「やっぱりあなたを送り込んで正解だったみたいね。」
さすが『鍵』のお兄さん、と鈴を転がすような声で上司である女性が微笑んだ。いつもは作り物の穏やかな微笑、怒りを表す時は壮絶かつ妖艶な笑みを浮かべている彼女だが、今回ばかりは本心で喜んでいるらしい。 僕が県立北高校に転校してしばらく後、より正確に言えば愚弟が神の鍵としての自覚を持つようになって以降、閉鎖空間の発生率が目を瞠るほど減少した。元々『鍵』が『神』に接触してからその頻度は減少傾向にあったのだが、その時驚いていた自分達が滑稽に思えるほどの率で激減したのだ。今や神である彼女が目覚めている時間帯において閉鎖空間が生じることは無いと言って良い。時折発生するそれも彼女が夢を見ている時間帯のもので、それは意思を持った存在である限り仕方ないだろう。 世界は平穏に向かっている。これも僕の手柄だと言って直属の上司は嬉しそうに笑った。おそらく僕の功績が認められて彼女の属する派閥が機関の中でより強い地位を得られたのだろう。僕にとっては如何でも良いことだが。僕はただ、こちらの都合などお構いなしにあんな暗い空間へ何度も何度も足を向けさせられずに済むということが、ほっとする唯一の事項である。 閉鎖空間は嫌いだ。僕達超能力者の中で閉鎖空間を好いている者などいないのだが、その中でも特に僕はあの空間を嫌っていた。いっそ憎んでいると言い変えても良い。あの場所は一度壊されてようやく平穏を取り戻し始めていた僕の世界を完膚なきまでに粉々に壊してくれたものだから。 今でも鮮明に思い出せる。突然能力が宿りパニックになった僕は信頼する父の手を引き、その世界に連れて行った。きっと父なら僕のこの恐れを取り除くために何か言葉を掛けてくれるだろう、と甘えに似た感情を伴って。それがどうだ。閉鎖空間で神人と戦う僕を見た父は、それ以降僕を自分の子供として見てくれなくなってしまった。再婚相手の母と一緒に僕を恐れ、拒絶し、ひたすら自分たちの世界から排除しようとしたのだ。 僕の世界は壊れた。強い絆があると信じて疑わなかった血の繋がりを持つ父から拒絶され、硝子のようにバラバラと呆気なく。どん底に突き落とされた僕は自殺間際で機関に拾われ今に至るわけだが、その事実は変わらない。機関では同じ能力を齎された者同士傷の舐め合いは出来ても、傷を癒すことは出来ないのだ。血の繋がった人間に拒絶されて壊れた僕の世界は、また同じ血の繋がった者でないと修復不可能なんだと思う。きっと、そう。 「父親が違うと言っても血の繋がりというのは凄いものね。」 僕を思考の海から引き上げるように上司はまた鈴の音を響かせた。『鍵』が僕の異父弟であり、そいつがどういう経緯で生まれたのかすら事細かに調べた彼女は、自分の判断――僕を『鍵』の説得役にしたことだ――が齎した成功にほっと胸を撫で下ろしている風でもあった。やはり「異父」であるところに同じ両親を持つ場合よりも不安が大きかったのだろう。もし僕と愚弟が反発し合って神に何かあれば、処分されるのは彼女だからだ。僕は閉鎖空間で戦う能力を持っているから多少お咎めは軽減されるだろう。 「血の繋がり、ですか。」 あぁそう言えば、血の繋がりだけを見るなら僕は完全に血縁者から拒絶されたわけではないのか。母親だけが同じあの愚弟は僕の正体を見せられても驚きこそすれ恐れることはなかった。神の近くにいる人間だから多少はマシな反応だろう、くらいで考えていたのだが、その予想を大きく上回っていたのだ。 どうせ気持ち悪がられる、と諦めに似た感情を抱いていた僕を前にし、あいつは「どちらかと言えば今日の放課後、にこにこ笑顔で握手してきたお前の行動の方が気持ち悪かった。」などと抜かして、逆に僕を戸惑わせた。と言うよりも、実はしばらく経った今でも多少戸惑っている。そして考えたくないことだが、僕は確かに安堵もしていた。おそらく頭の中で愚弟イコール血縁者、血縁者イコール父と繋がり、血縁者に拒絶されることが父の拒絶を思い起こさせたからであろう。そうでなければ可笑しい。 「本当に、兄弟揃って神に好かれているのね。」 「好かれているならもうちょっと楽な役回りにして欲しいところですよ。」 そう返すと上司は苦笑し、二言三言交わしてから用は済んだとばかりにさっさと立ち去ってしまった。まあ、彼女にも様々な仕事があるのだろう。僕でさえ閉鎖空間の処理に加えて定期的な報告義務、その他諸々があるのだから、上司にあたる彼女はもっと忙しいはずだ。 お疲れ様です、と礼儀としての挨拶をして僕も帰宅の途につく。マンションに向かうタクシーの中でぼんやりとする僕の脳裏に浮かんでいたのは三年間僕を苛みこれからも縛り続けるだろう神ではなく、何故か上司の言葉で改めて血の繋がりを認識させられた愚弟の顔だった。 ほんっとマヌケ面だぞ、お前。僕と同じ血が入っているとは思えないほどに。 時間的には「2」の後、「3」の前くらいで。 「3」で不機嫌な顔をしたのは無意識のうちに「弟を取られた」と嫉妬したからです。 (2007.10.10up) |