「よし、そろそろ帰りましょう。」
 壁際の長門が分厚い洋書を閉じ、それを合図にして団長が立ち上がる。ああ、もうそんな時間なのか。
 団長の背を彩る空は夕焼けの朱色に染まり損ねたような微妙な色で、特に訴えかけてくるものもない。これが雲一つ無い見事な夕焼けなら、一般人的心情として吐息を零すなり軽く目を瞠るなり出来ただろうけどな。まあ、梅雨に入っておきながら雨天や曇天でないだけマシか。
 そう考えつつ、俺は席を"立たなかった"。何故かって?そりゃ、ここ最近のパターンを身体が覚え始めたからさ。
 何も言わず、ゲームを片付ける気配すらさせない俺に代わり、机を挟んで正面に座っていた男がにこりと如才ない笑みを浮かべる。
「すみません。僕達はこのゲームが終わってから・・・」
「スマンな、ハルヒ。」
 ほらやっぱり。今日"も"同じだ。
「もう、またぁ!?ちょっとキョン、あまり古泉くんに迷惑かけちゃだめでしょ!」
 神様はご機嫌斜め具合を隠すこともせず、俺だけを見て文句を言ってくる。確かに、いつも自分より下手に出てにこにこ笑っているような完璧男にイラついた視線を向ける性格ではなかったな、お前は。だからそれは別に構わないんだ。注意すべきはこの台詞が初めてではない、ということ。団活終了後、団長の号令に従わず俺と一樹がゲームを続行するというパターンはもう既に何度も繰り返されていたのさ。一樹がこの部屋で俺を押し倒したあの日からずっと。
 こう何度も何度も一緒に帰宅するのを拒否されてちゃ、幾ら最近落ち着き始めてきた彼女だって腹も立つに違いない。しかし神様のご機嫌を常に最優先にして考えてきた超能力者は彼女の心情を理解しているはずなのに、神の望みとは真逆の行動を取り続けていた。
 閉鎖空間が発生するかもしれないってのに、どういうつもりでこんなことを続けているのか、俺は知らない。でも、それすらもう如何でも良かった。異父兄がそれを望むなら俺はただ従うまでなんだよ。
 胸中で静かに自嘲しながら、けれど俺はいつもどおりを装って憮然とした表情を浮かべる。
「なんで俺だけに言うんだよ。ゲームは二人でやってんだからこいつも同罪だろ。」
 そう言うと、彼女は唇を尖らせて眉間には皺を寄せた。しかし、表情は芳しくないながらもここは団員個人の意思を尊重しようと考えてくれたのか、ふんっ、まあいいわ、と言うと、俺から視線を外して微笑を湛えたもう一人の男子団員に顔を向ける。
「・・・それじゃあ古泉くん、鍵はよろしくね。」
「はい。お任せください。」
 何度も見てきた超能力者が神様から鍵を受け取るというシーンを今日もまた椅子に座ったまま眺める。チラリと視線を移せば、不安そうな表情を隠せない朝比奈さん。それから無表情ながらも何か言いたそうな顔をしてこっちを見ている長門と目が合った。でもきっと、長門は全てを知りながら今のこの状況に手出しすることは無いのだろう。ヒューマノイド・インターフェースは観察することが仕事らしいからな。
 朝比奈さんがメイド服から制服に着替えるのを待って女性陣は帰宅。残された俺達はいったん出ていた廊下から部室に戻り、ボードゲームを再開、するのではなく、一樹が己の定位置である机の反対側には行かずにそのまま俺の身体を本棚に押し付けた。些か乱暴な仕草に――いつものことだが――眉を顰めるが、痛いとこちらが言う暇すら与えず唇に柔らかい物が当たる。「最初」のあの時を除いて、こいつとの行為は全てキスから始まるのだ。
 唇が触れた瞬間から俺は口を半開きにして相手の自由にさせる。くちゅり、といやらしい水音を立てながら熱い舌が侵入してきて好き勝手に口腔内をまさぐった。こいつのキスはきっと上手いと称すべきレベルなのだろう。呼吸が不自由なためだけではない酩酊感で足が覚束無い。相手の袖を掴んで床に座り込まないよう耐えるのがやっとだ。
「・・・っ、は。」
 ちゅ、と嫌味なくらい可愛らしい音を立てて唇が離れた。こちらは息も絶え絶えだと言うのに、異父兄が表情を変化させることはない。
 ああ畜生。慣れてやがるな、こいつ。しかし言っておくが、普通の高校一年生でこんなにキスの上手い奴なんてそうそういないはずだぞ。だから別に俺がそういう点で平均以下なわけじゃない。そこんところ、よろしく頼む。
 もはや誰に言っているのかすら判らない単語の連なりを頭の中で唱えながら必死に息を整える。次は何だ?噛み付くか?それともキスマークか?まだ"逃げ"を見せてはいないから殴られるなんて事態にはならないだろうし。
 やるなら早くしろ、と言いかけた所で俺は間近にある顔が苛立たしげに歪んでいるのに気付いた。また自分が何かやってしまったのかとも思ったが、どうやら違うらしい。舌打ちをして身体を離した一樹が次に取った行動は、まだ鳴ってもいない携帯電話を手に取ることだった。
 何処かに連絡するのではない。手に取られた携帯電話は僅かな間を置いて振動を始める。・・・なるほど、閉鎖空間発生か。やはり先刻のことが原因なのだろう。最近ずっと彼女達とは別れて帰っていたし、その小さな苛々が本日ようやく爆発したというわけだ。
 これからするはずだったあれやこれやが無しになったのは確実で、俺はさっさと帰宅の準備をする。とは言っても、ボードゲームの勝敗を記すために使っていたペンを鞄の中に仕舞うだけで終了なのだが。
 連絡を受け取った一樹が微笑を消した不機嫌な表情で携帯電話をポケットに突っ込む。
「鍵はお前が返しておけ。」
「・・・わかった。」
 一樹は俺の手のひらに鍵を落とすと、後はさっさと部屋を出て行ってしまった。








(2007.10.12up)



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