「・・・あ。」
恋心を自覚した夏の日も過ぎ去り、しかも何の行動すら起こせないまま季節は秋へと移り変わった。 ここで何故想い人にアタック出来ていないのか、と責めないでいただきたい。夏休みのあの日、僕が友人相手に啖呵を切ったのは確固とした事実であるが、そのまま想い人にこの感情をぶつけてしまっては今まで築き上げてきた家族としての関係が台無しになると見てまず間違いないだろう。ただでさえ見込みのない想いなのだから――何せ相手は僕と同じ男で、性癖は至ってノーマル、そして元同級生の現十歳年上だ――、今ある繋がりをみすみす手放してしまうのは非常に惜しいのである。 そして冒頭に戻るのだが、そんな想い人である『彼』と一つ屋根の下で暮らせる喜びと、自分の奥に燻る感情とに挟まれて悶々と過ごしていたある休日。僕はキッチンのカウンターに置かれたシンプルな包みを見つけて小さく声を上げた。見慣れたそれは平日の朝、よく僕の分と仲良く並んでそれぞれの鞄に納まるのを待っているもの―――弁当だ。 本日は日曜日であるからして学校は無く、僕に弁当は必要ない。だが生憎"父"である『彼』は休日出勤となっており、僕は朝から彼が自分用の昼食を作る後ろ姿を見かけていた。 珍しいことだが、どうやら彼は弁当を忘れたまま出勤してしまったらしい。 ふと壁にかかった時計を確認すれば、午後までまだ少し時間がある。今日一日、彼と一緒に過ごせないと内心残念がっていた僕には、それがチャンスであるように思えた。 「ただお昼ご飯を届けに行くだけですからね・・・。そうです、息子として何ら可笑しなことではないでしょう。」 周りに誰もいないのは判っているが、なんとなく言い訳めいた呟きを発し、それから僕はいそいそと準備に取りかかった。 □■□ 「・・・あ。」 弁当、家に忘れて来ちまった。 昼休みになって俺と同じく休日出勤だった部下達はそれぞれ己の弁当の包みを開けたり、数人で連れ立って外に食いに行こうと話し合ったりしている。そんな中、俺は空腹を抱えて家に忘れて来たであろう本日の昼食を思い、溜息をついた。仕方ない。わざわざどこかに食いに行くのも面倒だし、このビルの下階に入っているコンビニで何か調達してこよう。 そう考えながら席を立った俺に、しかし部下の一人が目を留めて、 「室長、今日はお弁当じゃないんですか?」 「ん?ああ、家に忘れて来ちまったみたいでな。これから下のコンビニで―――」 「じゃ、じゃあこれから一緒にお昼でもっ!」 ・・・へ? 「あっズルイ!室長、実は私ダイエット中でして、よろしければ代わりに食べていただけませんか・・・なんて。」 ・・・は? 「室長ー!俺らと一緒に行きましょう!美味くて安くてボリュームたっぷりのイイ店知ってますから!!」 ちょ、ちょっと待て。何なんだお前ら。 これは俺が部下から慕われていると解釈して良いのか?メシに誘ってもらえるんだから決して嫌われているわけではないんだろうが・・・。ああ、メシ代が浮くと思ってんのかね。そりゃあ一緒に食いに行くなら上司としてそれくらいは払わせてもらうつもりだけどな。あと弁当を譲ってくれると言ってくださった方、貴女はもう十分細くて綺麗なんだからダイエットなんて必要ないと思います。これはワリと本気で。だからどうぞしっかり昼食を摂ってください。 弁当を手にしていた女性の部下からの申し出にはそうやんわりと断りを入れ(何故か照れられた。可愛いから良いけど)、次いで昼食に誘ってくれた方の部下達の誰と、もしくは全員と何処へ行こうかと頭を捻る。あ、もちろん代金は俺持ちだから妙に高い店だけはやめてくれよ。と言ったら、「代金は俺持ち」の所でガッツポーズをした奴らが可笑しそうに笑った。 「室長最高っ!」 「嫁にしてくれ!」 「待てっ!お前は男だろう!?」 テンション高いな、この職場。ま、今更か。 そうこうしているうちに、結局、ここに残っていた全員で食いに行くこととなり、それから店も無事に決まって、PCの電源を落としてぞろぞろと部屋を出る。弁当組もついて来るらしい。別に構わんが。 しかしその時。 「室長、受付からお電話が。」 「俺に?」 一体何だろうか。そう思いつつ、連絡を受けた部下の一人から電話を回してもらう。 受話器を持ち上げ、伝えられたその内容は―――。マジか。 「皆、悪い。ちょっとだけ待っててくれるか。」 電話を切り、そう告げる。 「構いませんよー。でもどうかされたんですか?」 「何かご用事があったなら私達だけで・・・」 「いや、そんなんじゃないんだ。」 こちらのことを思いやってくれる皆に微笑を向けながら少々急ぎ気味に支度を整える。"あいつ"を待たせちゃ悪いだろ。 「受付に息子が来てるんでな。」 言いながら部屋を出た数瞬後、何故か職場が軽いパニック状態に陥る気配がした。やっぱり俺に子供がいるって変なのか? □■□ 「こい・・・一樹。」 慌てて呼び直す姿に微苦笑を漏らし、『彼』が働く会社の受付前で僕はやって来たその人物を迎えた。ラウンジに移動しつつ、今朝ぶりです、とふざけた挨拶をすれば訝しげな表情が返って来る。 「いきなりどうしたんだ。何か用があったなら携帯に連絡したり―――」 「お届け物ですよ。」 そう答えて手に持っていた紙袋を彼に差し出す。流石にこんな物を電波で伝える術はまだ開発されていませんからね。ちょっとしたサプライズも兼ねてあなたが働く会社に持参させていただきました。 「俺に届け物・・・?」 そう言って紙袋を受け取った彼が中身を覗き込む。"これ"はたぶん間に合ったと思うのだが、はてさて、彼はどんな反応を見せてくれるのだろう。助かった、と言って笑ってくれれば、それ以上に嬉しいことなどないのだけれど。 「あ・・・弁当、か?」 「今朝は珍しく持って行くのを忘れていらっしゃいましたからね。少々お節介かとは思いましたが、即席配達人になってみました。」 仕事の報酬は、夜になるまで会えないはずの人物の顔を見られたことと、加えてその働いている姿に接することが出来た、この二点である。うん、割といい仕事だ。 「わざわざありがとな。助かる。」 僕が会社に現れた理由を知って彼が微笑んだ。 「いえ、お役に立てたなら幸いです。」 期待通りの反応に、思わず頬が緩む。 本当はもっと彼と一緒にいたいのだが、仕事の邪魔になるのは本意ではない。昼食も、僕がいるからと言って彼に自身のペースを乱して欲しくなかったので――忙しい彼のことだから弁当を食べつつ仕事をする可能性だってある――、このまま帰宅するつもりだ。久しぶりにコンビニ弁当のお世話になるのもアリだろう。 「それじゃあ、僕はこれで。・・・あ、そうだ。今夜も遅くなりそうですか?」 「いや、今日は定時に終わる予定だ。夕飯も俺が作るから。リクエストあるか?」 「そうですねえ・・・」 何気ない会話の中にも小さな幸せが詰まっている。その事実に喜びを覚えながら夕飯のリクエストを考えていた僕の視界に見知らぬ人物が映った。知らない人を見かけるのは外出しているのだから当然のことなのだが、その人物に特別意識が向いてしまった理由は、彼女――そう、その人物はベージュのスーツを着こなした可愛い系の女性だった――が、こちら・・・と言うよりもむしろ『彼』の方へと近付いて来たからだ。 僕の視線が真っ直ぐ歩いて来るその女性へと移動したからだろう。彼も振り返り、僕と同じ方向を見た。直後、女性が嬉しそうに破顔する。なんだか、すごく、いやだ。 「室長っ、こちらにいらっしゃったんですね。」 「皆瀬?確か小早川と一緒に昼食に行ったんじゃ・・・」 この女性は皆瀬と言うらしい。彼の部下なのだろう。 彼女の嬉しそうな雰囲気から察するに、彼は相も変わらず周囲から些か過剰な好意を寄せられているらしい。僕が苛立っているのも間違いなくその所為だ。 「お店に入る前に伊藤さんから連絡があったんです!今日のランチは室長のおごりらしいじゃないですか!」 ・・・え? 女性の台詞を耳にした瞬間、僕は目を見開いて彼を見た。同時に、彼が微かな変化だが「しまった」という顔をする。 これはどういう・・・。いや、考えなくても解ることだ。弁当を忘れた彼は本日、部下を連れてどこかへ行く予定だった、と。つまり僕がこうして弁当を届けたのは全くの無駄で、どちらかと言うと彼に要らぬ手間をかけさせ、加えて僕のために嘘をつかせてしまったのだ。 僕は、なんてことを。何も知らず良い気になっていたなんて。穴があったら入りたい。 彼との間に気まずい空気が漂う。だがそれを払拭するように明るく女性が言った。 「ところで室長、こちらの方は・・・」 僕と彼の容姿が全く似ていない所為で「ご親戚ですか?」と問うことも躊躇われたらしい。それでも他人の気を害さない音程とボリュームで話せるのはさすがと言ったところか。(この場合、「さすが」=「さすが彼の部下」である。) 彼も部下の女性の台詞に続かなかった言葉を察したらしく、苦笑を浮かべて僕の肩を引き寄せた。って、ちょっと!?そんなに密着されると心の準備が・・・! 「こいつは俺の息子で、一樹。・・・一樹、この人は俺の部下の皆瀬さんだ。」 突然引き寄せられて心拍数急上昇の僕とは別の意味で、女性が目を瞠る。そりゃあ驚きますよね。彼にこんなに大きな(しかも全く似ていない)息子がいるなんて。 ただ言わせてもらいますが、驚いた後に隠れてショックを受けたような顔をしないでいただきたい。本当に既婚者だったんだ、という呟きは僕の地獄耳がバチッリ捉えておりますので。思わず「彼が既婚者設定で良かった」と胸を撫で下ろしてしまうではありませんか。そんな感情、本来ならば未婚であるはずの彼に抱くには申し訳ないものなのに。(彼は気にしていないと言うけれど、こちらとしてはまだまだ後ろめたいのだ。) 「えっと・・・こんにちは、一樹くん。私は皆瀬と言います。貴方のお父様にはいつもお世話になってるわ。」 「はじめまして、一樹です。こちらこそ、いつも父がお世話になっております。」 心情とは別にするすると言葉が出て、表情が形成される。『機関』のおかげでこういう社交辞令的なものには慣れっこだ。あまり喜びたい事態ではないが、変な対応をして彼に恥をかかせるよりはずっといい。 控えめな笑みを浮かべて女性に対応する傍ら、穏やかな空気とは裏腹に、僕はこの女性を含む彼の部下が彼と共に食事に行くと言うことが酷く嫌に思えた。これが醜い嫉妬であるのは百も承知だ。しかし止めようがないのだから仕方ないだろう? 「あ、そうだ室長!」 「ん?」 「一樹くんも一緒にランチに行きましょうよ。みんな室長のお子さんに興味津々のはずですから。それにこのまま帰して一樹くん一人で食事だなんて可哀想です。」 僕が他人用の微笑を取り繕っていたことに気付いていたらしい彼は、初め女性の発言にあまり乗り気ではないような顔をし――とは言っても実際に表情を変えたわけではなく、僕にしか判らない程度で纏う雰囲気を変えただけだ――、しかし続きの台詞で窺うようにこちらを見た。親として僕が一人だけの食事をすることに懸念を抱き、一方で僕が表情を取り繕ってまで他人と一緒に食事を取らせるのも忍びない、さてどうしよう、と思ったのだろう。 そうですよね。あなたと暮らすようになって以来、一人での食事はあまり歓迎出来なくなりましたよ。けれどあなた以外の他人がその中に入って来るのは決して良い気分じゃない。あなたの悩んでいる通りです。ただしあなたへの想いを自覚している今となっては、また別の思惑も存在するわけでして。 「よろしければご一緒させていただきたいですね。」 笑顔の仮面を被って敵情視察と行きましょう。彼のことだ、好意を寄せてくるのがこの目の前の女性一人だけとは限るまい。 「いいのか?」 「ええ、"父さん"と部下の皆さんのご迷惑でなければ。」 * * * ほぼ全員敵じゃないか! 昼食を終えて僕が抱いた感想はそれだ。ハーレムか。この職場は彼を中心としたハーレム(しかも性別関係なし)なのか。そう言えばSOS団もある意味、彼を中心としたハーレムだったような気がする。しかも彼本人は無自覚の。 どうやら大人になって彼のハーレム属性(と言うものがあるのかどうか知らないが)は更に力を増したらしい。彼に想いを寄せる身としてはなんとも頭の痛い事実である。それだけ彼が魅力的な人間だという証拠なのは確かだが。 表情を取り繕うことも忘れて微かに頬を引き攣らせる僕に気付き、彼が小声で話しかけてきた。 「だ、大丈夫か・・・?」 「ええ、まぁなんとか。」 ちなみに、彼が冷や汗を垂らしながら過剰に僕を気遣っているのには理由がある。食事中に彼の"妻"が実はもう既に他界していることがバレ(勿論それは僕と彼が二人だけで暮らしていることを補うための設定の一つだ)、次いで僕が彼の部下からものすごぉぉぉぉおおく(強調)構われたのだ。本当に疲れた。 ただそのことに関して部下の方々に言いたい。僕に取り入っても無駄ですよ、とね。 彼がそういった好意に鈍いことは既に知れ渡っているらしく、「それならば」と今回、部下の方々は僕の攻略を目的に加えたようなのだ。ちょうど最大の障害である"彼の妻"に関しても心配しなくて済むようになったし。まあ生憎、それは全く逆の効果を挙げてくれたけども。過剰なアピールのおかげで「特に要注意」の人間も何人か判明したのだ。 その要注意人物を横目で確認し、それから僕は姿勢を正した。ちょっといいですか、と告げつつ彼の目を見つめる。 これから僕が言おうとしていることは彼に対するものではなく、こちらに聞き耳を立てている彼女達(一部「彼ら」がいることには、今は目を瞑ろう)に聞かせるのが本当の目的だ。 ああ、こんなことを言えるようになるなんて、恋とは本当に凄いものだな。 「僕、母親なんて要りませんよ。」 「へ・・・?突然だな。まぁうん、そうか。わかった。」 「ありがとうございます。」 いきなりのことに驚きつつも(口だけだが)了承してくれた彼にそう言って微笑む。 周囲の反応を窺えば、笑顔を凍りつかせている女性数人と、自分の感情が僕にバレていたことを知って恥じる何人かがいて、残りの半分くらいは僕ら"親子"を微笑ましそうに見つめている。その半分の中には皆瀬さんとやらも含まれており、所詮は子供の戯言と思っているらしい。まあ、高校三年生にもなってそんなことを言う僕をファザコンだと思うなら勝手にそう思っていればいいさ。 彼から視線を外して僕は『部下の皆さん』にも微笑を向ける。 (あなたたちには絶対に渡しませんから。) 『母親』なんていらない。 誰かに彼を取られてしまうなんて、とてもじゃないが耐えられません。 だから―――何か、行動を起こさないと。 |