「この春から皆さんと同じ学校に通うことになりました、古泉一樹です。皆さんと一緒に勉強できるのは残り一年しかありませんが、どうぞよろしくお願い致します。」
高校生活二度目の「転校生の自己紹介」を終え、やはりこういう時の学生達の反応は十年経っても変わらないのだな、と思いながら――それでも勿論考えを顔に出すことはないが――席に着いた。 微笑を向ければ、大半の女子は頬を染め、何割かの男子は嫌そうな(もしくはガッカリした)顔をする。自分の容姿が周囲にどう見られているのか、それはかつて『機関』でもしっかり教え込まされており、彼らの反応に対して特に心を動かされることもなかった。 「古泉くん、これからよろしくね。」 「あ、はい。よろしくお願いします。」 隣の席に座っている女子生徒に穏やかな声で返すと、彼女及びその周りの人間が一瞬不思議そうな顔をした。どうしたのだろう、とも思ったが、何と言うことはない。どうやら彼女達は僕が敬語だったことに驚いただけのようだ。 「あたしたち、同い年だよね?日本の高校に飛び級とかってあったっけ。」 「それとも緊張してんのか?」 僕の前の男子生徒がそう言って笑顔を向けてくる。 彼らと僕が(身体的及び僕自身の記憶的には)同い年であることは確かだし、またこれと言って緊張しているわけでもない。しかし僕の口から自然と出てきた言葉は敬語の形をしており、それはつまり、笑顔と共にこの口調さえいつの間にか癖になってしまっていたということなのだろう。自分自身でも少々驚く。 「いえ、ただこれまでの環境の所為で誰に対してもこういう話し方になってしまうようです。」 「へえ!よっぽど礼儀正しいお家で育てられたんだねえ。」 「ええ、まあ。」 向こうが勝手にそう思ってくれるならそれでいい。 今はもう、涼宮さんのためと言って過剰に気を使わなくても良いので、どうやら僕も結構適当な思考回路を形成し始めたようだ。これまでがこれまでだったから、それはたぶん良い兆候なのだろう。きっと『彼』もそう言ってくれるはずだ。お前が"普通"に戻ってきてる証拠だろ、とでも言って。 そう考えるとなんだか嬉しくなって、頬が緩みそうになるのを慌てて引き締める。いくらなんでも転校初日にニヤニヤするのはあまり推奨されるものではないだろうから。 「それでは、改めまして。どうぞよろしくお願いしますね。」 「こちらこそよろしくー。」 「よろしくな、古泉。」 「よろしくねー!古泉くんっ!」 いくつもいくつも好意的な返事が返される。 残り一年の高校生活も、それまでの二年間とはまた違った意味で楽しく過ごせそうだと思った。 □■□ 俺の現在の年齢は27歳。それに対して書類上の息子は17歳。その差、10。常識的に考えて流石にようやく二桁台になった子供が子作りなんて出来るはずもなく、俺の息子・古泉一樹は俺の仮想の妻の連れ子ということになっていた。 「と言うわけで、今後あなたにはこれを身に着けていただきたいのです。」 何が「と言うわけで」なのかイマイチ説明不足に思えるのだが、この人に正面きってそれを告げる勇気など俺にはない。よって俺はその人、古泉一樹と同じく『機関』に所属していた女性・森園生さんから小さな箱を受け取った。 それは外側が淡い色のベルベットで覆われ、どう見てもある物を連想させる。残念なことに俺の今までの人生でそれが必要になったことはないのだが、それでもこのくらいの年齢になると色々そういうものの存在を考えるようになってくるんだよな、まったく。少し前にも一歳年下の部下が休憩中にゼロが沢山並んだカタログを眺めていたし。 森さんの顔がさっさと受け取って開けろ、と仰っていたので、俺は思考を中断し、全面降伏の白旗を全力で振りながらその箱の中身を確認した。 「あの、これは・・・」 「結婚指輪です。」 やっぱりか。 小箱の中には大小同じデザインの指輪が鎮座ましましていた。仮想夫婦のために用意した小道具の一つだろう。ホワイトゴールドのシンプルなデザインは、実際には彼氏彼女の関係になってくれる女性すらいなかった俺に対する森さんなりの気遣いの表れだろうか。 「いえ、ただ単にそのデザインがあなたに似合っていると思いまして。」 そうですか。 さっそく着けてみてください、と言われたのでその通りにする。 銀色の輪がそれまで何もなかった俺の左手の薬指にぴたりと納まった。 リングのサイズがぴったりなのにも、森さんが指輪の代金のことを言わなさそうなのにも、俺は今更驚いたりしないぜ。何と言っても彼女は『機関』の人間――そしておそらく古泉の上司であり、かなり上の方にいらっしゃった女性――なのだから。 「それじゃあ、わたしはこれで。お仕事中に失礼しました。」 「いえ、こちらこそお手数をお掛けしてすみません。また何かあったら気軽に呼び出してやってくださいね。すぐに向かいますから。あ、勿論、用がなくても森さんにお会い出来るのは嬉しいことですけど。」 「あら、随分口がお上手ですね。」 「本心ですよ。」 もし森さんがよろしければ、今度うちに寄って行ってください。大したものは作れませんが、夕食をご馳走致します。それに、森さんが来てくださると古泉も喜ぶでしょうし。 あいつはあれで結構森さんを好いているように思う。年の離れた姉と弟ってところか。だからきっと森さんが夕食を共にしてくれれば古泉の奴も嬉しいんじゃないかね。 「そうですか?それじゃあまた今度、時間が空いた時にお邪魔させてくださいね。」 「はい、お待ちしておりますよ。」 「と言うわけで、俺の指にこの銀色がくっついたんだ。」 仕事から帰った後、目聡くこの指輪の存在に気付いた古泉に問われ、俺は昼間の出来事をそう締め括った。 話が終わった後の古泉が形成した「ほっとしました」と言わんばかりの表情は一体何だろうね。俺に好きな女性が出来て、その人が自分の義母になると心配したのだろうか。安心しろ。お前を預かると言い出したのは俺自身だし、そんな無責任なことをするつもりはさらさら無いぞ。 「それで、これがあなたの指に嵌っている物の片割れというわけですか。」 「ああ。どうせ身に着けるべき女性は実在していないんだし、箪笥の引き出しにでも入れておくさ。」 そう言って指輪を検分している古泉に手を差し出すのだが、奴は一瞬考えて小箱に戻した指輪を自分の方に引き寄せた。 「古泉?」 「これは僕がいただいても構いませんか。」 「いや、まあ、それは別に構わんが・・・。」 そもそも、それを用意したのは森さん(機関)であって、俺ではない。よって俺には古泉の申し出にどうこういう権利が無いのだ。 しかし何故。光り物が好きな部類ではなかったように記憶しているんだが。・・・それほど気にすることでもないか。 「お前が欲しけりゃそのまま持っておいてくれ。引き出しの奥に眠らせておくよりその方が指輪も喜ぶだろうしな。」 「ふふ、ありがとうございます。」 礼を言われることなんかしてねーよ。 □■□ 制服の上から昨夜新しく自分の物になったそれに触れる。紐を通し、首から提げたそれは、僕の指には少々小さく、こういう身に着け方しか出来ないが、この場合では最も適切な方法だろう。 彼の左手の薬指に嵌っているものと同じデザインの、しかしサイズは数段下のリングの確かな形が服の上からでも感じられた。 深く考えず衝動的にやってしまったことだが、後から考えても中々ではないだろうか。現に僕は幾許かの気恥ずかしさを感じながらも胸の奥が暖かくなっているのを自覚しているし。 「おー古泉!おはようさん。」 「おはようございます。」 後ろからやって来た同級生に笑みを向ける。僕の前の座席に座っている人物だ。 思えば、この彼はどこか谷口氏を連想させるな。『彼』に対して谷口氏が取っていた態度と、このクラスメイトが僕に対して取っている態度が似ているからだろうか。 僕はこのクラスメイトの過去二年間を知らないので予想することしか出来ないが、人懐っこい性格は皆に好かれる要素だと思う。 「ん?どうした古泉、なんか嬉しそうだな。」 「いえ、あなたのような素晴らしいクラスメイトに恵まれて良かったな、と。」 「・・・・・・・・・。お前それ素で言ってんのか。」 勿論本心からですとも。まあ、顔が緩んでしまっているのは(不義理なことに)目の前の人物よりも、服の下にある指輪によるものが大きいけれど。 この学校に転入させてくれた彼(と『機関』)に改めて感謝しなくては。素晴らしい環境を与えてくださってありがとうございます、と。でも実際にそれを言うと、『彼』は少し怒るかもしれないな。それが当たり前なんだぞ、と言いながら。実を言うと、その反応すら決して不快ではない。 自分よりも早く出勤した保護者のことを考えていると、訝しげにこちらの顔を覗き込んでいた同級生がニヤリと笑うのが視界の端に映った。 「なぁ古泉、お前やっぱ別のこと考えながらニヤケてんだろ。」 「えっ、そんなことは・・・、」 「隠してもわかるってーの。ま、深くは追求しねえけどな。」 そう言って彼が歯を見せ、楽しんでいますという顔をする。 どうやらこのクラスメイトは谷口氏の人懐っこい性格と国木田氏の鋭さを持っているようだ。あと少し、話し方が『彼』に似ていなくもないかな。 「そうしてくださると助かります。」 こちらが答えると彼は呵呵と笑い、平手で僕の背中を軽く叩くと「先に行く!」と言って走り出した。今日は日直なのだそうだ。 「じゃあまた学校でなー。」 「ええ、学校で。」 クラスメイトの背を見送り、僕はまた一人で通学路を歩く。 一気に賑やかさが失われて寂しかったのか、気が付くと己の右手が再び制服の上から小さな指輪に触れており、僕は小さく苦笑した。 |