちらの反応に僅かではあるが眉間に皺を寄せ、どうやら私の思い違いというわけでもなさそうですね、と苦笑を浮かべた。 「仕事は特に問題もなく順調ですし、だとすると私事的なことですよね・・・。私が相談役になることは出来ませんか?」 「いや、お前に愚痴るほど大層なことじゃないんでな。気を遣わせてたんなら悪かった。」 「そんなことはありませんよ。」 そう言って桜木は薄らと微笑む。 にしても俺、そんなに顔に出してたのか。これはちょっと注意が必要かも知れない。桜木は特別敏い方だから、現時点で俺の状態に気付いている人間の数もそう多くは無いだろう。だがこのままの状態を引き摺っていてはいずれ他の者達にも要らぬ心配を掛けさせてしまうことになる。それは避けたい。 それにこんなことを言う俺は、やはり(齢の所為かも知れないが)認めたくないのさ。たった一人の人間、しかも年下で同性の奴にこうまで悩まされているという自分のことを。こっちはもう十も離れた大人だってのに、接する時間が減っただけでウジウジとイジケてしまっている。それが酷く情けなく、恥ずかしいと思うのだ。なんて、格好の悪い。 「室長、ここに皺が寄ってますよ。」 とんとん、と自身の眉間を指で突きながら苦笑される。 なんだか色々と悟っているような顔付きだな、桜木よ。だがまあ、どうせお前のことだ。俺の悩みが言葉通り「大層なものではない(もしくは"そう思いたい")」ものなのか、それとも俺があまり他人に言いたくないようなことなのか、指摘した眉間の皺を見る前から勘付いているのだろう。まったく恐れ入るね。 しかも相手はこちらの心情を察し、それで会話を止めてしまうつもりもなかったらしい。だが無理に聞き出す、なんて無粋なこともしない。桜木が次に取った行動は眼鏡の奥から仕事の時とはまた違った雰囲気を纏う瞳を覗かせることから始まった。 「そう言えば最近見つけたんですけど、近くにイイ感じの落ち着いた店があるんです。この週末にでも一緒にいかがですか?」 つまり成人らしく酒の力に頼ってみてはどうか、という提案である。ただし皆でワイワイ騒いで嫌なことを一時的に忘れてしまうのではなく、静かな空気に身を任せて心を落ち着かせるためのものだとその言葉尻から窺えた。 本当に嫌になるほど気を遣わせてしまっているな、俺は。 相手の気遣いに小さく感謝の言葉を返して承諾の旨を伝える。そうだな、こういう時こそ酒に頼ってみるのもいいかも知れない。金曜の夜は丁度古泉もバイトで家にはいないし、家で一人またあんな気分になってしまうのも避けられるならば避けたいのさ。 本心を言えば、こうやって他のものに頼るより古泉といられる時間が増えてくれた方が嬉しいに決まってる。だが如何わしい仕事ならともかく、家庭教師や塾講師のように真っ当なアルバイトをこちらの気分一つで止めてしまえなんて言える立場でも、俺はないからな。 □■□ 僕が木戸氏から紹介されたアルバイト。それは我が家において「塾講師」ということになっている。なっている、と表現したことからすでに勘付かれた方もいらっしゃるだろうが、まさにその通り。僕は『彼』に塾講師のバイトをしていると言っているけれども、ここ二ヶ月間、真実は某全国展開系塾が入っているビルとは全く別方向にある一軒の店で働いていた。 落ち着いた雰囲気のこじんまりとしたその店が出している商品はアルコール類。カウンター席が主で、棚には色とりどりの酒や透き通ったグラスに混じって銀色に輝くシェイカーが飾られている。そう、僕は先生などと呼ばれる立場ではなく一人の見習いバーテンダーとして働いていたのだ。 理由は簡単。一つ、自他共に認める友人に紹介してもらった仕事だから。一つ、塾講師よりも時給が高かったから。一つ、上手く行けば『彼』のためだけに僕オリジナルのカクテルを作ることだってできるかも知れないから。まあ、最後のはオマケ程度でしかないけれど、僕は彼にこのことがバレたら怒られることを承知で(理系学生としては)多少キツめのシフトを組ませてもらっていた。 これも全ては彼と対等の立場に立つため。僕に"それ"を言った彼はもう忘れてしまっているのかも知れないが、僕は僕の力で彼に自分達の気持ちの証となるものをプレゼントしたいのだ。所謂「給料三か月分」のものを。我ながら恥ずかしい思考回路だとは思うし、僕が何を買うつもりでアルバイトを増やしたのか知った木戸氏にもなんとも言えない笑みを返された。しかし僕は決めたのだ。彼といられる時間を一時的に減らしてでも指輪をプレゼントしてみせる、と。 そしてあと一ヶ月。一ヶ月だけ彼に隠し通せれば最低限のラインは越せることになる。その後でバイトを止めるのか続けるのか、彼に本当のことを言うのか否かはまだ未定だけれども。 「古泉君、ちょっと氷を作ってきてくれないか。」 カウンターでグラスを磨いていると雇い主である初老の男性―――マスターが声を掛けてきた。 「氷ですね。どれくらい作りましょう?」 「そうだねぇ、まあいつもと同じくらいで。」 「わかりました。」 答えてグラスを置き、僕は店の裏へ回る。氷は専門の業者からブロックで買うため(それでも手の平にぎりぎり乗るくらいの大きさにはカットしてもらっているが)、店の表には置かないようにしているのだ。ちなみに氷を作るというのはアイスピックでガツガツと氷の塊から適当な大きさに砕いていく作業を言う。これが結構な力作業で、そろそろ体力が心許なくなってきたマスターには僕のような若者がちょうど必要だったらしい。 店の裏にある冷凍庫から氷を取り出し、手早く砕いていく。初夏とも言うべきこの時期だからこそこの作業は然程苦にならないが、真冬になればなかなかに大変なものとなるだろう。これをマスターに任せるわけにはいかないし、それにこの後新しい人が店に入るとも限らない・・・やはり頻度は減らしてもこのバイトを続けるべきだろうか。などと考えながらガツガツと右手を動かしていた、その時だ。 ―――カラン 「いらっしゃいませ。」 店の方で来客を告げるベルが鳴った。マスターが客を迎えた静かな声も聞こえる。 「ここ、か?」 「ええ。落ち着いたいい店でしょう?」 ・・・・・・え? マスターとは違う、客であろう二人組の声を聞いて、僕は一瞬時が止まったような気がした。 二人うち一方の声には聞き覚えが無い。あるのかも知れないが、気に留めるような人物ではないのは確かだろう。だが問題なのはもう一方。先に「ここか」と発した人物だ。 「ああ、お前の言った通りだ。」 穏やかな声がそう告げる。まるで、まだ涼宮さんに力があった頃――ただし僕がSOS団に入団した当初と比べ、随分皆と打ち解けた頃――の、『彼』が僕に対して向けてくれていたような口調で。 「まさか、」 いつの間にか氷を砕く手は止まり、店から聞こえてくる声に耳を澄ませていた。 途切れ途切れに聞こえてくる声は・・・間違いない。彼のものだ。 まずい。今ここで表に出て行こうものなら問答無用で彼にバイトの内容がバレる。塾講師だなんて言っておきながらそれとは180度逆の店で働いているなんて、彼に知らたら何と言われることか・・・!『機関』に属していた時ならまだしも、彼が今の僕のことを嘘吐きだと認識するなんて耐えられない。それにこうやってお金を貯めている理由が彼との会話にあったなんてことまで知られてしまったら・・・。きっと彼は自分の言葉に後悔を覚えるだろう。そんな必要など全く無いにもかかわらず。 ここはもう、彼が去るまで店の裏で息を潜めているしかないのかも知れない。いつまでも僕が戻って来ないとマスターが不信感を覚えるかも知れないが、それは仕方が無いと思おう。まあ、メモくらいは書いてマスターの近くまで持って行くのもアリだろうけど。 本当にあと少し。あと少しなんだ。それまで絶対、彼にバレるわけにはいかない。 (嘘を吐いてごめんなさい。でも、それもこれも全てはあなたを想うが故なんです!) |