「生まれてきてごめんなさい。あの人の子供でごめんなさい。あいつの世界を滅茶苦茶にしてごめんなさい。」

 昔、呟いたことのある台詞をもう一度口にする。あの時と同じように、誰にも聞かれないよう。あの時とは違って、泣きながらではなくただ淡々と。暗唱するかのように。
 異父兄は嫌いだ。自分の母親を嫌いになることは出来ない。けれど異父兄の話とその感情を"理解"することが出来ていた。だから当時の俺は一人、罪悪感に押し潰されそうになっていた時期がある。思いを言葉にして泣きながら闇の中で謝罪するなんて行為は短期間だけだったが、自分の存在に対する後ろめたさが俺の中から完全に消えることはなかった。
 一樹は俺が母親のお腹の中に宿った所為で一度全てを壊された。家庭という、子供にとっては重要な世界を失ったのだ。そう考えているからこそ、あいつが俺を憎んでいるのに対し、俺はあいつが「嫌い」だった。向けられる感情と同じように憎めればどれだけ良かっただろう。憎んで、「そんなこと知るか」と全て切り捨てて、こちらの世界を脅かそうとする存在をひたすら排除する意思だけが残っていれば。けれど現実としての俺は中途半端なまま、一樹のことが嫌いなのに、泣きたくなるくらい自分の存在が申し訳なかった。
 その感情は一樹と会わなくなってから長い時間が経ち、いつの間にか無意識の底に沈んでいた。おかげでネガティブ人間になることだけは避けられたけどな。多少何事においても素っ気無くなってしまった感があるような無いような微妙なところだが、普段の生活を送る上では何の障害も無いだろう。事実、高校一年生の五月まで無かった。
 しかし一樹と再会し、過去に幾度か口にした台詞を吐き出すくらいには無意識が意識に上ってしまったらしい。更にあいつが拠り所にしていた父親すらも今はそうではなくなったことを知り、確実に昔より俺が受けたダメージは大きいようだった。何故なら、あいつがより強く父親を拠り所にしてしまったのは、おふくろと俺の所為。涼宮が云々の前に俺があいつの被る痛みを激増させてしまったのだから。
 現在の異父兄と彼が所属する組織は涼宮ハルヒが不用意に世界を改変しないよう、主に彼女の観察と閉鎖空間の処理に関して活動しているらしい。そして秘密裏に正義のヒーローになってしまっていた「古泉一樹」が俺に望んだのは涼宮の『鍵』としてそれ相応の態度を示すこと。そのために自分が北高に現れ、正体を晒したのだと、閉鎖空間を訪れた次の日に誰もいない高校の中庭で告げられた。
 俺が涼宮の『鍵』?なんでそんな大層なものにならなきゃいけないんだ。一樹が馬鹿らしい嘘をつくことなどないと思っているし、超能力者に関しても証拠を突き付けられたから信じる以外はない。しかし俺が『鍵』だという証拠はまだ提示されていないじゃないか。これでもし、俺の行動一つで世界の危機が救えたとか、そんな展開になったりするならば信じるだろうが――と言うよりも「実感が沸く」とした方が適切かもしれない――、今はまだあいつの台詞を鵜呑みにして自身の行動を変化させる気にはなれなかった。
 でもおそらく、一樹に対して後ろめたさを意識上に復活させた俺は、その『鍵』たる証拠を眼前に突き付けられた時、自分がどんな感情を抱いていようとあいつの望み通り『鍵』として振舞い始めるのではないだろうか。それは世界の改変を恐れているからではなく、異父兄が望んでいるから、という理由で。本当に俺が『鍵』ならば、あいつの望みを、世界を安定させるという願いを叶えられるはずだから。


 そして五月も終わりに差し掛かった頃、俺は自覚させられた。


 長門からは自分が情報統合思念体の作り出した対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェース、つまるところ宇宙人だと告げられ、朝比奈さんからは未来人だと告白された。それぞれに命の危機だったりドッキリとドキドキの二重奏だったりという形でその証拠を提示され、一樹と同様のレベルにまで信じるしかない状況だ。そんな中、最終宣告とでも言うように自分が『鍵』であることを嫌でも自覚させられてしまった。
 現在自分が置かれている光景に苦笑する。
 夜、ベッドに入って寝ていたはずなのに、気が付くと俺は制服で校庭に転がっていた。傍にはハルヒ。一体何だと思いながら辺りを探れば、この場が閉鎖空間と似通っていることを知る。明かりは一つも無く、モノクロの世界で空が薄らと光っているのが唯一の光源。SOS団の根城である文芸部室に向かいそこから町を見下ろせば、更にこの世界の異様さを刻み込まれる破目になった。
 ハルヒはいったん部室に俺を残し、周囲を探検してくると言って不在である。おそらくこの世界には俺と二人きりだというのにその目は輝き、素直に楽しそうだと思えた。そう、楽しそうなのだ。彼女の目は。それに合わせて短い期間に散々言われた俺の役割についての事柄が脳裏を駆け巡る。
「だから言っただろう?お前は涼宮ハルヒの『鍵』だと。この世界には彼女とお前しかいない。何故ならお前だけが神に選ばれた人間だからだ。」
 赤い人型の光として部室の窓の外に現れたそれは、異父兄の声でそう言った。
「全く・・・あれだけ自覚しろと言ってきたのにこんな事態を引き起こしてくれるとはな。やっぱりお前は愚弟のままか。」
 仕方ないだろう。いきなり非日常に放り込まれて鍵だ何だと素直に信じる方が可笑しい。俺はお前みたいに突然全てを理解したような人間じゃないんだ。・・・しかしまあ、流石にここまでくればそれなりのことを考えもする。
「ならさっさと戻って来てくれないか。お前とまた顔を合わせなきゃならないことも、涼宮ハルヒが戻ってくることで神人狩りを続けなきゃならないことも歓迎出来ないが、世界の行く末をまだしばらく安定させられるなら我慢も出来る。」
 苛立つ感情を隠しもせず溜息混じりにそう告げられるが、この現実を目の当たりにした俺には反論など出来ようもない。ただ「ああ、もう時間切れか。」と呟きながら消えて行く赤い光を見据えるだけだ。
「最後にあの二人から言付かってきたことがある。未来人からはごめんなさい、だそうだ。まあ妥当だな。自覚がある分お前よりマシだ。それから宇宙人の方だが、パソコンの電源を入れて欲しい、だ。それじゃあヘマするなよ、愚弟。」
 最後にそう言い残して光が消えた。ならばいつまでも外を向いてぼけっとしてはいられない。
 俺は早速、団長席に鎮座ましますパソコンの電源を入れた。表示されるのはいつもの起動画面ではなく、
「よう、長門。」
 万能宇宙人長門有希からのメッセージ。どうすれば良いと問えば、黒い画面の中、ヒントとして白文字で示されたのはsleeping beautyという単語だけ。しかしそれだけで十分だった。大人版朝比奈さんと今長門が教えてくれた二つの有名な物語に共通する点がイコール解決策と言うことなのだろう。なるほど、俺が『鍵』ならば納得も行く。
 ああ、やるよ。やってやるさ。それが俺に望まれていることなら。そうすることで俺の中の罪悪感を少しでも軽減させることが出来るならば。世界のために、じゃない。俺にはそれしか出来ないから。それがあいつに望まれていることだからだ。結局は全て俺のために。
 部屋の電気が消えたと思ったら代わりに窓の向こうが青白く光り、神人が現れた。おいおい近すぎるだろ。『神様』が部室に帰って来て興奮気味にあれは何だろうかとはしゃいでいる。このままだとあの神人に押し潰されて神様が怪我をするかもしれない。彼女の作った世界なのだから彼女に害を加えるとは思えないが、注意するに越したことは無いだろう。
 神人がこちらをターゲットにする前に彼女の手を引いて走り出す。廊下に出た直後、轟音が空気を震わせた。彼女に怪我をさせてはならないと俺の声かもしくはあいつの声がして思わず小柄な身体を守るように抱き締める。びりびりと部室棟が揺れ、神人の攻撃目標が向かいの棟だったことを知らせるが、いつこちらに目標を変更されるか分かったものではない。俺は多少強引に彼女の手を取り、この棟から脱出すべく走りだした。途中、二度目の轟音と共にまた床が揺れる。
 階段を駆け下り、中庭を横切ってスロープからグラウンドへ出た。俺に手を引かれるばかりではなくきちんと自分の意思で走っているらしい彼女の目はキラキラと輝き、喜びを隠すつもりなどさらさら無いようだ。
 なあ、神様。俺は今、どうして俺を選んだのかとお前を詰るべきなのか、それとも俺を選んでくれてありがとうと感謝すべきなのか、さっぱり分からないよ。でもお前が俺を『鍵』として選んだのなら俺はそのために動くしかないんだろうな。罪悪感を軽減させる機会をくれたことを、お前に感謝しつつ。・・・さあ、戻ろうぜ。
 何体も現れた神人が次々と校舎を破壊していく光景の中、俺は彼女に元の世界へ戻ろうと説得する。しかし神様は自分の力を理解しておらず、更に元々言葉だけで気を変えるような性格でもないため、こちらの世界が良いと駄々を捏ねるばかり。言葉では決定的なものが不足していると感じた俺は、結局、暗に教えられた通り彼女の肩に手を置いて触れるだけの口付けを贈った。
 これでいいんだろ。


「いてっ!」
 左半身を強烈な衝撃が襲って思わず声を出す。目を開ければ灰色の空、ではなく、見慣れた天井だ。どうやら戻って来られたらしい。それは何より。まさかここが改変された後の世界だとしたら大問題だが――特に俺の精神的に――、確かめようにも手段が無い。・・・いや、一応あるのか。
 携帯電話を手に取り、着信履歴を確認する。今月の分を幾らか遡れば一つだけ見知らぬ番号が在った。日付は俺の罪悪感が復活したその日である。
 こんな時間に連絡を取れば、相手は非常に不機嫌な声で迎えてくれることだろう。しかしあれで正解なのかどうか確かめるにはこの相手に尋ねるしかあるまい。他の人物と言う手もあったが、それは性別の所為か何かで躊躇われる。ああ、もしかしたら俺はあいつとの血の繋がりに多少は遠慮しなくても良いと思ってるのかもしれないな。口の利き方と同じように。
 苦笑、そののち表示された番号に電話をかける。何か用事があったのかコールは留守電に切り替わるギリギリの所まで鳴り響いた。
『何の用だ。』
「あれで良かったのか訊きたいだけだ。こっちは改変されていない方の世界だよな?」
『ああ。それで、お前は僕に時間をとらせて何を言って欲しいんだ。」
「まるで俺がお前に褒めて欲しがっているような言い方はしないでくれ。ただ本当に自分のいる世界が元の世界なのか確かめたかっただけだ。」
『あっそ。じゃあもういいだろ。切るぞ。』
「・・・これで良かったんだよな。」
『・・・・・・・・・、』
 無言の後、プツリと回線が切れた。相手から切られた電話はツーツーと単調な音を俺の耳に齎すのみ。しかしながら、あちらの様子が少々気にかかるものの、一応俺は元の世界に戻って来られたらしい。それは何よりだ。
 本当に、何よりだ。








(2007.10.09up)



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