目を開けて最初に見たのはシミ一つ無い真っ白な天井だった。
「ここ、は・・・」 「おはよう。古泉一樹。」 「ながと、さん・・・?」 寝起きであるためか少々舌足らずなところを自覚しつつ、ベッドサイドで部室にいる時と同じように本を読んでいた人物の名を呼ぶ。 今日は珍しくも私服なんですね。と言うより、ここはどこなんですか? 「病院。」 「なぜ、」 昨夜は神人狩りも無く、気持ち良く眠りにつくことが出来たはずなのに。それとも実は夜中に『神』の機嫌が悪化して閉鎖空間へと赴いたのだろうか。そしてそこで怪我を負い、病院に担ぎ込まれたとか。記憶が無いのは怪我の所為、もしくは寝起きでぼんやりしているため、ということも有り得る。 しかし長門さんは僕の予想を裏切ってポツリと告げた。 「涼宮ハルヒの能力が消滅したのが原因。あなたを超能力者たらしめていた力が消えたために、あなたはそれまで閉鎖空間で消費してきたエネルギーを眠りという形で回復させる必要が生じた。」 「・・・なるほど。だからその間、何一つ出来ない無防備な僕をここで保護してくださっていたというわけですか。」 「そう。あなたは涼宮ハルヒの影響を強く受け、更にそのすぐ近くにいた人間。だから涼宮ハルヒの能力が消えた後も他者に狙われる可能性が高かった。」 涼宮さんの力が消えたという事実には驚いたけれども、元々その傾向はあったのだし、思ったより受けた衝撃は少ない。それよりもまず「涼宮ハルヒの観察」が目的であるはずの長門さんがその必要も無くなった今、僕を守るためこの場に残ってくださったことに感謝したいと思う。 「長門さん、ありがとうございます。」 「別に構わない。これはわたしの意志であり、"彼"の願いだったから。」 長門さんの口から出た『彼』という単語に胸がざわめいた。 そうだ。彼は、彼はどうなった?僕らが出会い、彼が僕らの存在を知ってから約二年の月日が経ってなお、彼は自分を『鍵』ではなく『彼』として捉えていたから、涼宮さんの力が失われたとしても別段変わっていないかもしれないが。 彼は今、どうしているのだろう。僕が眠りについてから一日か、一週間か、一ヶ月か、どれほど経過したのか判らないが――けれど窓の外に見える景色(桜の芽が徐々に膨らんできている)から判断するに、そう何ヶ月も眠っていたわけではないだろう――、彼のことだから少しは心配してくれているに違いない。他人にそれを指摘されれば、彼はたちまち嫌そうな顔で否定するだろうけど。 「長門さん、彼に会うことは出来ますか?」 「可能。もうそろそろやって来る時間。」 長門さんの言い方は(事実はどうだか知らないが)彼が毎日この病室を訪れていたことを示しているように聞こえて、僕の胸はほんのり温かくなる。でもまずは心配を掛けてしまったことをきちんと詫びなければ。 静かだった廊下に足音が響く。長門さんは何も言わないけれど、彼が近付いて来ているのだと解った。何故かと問われれば答えに窮するが、もしかしたら長門さんの表情がほんの少しやわらかくなったように見えたからかもしれない。 カチャリ、と廊下側からドアノブに手が掛かり、ゆっくりと回される。僕はベッドから上半身を起こしてそれを見つめた。 「長門、古泉の様子は―――」 扉を開きながらその人物は習慣化してしまったような声音でそう告げる。 ああ、彼の声だ。 手はいつの間にか白いシーツを強く握り締めており、緊張のために喉がごくりと鳴った。そんな僕の視線の先で、彼がこちらを見・・・・・・・・・・・・・・・え? 「長門、なぁ・・・これは、夢か?」 「夢ではない。古泉一樹はつい先程目覚めた。」 「・・・ッ!」 濃灰色のスーツをピシリと着込んだその人が僕を見据えて息を呑む。何かを耐えるかの如く歪んだ顔は、ぎこちない笑みに変わった。 彼、なのか。この人物が。本当に?そんなまさか。だってこの人は僕らと同じ高校生ではない。すでに成人した立派な大人の男性だ。確かに、どことなく彼の面影はあるけれど・・・。でもそんなに急に人間が成長するはずはない。僕が眠りに落ちてからそれほど月日が経っていないことは、窓から望める外の季節と僕の身体が証明している。 「・・・あなたは、誰、ですか。」 ぽつりと零れた呟きは、目の前の人物を凍りつかせるには十分だったらしい。その人は顔面に苦笑を貼りつかせて「やっぱりな。」と独り言ちた。 「お前がそう言うのも無理はない。なんせお前ら『機関』の能力者が眠りについてから、もう・・・」 男性は長門さんを見やり、視線を合わせる。 長門さんはその人が何をして欲しいのか理解したようで、一度だけ首を縦に振ると、こちらに向き直った。 「古泉一樹。」 「・・・はい。」 静謐な、けれどその男性と同じ感情を微かに滲ませた瞳が僕を捉える。 「あなたはまだ自身の状況を完全には理解出来ていない。この成人男性は"彼"。・・・何故ならあなたが眠りについてから既に十年の月日が流れている。」 「そう言うわけだ。お前が眠ってる間に、俺はもう二十七になっちまったぞ、古泉。」 そう告げて困ったように笑った顔は、まさしく僕の記憶の中にある『彼』そのものだった。 * * * 身体の成長が止まったまま十年の時を過ごしてしまった僕には身寄りが無い。元々『機関』の人間になると同時に事実上でも書類上でも家族とは切り離されてしまっていたけれど。 そんな僕に男性・・・いや、『彼』は言った。 「古泉、俺と家族にならないか。」 「・・・・・・・・・はい?」 家族?僕と、彼が? 「お前はまだ17歳だ。その年齢じゃあ保護者がいるのは普通だろう?そっちの方が高校生活を送る上でもスムーズにいくし。俺ならお前の身に起きたハルヒ関連のことも解ってるから問題は無いと思う。書類の方も森さんに訊いたら『機関』――って言うか実のところ『機関』自体は殆ど解体されちまってるんだけどな――が手を加えてくれるって言うし。」 だからせめてお前が高校を卒業するまでは俺の息子になってみないか、と。さんざん考え抜いた後の結果だと言うように彼はきっぱりと告げた。 ちょっと待って欲しい。彼の言うことは正論だが、それがどうして彼と家族になることに繋がってしまうのだ。僕が眠っていたのが話の通り十年だとすれば、今の彼は27歳(本人もそう言った)。17歳の息子を持つような年齢ではない。普通ならこれから結婚して子供を儲け、幸せな家庭を作っていくはずではないのか。(彼の左手の薬指に光るものが存在していないことから、彼が未婚でであろうことは推測出来る。) 「だってお前は俺達の仲間だろ?大事な仲間に手を差し出すのは当然じゃねえか。」 「当、然・・・」 「そうだ。長門はずっとお前のこと守ってくれていたし、朝比奈さんも時間を越えてこちらにいらっしゃってくださる。未来のことを容易に話すことは出来んが、態度でいつか必ずお前が目覚めることを約束してくださった。それにハルヒは眠りっぱなしのお前を起こす方法が無いか、人として、団長として、お前の友人の一人として、探し回ってくれている。」 そう誇らしげに彼は言う。 「でも俺は何も・・・長門のような力も持ってないし、朝比奈さんのように時間を越えることも出来ない。ハルヒのように色んなことを調べて、終いには世界中を飛び回って研究することも。だからお前が目覚めた後のことを担当したいと思ったわけさ。」 彼の話し方はつい最近それを始めたというものではない。 いつから・・・と呟いていた僕に、彼は恥ずかしさを誤魔化すため顔を顰めると、 「思ったのは高校三年の夏・・・だったか。ちょうどお前が眠って半年経った頃だな。」 そんなにも前から・・・!? 僕が絶句していると、それまで沈黙を保っていた長門さんがこちらを見て口を開いた。 「その後、彼はわたしと涼宮ハルヒの指導の下、受験勉強に励み大学に合格。卒業後はあなたの所属する『機関』にも関係がある企業へ就職した。」 そう言って、長門さんは最後に彼が就職したという有名企業の名を挙げた。 「あ、こら長門。余計なことまで言うなよ・・・。しかしまあ、そういうわけで古泉、『機関』関連の会社でお前をばっちり養えるくらいには稼げてるから、金のことは心配するなよ。ただお前は俺のエゴに付き合ってくれればいいだけだから。」 きっと僕の負担にならないようにするためだろう。彼は自分のエゴだと言って僕に手を差し伸べてくれている。力を与えられて普通じゃいられなかった僕に出来る限りの『普通』を与えるため。 その包み込むような優しさに、僕は無性に泣きたくなった。 「あなたの・・・」 「どうした古泉。」 気遣わしげな瞳。 ほら、それだけで顔が歪んでくる。胸が、いっぱいになる。 「あなたの、ご迷惑になりませんか?」 そう告げると、彼はしばし目を瞬かせ、次いで高校時代ですら滅多に見せてくれなかった優しい優しい笑みを浮かべて、片手でくしゃりと僕の髪をかき混ぜた。 「迷惑になんぞなるものか。これからよろしくな、古泉。」 「・・・はい!」 こうして僕の新しい生活が始まった。 春からは高校三年生。彼の現住所に合わせて北高とは別の高校だ。しかし十年も経ってしまっているのだから、例え北高だったとしても眠る前と同じようにはいかなかっただろう。よって特に問題は無い。むしろ北高だと逆に記憶との差異を見つけて戸惑ってしまうこともあるだろうし。あの彼のことだ。こういったことも、もしかしたら配慮されているのかもしれない。 新しい住居は長門さんの部屋並みの広さを持ったマンションだった。賃貸だがそれなりの額が必要になっているだろう。しかし『機関』からの補助は無く彼の給料から全額支払われているものらしい。その辺りに彼の現在の懐事情が垣間見える。27と言う若さでこれだけ稼ぐには、並の才能だけでも努力だけでも駄目だ。彼本人は、ただちょっと頑張っただけだ、と苦笑してみせたけど。 それから名前についてだが、僕は相変わらず古泉一樹を名乗ることが出来た。彼の息子になるのなら姓も変わるものだと思っていたのだが、書類を色々と弄って彼と仮想の女性が夫婦となり、その二人を夫婦別姓として扱うことで、僕の姓を変更させずとも良くしたのだ。(妻の方を「古泉」とし、"息子"の僕がそちらの姓に属す、ということになるのである。) 恋人すらいない――きっと仕事一筋だったのだろう――彼をいきなり息子つきの既婚者にしてしまったことは、ひどく心苦しい。しかし「俺の望んだことだからな。」と微笑して見せる彼を前にすると、それが薄くなるのも事実だった。 そうそう。彼曰く、あくまでこの関係は彼のエゴ(と言う名の僕のためのもの)なので、僕が彼を父親と認識し、そのように接する必要はない、とのことだ。つまり家の中などで彼を「父さん」やら「親父」やらと呼ぶ義務はなく、また彼の言葉をその息子として守らなければならないということも全く無い、というわけ。 ここまでしてくれる彼の優しさには、本当に涙腺が緩んで今にも決壊しそうになる。申し訳なさと、それを大きく上回る嬉しさとで。 超能力に目覚めた所為でちっともまともな家庭環境を得られなかった僕だけど、これからの生活は期待に胸を膨らませるに足るものだと思った。なにせ、あの彼と一緒なのだから。 |