あの奇怪な空間から帰還した日以降、俺は涼宮ハルヒの『鍵』として彼女がとんでもないことを仕出かさないように注意しつつ、それでも最終的には彼女に肯定的・好意的な態度をとる――優しくするというのも、彼女の案を受け入れるというのも、時と場合により何でもした――ことによって閉鎖空間の発生を防ぐことに努めていた。それがどれだけの効果を挙げているのか詳しくは知らないが、少なくとも団活中に異父兄がアルバイトだと言って先に帰ることは無くなったな。ごく偶に夜中や夜明け前、閉鎖空間が発生しているらしいが、夢が原因であるそれにまで俺の影響力が及ぶはずもないので致し方ないだろう。
 なあ、これで満足か。
 文芸部室で向かいの席に座った男に胸中で語りかける。相手の視線は現在、しっかりと白黒の盤面に向けられているので俺の考えていることなど解るはずもないのだが。・・・だからこそ、そういうことを考えていられるのだと言えなくもない。
 それにしてもどうしてこんな序盤で長考するかね。お前、勉強は出来るくせにこういうアナログゲームはとことん弱いのな。ああもしかして似非スマイルと同じようにこれも演技なのか?その真剣に考えてますってツラ、本当はこんな面倒臭いことなんてやってられない、なんて本音を隠すためのものなのかもしれないな。お前の性格からすればそっちの方がずっとしっくりくる。超能力者も大変だな。
 長い指が駒を掴み、前へ進める。ふぅん、そこでルークか。やっぱりお前、出来ないんじゃなくてただ単にやりたくないだけなんだろ。いくら初心者でもそこでそんな手は取らない。俺だってチェスを始めて粗方ルールを覚えた後はそんな手使わなかったぞ。
「次はあなたの番ですね。」
 相手はにこりと微笑つきで促す。俺はこいつのように無駄な長考などせず、さっさと駒を動かした。はい、またお前の番な。何分でも待ってやるから好きなだけ時間を潰せ。しかし曲がりなりにも優等生イエスマンの仮面を被っているなら長過ぎる長考は止めといた方がいいと思うぜ。優等生なのに、っていうギャップも属性の一つに加えるなら構わんかもしれんがな。
「おや、これはまた・・・」
 にこやかに呟きながらも俺の考えが読めたのか、目の前の相手は顔に貼り付けている微笑の中に僅かな苛立ちを見せた。例え真正面から見てもきっと他人には判らないだろう程度のものだけどな。
 しかしそんなことをわざわざ本人に教えてやるつもりはないので俺は視線を逸らして窓の向こうに広がる空を見た。六月に入り、太陽は徐々に夏を思わせる強い光を放つようになってきている。衣替えは既に済んでいるから体感温度として五月後半の頃よりも幾分かはマシだが、少し動けばそれなりに汗も出て来るだろう。と言うか、あの坂道を登るだけで結構身体の水分が抜けているような気がするんだが。
 梅雨入り前の雲一つ無い青空を眺めながら適当なことを考えて暇を潰す。視界の端に映る朝比奈さんは小さなハミングをしつつリリアン編み、長門は相変わらず人が殺せそうなくらいごつい本を膝に乗せて読書、無自覚な世界の中心は夢中でパソコンに何かを打ち込んでいた。
 ご機嫌なのはいいことだ。約一名そうではないのが俺の正面に座っているが、それでもこの状況が特別嫌だと思っているわけでは無いだろう。嫌っている節のある閉鎖空間に行かなくて済んでいるのだから。
 カタン、と硬い盤に駒の置かれる音がした。どうやらその「約一名」さんが長考を終えてようやく俺に次の番を回してくれたらしい。俺の主観かもしれんが、一応さっきよりは考えてる時間が短くなったんじゃないか。
 そう考えながら盤上を一瞥すると、相手の今度の手は一手前とは異なり、かなり鋭いところに打たれていた。俺の態度に腹を立てて多少本気を出してやろうと思ったりしたのだろうか、この異父兄は。だとしたら今日は久々に「古泉一樹の勝利」かもしれないな。これもまた小さな非日常として神様は喜んでくれるだろうか。もし喜んでくれるならこれから真剣に白と黒を戦わせてみる価値もあるだろう。
 最善の手はどこかと探して思考を働かせる。チェスというものは駒を動かすパターンが決まっており、実はその数多くのパターンの中どれだけ覚えられるかで勝負が決まってくるのだとか。嘘かもしれないし、本当かも知れない。ただ、記憶能力は平凡な高校生男子の俺がチェスのパターンをいくつも暗記できるはずが無く、結局はその時その時でどの手がいいのか考えるしかないのだ。ちなみに将棋は自分が相手から奪った駒を使えると言うチェスには無いルールのおかげでそのパターンも一気に増加し、覚える覚えないの次元ではないそうだ。言われてみればそうかもな。
 白の兵士が、騎士が、僧侶が、女王が、王が、白と黒に塗り分けられた盤上から俺を見上げる。さてさて、どの駒を何処に動かすべきか。我らが王に勝利あれってな。よし、ここに―――。
「キョン!」
 団長席から少し高めの声で呼ばれ、手に持った駒を戻す。置いてからでも良いではないかと俺の思考の片隅で声がするが、一瞬でも早く彼女の呼びかけに反応するのも俺の仕事だろ、と一蹴。同時進行で、なんだ、と顔を向ける。
「ちょっとこっち来て。」
 キラキラ光る目で「来い来い」の動作。どうやら何か面白いものでも出来上がったらしい。『鍵』であることを自覚する前の俺ならそこでいったん動作を止めて面倒臭そうな顔をするのだろうが、生憎今はそうではないので素直に席を立った。ゲームをしていた"友人"に中断して悪いという動作を示すため顔を向けると・・・・・・おいおい。折角無意味なゲームから解放されたってのにその顔は何だ。今にも舌打ちしそうな表情だな。何がそんなに面白くないんだ。
「こい・・・、」
「古泉くん悪いわねー。ちょっとキョン借りるわよ。」
「いえ、どうぞお構いなく。」
 神様に声を掛けられると、超能力者はすぐさま表情を取り繕って微笑みを浮かべた。まるで数瞬前に俺が見た表情こそが幻であったかのような早変わりだ。しかし俺が席を立った時に奴がイラついていたのは紛れも無い事実のはず。はてさて、一体何が原因なんだろうね。
「キョーンー!」
「へいへい。」
「へい、は一回!」
「"はい"じゃなくていいのかよ。」
 コントのような会話を交しながら団長席へ歩み寄り、デスクトップパソコンの液晶画面を覗く。とりあえずは一樹の苛々の原因を探るよりこちらの方が優先すべき事項だろう。一樹本人だってそう言うはずだ。
 元気いっぱいで余りまくっている少女の台詞に相槌を打ちながら、俺は『鍵』として楽しそうに笑ってみせた。








(2007.10.10up)



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