古泉の態度がよそよそしく感じられるようになったのはいつ頃からだろう。確か夏休みに海へ連れて行った辺りからだったような気がする。
もともと血の繋がりなんて無い他人の、しかも(今は十年の年の差があるとは言え)同い年の友人という関係だったから、いきなり作り上げてしまった家族というものに、あいつも、そして俺自身もぎこちなさのオンパレードだったことは認めるしかない。それでも時間が経つうちに少しずつ慣れて一緒の暮らしが悪く無いものになっていった、と思っていたんだ。 でもそれは俺だけだったようで、どうやら古泉にとっては違うものだったらしい。触れるとすぐに離れたり、大袈裟な反応をしたり、時には視線すら合わないこともあったりということが、夏休みの旅行に行った頃から目に付くようになった。このことから考えるに、やはり父親面をしすぎたのが古泉の気分を害してしまったのだと思う。奴本人はそれでも自分の気持ちを隠して約束の一年間だけは俺の我侭を聞いてくれるつもりのようなんだが。 あと一年で親子ごっこも終了、か。まあ実際、それでいいんだけどな。終わりのことを考えちまうと胸のどこかが締め付けられるような感覚を覚えなくも無い。しかしそれより何より、もう十八になった古泉には自分の好きなように生きて欲しいと思う。『普通』じゃいられなかったこいつに少しでも『普通』っぽい生活を送ってもらいたくてこんなことになっちまったけど、そんな俺のエゴをいつまでも押し付けていいはずがないんだ。俺からの"保護"なんて不要なのさ。それにもし古泉が望めば『家族』という関係じゃなくたって支援してやるつもりでもある。具体的に言っちまうと金の話になるんだけどな。 あいつが倒れてから十年間、俺はこうやって古泉にしてやれることを全て与えられる人間になろうと、周りの同年代の奴らのように恋人を作ることすら考えずに突っ走ってきた。我ながら「どこの恋する少女だ」って感じさ。それなのに一年だけ面倒を見てハイお終いなんて、そっちの方が可笑しいだろう?古泉がこの生活を好ましく思っていないなら最初の約束通り『家族ごっこ』は一年だけ。でもあいつが何不自由ない生活を送れるように、俺は他の面で助けになりたいのだ。 そんな風に考えていたから、冬になり二度目の三者面談として古泉の通う高校へ赴いた俺は、そこで驚きに目を瞠る破目になった。 古泉が事前に提出していた志望大学のリストを見て、俺達と向かい合わせに座る担任教師が眉根を寄せる。 「・・・古泉くん、キミならもっと上を狙えるんじゃないかしら。」 たとえばK大とか、と女性の教師。俺もその意見には賛成だ。古泉の今の学力ならK大に入ることくらい難しくないだろう。何ならT大を受けたって誰も可笑しいとは思わない。 それなのに古泉は首を横に振る。 「僕はH大に行きたいんです。」 「特別に師事したい先生でもらっしゃるの?」 古泉が希望するH大だってそんなに悪い所じゃない。むしろ良い方に入る。だがT大やK大と比べると大きく見劣りしてしまうのは事実。H大に唯一それらの大学と比較して良い点があるとすれば、今俺達が住んでいる家から楽に通える距離にある、ということくらいだ。でもどうせ古泉は今の家を出て行っちまうだろうから、それすら何の意味も持たない。だったら先生が言うように、H大に古泉の興味を惹くような分野を研究している教授でもいるのだろうか。 しかし古泉はちらりとこちらを見た後、「えぇまあ、」と曖昧に微笑むだけだった。なんだ、違うのか?じゃあ一体どうして。 「・・・そう、わかったわ。それじゃあ古泉くんの第一志望はH大で決定ね。」 納得のいかなさそうな顔で担任教師。 「でもまた後で志望大学が変わったらいつでも言ってちょうだい。冗談ではなく古泉くんの成績ならもっと上を目指せるんだから。」 「はい。今日はありがとうございました、先生。」 古泉が立ち上がって一礼し、俺も同様に頭を下げる。そして共に教室を出た。 前回もそうだったが、今日も帰宅の足は車だ。廊下ですれ違う親子連れに目礼しながら、俺と古泉は臨時駐車場であるグラウンドへと向かう。その途中ではたと気付いた。何を、ってのは勿論、古泉がわざわざH大を志望した理由である。 もしかしてこいつは生活費のことを心配しているんじゃないか? 大学に行く際、自宅から通うのと下宿するのとでは費用にかなりの差が出る。勿論高くつくのは後者だ。 ハルヒにまだ可笑しな力があって古泉が超能力者として働いていたあの頃、『機関』からは基本的な生活費に加えてある程度の"バイト代"も支給されていたらしい。しかしだからと言って古泉に潤沢な蓄えがあるかと聞かれれば、それは否である。だったら今後のことも考えて俺とまだ一緒に住む――つまり家族ごっこを続ける――方が、こいつにとって良いという結果になっちまったんじゃないかね。(別に守銭奴じゃなくたってこういう考えは自然に出て来るだろう。) そんな風に考えずとも、古泉が望めば例え家族じゃなくなったって助けてやるのに。あいつはそう思ってくれていないようだ。ならば教えてやるべきだろう。無理も我慢もするな、この家を出て好きなようになってくれ、ってな。 そう決心して俺は車に乗り込む。家に着いたらちゃんと話し合うとしよう。 □■□ 「なあ、古泉。」 「はい、何でしょう。」 リビングのソファに腰を下ろしてテレビを見ていると、隣に彼がやって来た。どうやら僕に話があるようなので、リモコンを操作してテレビを切る。そんなものよりも優先すべきは彼だ。なんとなく見ていた程度のテレビ番組など比べるべくもない。 隣に座った彼は視線を消えたテレビの方へ向けたまま、こちらに真剣な横顔を晒して数度ゆっくりと呼吸をする。一体何の用だろう。なんとなく、本当になんとなく、あまりいい予感がしないのだが。 「あのさ、」 「はい。」 「担任の先生も仰っていたが、お前ならもっと上を狙えるんじゃないか。」 ああなんだ。その話か。 そりゃあこう言っては何だが、今の僕の学力ならH大より上の大学を余裕で狙える。しかしだからと言って教師を含む周りに言われるままT大やらK大に行く気なんて僕にはさらさら無かった。だってもしそんな所に通うことになれば、僕は必然的にこの家を出なくてはいけない。それでは駄目なのだ。 僕が彼に好意を寄せる他の人々よりも優位に立てるとすれば、それはこの家。一緒に住んでいるという状況だ。それ以外では年齢も性別もこちらの方が不利である。SOS団での経験というものがあるかもしれないが、十年も経ってしまった今、彼の中のそれは(大切な)"昔の"思い出でしかなく、またもしそうでなかったとしても、SOS団の団員は僕だけでなく、魅力的な女性が三人もいることを忘れてはならない。 ゆえに僕は唯一手元にあるこの状況を逃がすわけにはいかないのである。 「H大に行って、あと四年―――卒業するまで今の生活を引き延ばしてくださいませんか。」 あなたと一緒にいたいんです、と心の中だけで呟きながら、決定権を持つ彼に問う。 きっと彼のことだ、僕がH大に拘る理由が解らず首を傾げたとしても、こちらが強く言えば我侭を聞いてくれるだろう。是とするか否とするかは彼の口から出た言葉が全てであるが、それを告げる彼自身は僕のことをいつも優先してくれているようだったから。 家族のままでいることを決して望んでいるわけではないのに、今はそれに縋っている。なんて浅ましいのだろう。 小さく自嘲して、返答を待つ。 だが彼から返って来た言葉は予想と真逆のものだった。 「無理すんな。」 「・・・?」 「生活費のことが心配なら今まで通り俺が出す。遠慮なんかすんなよ。だから古泉、お前はこの家を出て好きなところに行ってくれ。」 横顔を向けたまま彼は控えめに笑う。 え、なに。生活費?遠慮?この家を、僕が出て行く・・・?そんな、どうして。どうしてそんなことを言うのですか、あなたは。僕は本心からここに居たいんです。それにこの生活を始める前、あなた自身が仰ったではないですか。まずは一年、と。つまり僕が望めばこの関係をもっと長く続けても構わない、ということでは? 「・・・どうして、そんなことを仰るのですか。」 「こい、ずみ・・・?」 どうして、どうして。彼はもう僕がここにいることを望んではくれないのだろうか。ああ、本当にどうして。ねえ、どうしてですか。何かいけないことをやってしまったのですか。どうして。 「・・・あ、そうか。」 「おい、古泉?」 ゆらりと立ち上がる。そして座ったままだった彼の正面へ。 どうして彼が僕をここに置いてくれなくなったのか。心変わりをしてしまったのか。その理由をこう考えることは出来ないだろうか。 「誰か、この家に連れ込みたい女性でも出来ましたか?」 例えば同じ職場で働いている部下の誰かとか、ねえ。 それならばこの家の主である彼にとって僕は邪魔者以外の何者でもない。もとより適齢期とも言える彼に恋人がいないことの方が可笑しかったのだ。 以前会社を訪ねた時に感じた雰囲気からは、まだ彼に明確な恋人というものはいなかったように思うが、あれだけ好かれていた彼のことだ、告白でもすれば一発でOKが貰えるだろう。 もう終わりだ。彼は誰かのものになる。きっと素敵な女性と結婚して素敵な家庭を築くのだろう。そして、その家族の中に僕は当然存在せず。 「いきなり・・・何、言ってんだよ。」 戸惑うような、やや掠れた声。こんな声すら近い将来、僕以外の誰かのものになってしまうのだ。そう考えると頭にカッと血が上った。 感情に任せ、彼の両肩を掴んでソファに背を押し付ける。体勢は立ち上がっている僕の方が有利だ。 「なっ、」 「親子ですらいられないのなら、壊してしまってもいいですよね?」 反論は認めず、僕は驚いた顔の彼の口唇に容赦なく噛み付いた。 「んっ!?・・・っ、んん・・・ぁ・・・ふ、」 混乱しているためか、軽く閉じられていただけの唇と歯列を順に割って奥に侵入する。上顎を撫で、反射で縮こまっていた舌を引きずり出し、絡め取って甘噛みを施せば、至近距離で見つめていた彼の瞼がふるりと震えた。可愛い。もしかして彼はこんな行為に慣れていないのだろうか。有り得ないとは思うけれど、もし本当にそうなら嬉しい。 誰にも彼の隣を譲りたくない。彼の一番でありたい。しかしそんなのは無理。解っている。だから。 一度唇を離して目尻や頬、そして首筋へと軽く落としていく。その度に触れた身体がビクついて愛しさが増した。ああでもこのままこの人を奥まで暴いて自分を刻み付けてやりたいと凶暴さが頭をもたげ始める。そうだ、壊してしまえ。どうせあと数ヶ月で終わってしまう関係なら、こちらから壊して一度だけ彼を手に入れたって構わないではないか。 「ちょ・・・こ・・・ずみ、っ・・・やめ、・・・ぃっ・・・・・・、やめろって言ってんだろ!」 「―――ッ!」 痛っ!マジで痛いんですけど!!向こう脛が、弁慶の泣き所が!ちょっとあなた、今、思いきり手加減無しで蹴ったでしょう!? 左足を直撃した激痛に思わずしゃがみ込んで呻いた。痛みで思考も軽く吹っ飛んだような気がする。 「お前がとち狂った真似をするからだ。・・・で、正気に戻ったか?」 唇を袖で拭い、こちらを見下ろしつつ呆れたような声で彼はそう言った。嫌悪しているというわけでもなさそうだが、その表情には怒りのようなものが見て取れる。 家族としてでも一緒に居られるならそれで良かった。でもそれは決して叶わない願いで、結局は暴走して呆れられて怒りを買って。なんとも言えない痛い思いまでして。ああもう情けない。どうして僕はこんなにも子供なんだろう。もし彼と同い年のまま成長出来ていたならば、もっと上手く彼が好きな自分をコントロールすることも可能だったのだろうか。 ままならない現状と幼い自分が悔しくて、悲しくて、思わず目頭が熱くなった。そして、ぽとりとカーペットに落ちる水。 「古泉!?」 無理やり口付けた時よりも驚いているような彼の声が聞こえる。 「わ、悪い!そんなに痛かったか!?もしかして骨にヒビとか入っちまったり・・・ああ、古泉。なあ、古泉ってば。」 答えなくてはいけないと理解しているのだが、目から溢れる水が止まらない。格好悪い。今の僕、すごく格好悪い。なんだかもうどうにでもなれって気がしてきた。ここまで情けないところを見られたのだ、あといくつかダメダメな自分を見られたって変わりはしないだろう。 ひっく、ひっく、と小さな子供のように嗚咽を漏らしながらも、僕は所在なさげに空中を彷徨っていた彼の手を掴んだ。 「こいずみ?」 ねえ、 「おい、古泉。」 知ってました? 「古泉、どうしたんだよ。」 僕はあなたが、 「好きです。」 「・・・え?」 「僕はあなたが好きなんです。息子としてではなく、一人の男として。」 言った。言ってやった。 どうせこれが最後なんだから、ついでに思いきり笑ってやろう。きっと涙でぐちゃぐちゃだろうけど、最高の笑顔を彼に。 視線を上げた先の彼の顔は、突然のことに目を瞠って、まばたきもせずにこちらを見据えたまま固まっている。あれ、でも・・・。 「顔が赤い、ですよ?」 「うる、さい。」 彼が顔を背けた。すると露わになった耳までもが赤く染まっている。なんだこれ。僕の目が可笑しくなってしまったのだろうか。 「どうかしたんですか。」 「だまれ。お前しばらく喋んな。」 横を向いたまま彼は「くそっ・・・」と毒づく。「マジで俺は十年前から恋する少女だったってワケか?」って何ですかそれ。あの、えっと、それってもしかして。 「僕の都合の良いように考えてもよろしいでしょうか。」 「だから黙れって言っただろ!」 「だ、黙ってなんかいられません!だって僕は本当にあなたが好きなんです。」 「ッ!」 視線の先の横顔が更に赤味を増した。 どうしよう。すごく可愛い。僕より十年も長く生きているくせに、こんなに可愛いなんて反則だ。 「好きです。あなたが好きです。大好き、だ!お願いです。もっと一緒にいさせてください。どんな形だっていい。あなたの傍にいさせて欲しいんです。」 そっぽを向いていた彼がようやくこちらを見た。その目元には綺麗な朱が刷かれていて、今すぐにでも触れたいと思ってしまう。 うろうろと落ち着き無い彼の視線が僕の顔を掠めたり、足元のカーペットを掠めたり。口は何かを言おうとしては閉じられ、また開く。そんな仕草さえ全部愛しく思えて仕様が無い。ああでも、どうかその口で答えをください。僕に。 あなたと一緒にいてもいいですか。 「・・・・・・まあ、この家で一人暮らしってのも寂しいだろうからな。」 「っ!ありがとうございます!愛してます!!」 「こらバカ!抱きつくな!!」 かなり容赦なく顔を叩かれた。痛い。でも構うものか。僕は今、すごく幸せなのだから。 |