壊れた世界に響く詩
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俺が古泉の寝室に閉じ篭ったその夜、結局俺以外の手によって部屋の扉が開閉されることはなかった。たぶん。
何故「たぶん」を付けるのかと言うと、それは俺が閉じ篭ってベッドに寝転んだ後、再び睡魔に襲われたからである。今度は腹が膨れた故のものなんだろう。そして目覚めれば朝。熟睡していたようだからもしその間に古泉が足音を忍ばせて部屋に入って来ても俺は気付いておらず、真偽の確かめようが無いというわけだ。 ベッドから起きてなるべく音を立てないよう――それでも鎖が擦れる音はするが――部屋から出てリビングに向かうと、昨夜俺が腰掛けてテレビを観ていたソファに見知った奴の見慣れぬ姿があった。長い足が横長ソファの端から飛び出し、その人物のスタイルの良さを知らしめる。おーおー、こんな所で熟睡か。いや、場所がここなのは俺がこいつの寝室を取っちまったからなんだが・・・。 ソファの上、静かな寝息を立てているのはこの家の主である古泉一樹だった。 こいつの寝顔を見るなんて初めてで、好奇心のまま近付いて行く。それにしても美形は熟睡していても美形ってわけか。ソファに寝転がって多少窮屈そうに目を閉じている姿に、一般人――俺とかな――の場合だと感じられる見苦しさや怠惰な感じは一切無い。って、んん?よく見ると目の下に隈がある。やっぱり神人退治で疲れてるんじゃないか。大変なら、今まで通り"そう"ならないようにすりゃいいんだ。なあ、今だって大変だと思ってるんじゃないのか。辛くないわけないんだろう? 自分の手が古泉の頭に伸びていることに気付き、慌てて引っ込めた。それはマズイだろう。俺もこいつも立派な高校生男子だ。一方が寝ている間にもう一方が髪の毛を触るなんて、女の子ならまだしも男の場合は見られたものではない。 そもそもこの感情は何だ。同情か。この犯罪者に? ゆっくりと音を立てないようにソファから離れる。自嘲の吐息も微かに空気を震わせただけで相手に気付かれるような音にはならない。ああ、俺も本格的に頭がイカレてきたようだな。この足は何処に向かっている?あいつに同情して、それを自嘲して、なのに向かう先はキッチンだ。 まずは薬缶に水を入れて火に掛ける。沸騰するまでの間に洗面所へ行き、顔を洗って歯を磨く。戻って来たらトースターに食パンを突っ込んでスイッチを入れ、フライパンを薬缶の隣のコンロにセットして十分熱くなるまで待つ。油、ベーコン、その上に卵を落として火加減を調節。冷蔵庫からレタスとトマトを取り出して冷水で洗ったらレタスは手で千切り、トマトは櫛型にカットして皿に盛り付けた。 ベーコンエッグとトーストの匂いが立ち昇る。湯が沸いたらマグカップを二つ用意して――もうこれが揃いの柄であっても俺はつっこまんぞ――インスタントコーヒーの粉を適量入れ、そこに湯を注ぐ。砂糖とミルクは個人の好みで。 この間、俺は音を立てないようにする、ということを一切考えちゃいなかった。(手早い)調理に音を立てるなというのが無理なことであるし、実はもうそろそろ起きないと朝食を摂って学校に行くという余裕の朝が迎えられないからだ。と言うわけで、これは目覚まし代わりでもある。決して朝ごはんを作っている自分の行動の意味不明さにイラついているわけではない。ないったらない。よっていつの間にか起床して目を見開いているそこのお前、次いで幸せそうな顔になるのは止めろ。これは同情なんだ。だから俺に同情されてるお前が嬉しそうに微笑むことじゃない。 「それでもあなたが僕のために何かをしてくれるという事実が、ただひたすらに嬉しいんです。」 寝起きの、まだ完全には優等生の仮面を被れていない古泉が寝癖も直さず更には目の下の隈もそのままに笑った。如才ない、ではなくそれよりずっと柔らかなその笑顔が、俺にはどうしても作り物のように思えない。なんで、そんな風に笑えるんだ。目の下の隈も満足に消せないくせに。 「どうかしましたか・・・?」 「いや、何でもない。・・・ほれ、食う気があるならさっさと顔洗って来いよ。飯はそれからだ。」 適当に誤魔化して相手を視界の外に追い出す。寝ぼけ頭では常ほどの回転力もないのか、古泉は周囲に花を散らしたまま少し頼りない歩みで洗面所へ向かった。あのフラついた歩みも決して、起きたばかりだからという理由のみではないだろう。まったく、やれやれだね。 「簡単なものだが食え、不健康優良児。あんなサプリメントとインスタントばかり摂ってたら早死にするぞ。」 ダイニングテーブルを挟み目の前に座るスマイル少年にジェスチャーで「さっさと食え」と示す。 簡単なものばかりが並ぶ食卓なのに、どうしてこいつはこんなにも嬉しそうなのか。一人暮らしの男が肉じゃがだとかそれ系の煮物等々、所謂"家庭の味"を前にして喜ぶのならまだ想像も出来るが、自分でも作れる適当な食事にこうも反応を返してくれるのはかえって微妙な気分だ。 「用意されたものが手間暇かけたものだとかそうではない、といったことは関係ありません。僕は"あなたが作ってくれた"という事実にこれ以上無い喜びを感じているんですよ。」 あーはいはい、よかったな。それじゃあ冷めないうちに食ってくれ。いくら簡単な料理だって、出来立ての方が美味しいことに変わりはないからな。 「おや、照れ隠しですか。」 「やめろ気色悪い頬を染めるなニヤつくな。」 いいから黙って食えってんだよ。 テーブルの下で古泉の足を蹴っ飛ばす。右足で蹴ったからその動きに連動してジャラジャラと鎖が鳴った。忌々しい。一見平和な朝食風景になんと不似合いな音か。しかも目の前の奴はそれを気にした様子も無いし。むしろ俺が脛を蹴ったことに喜んでさえいるようだ。お前は人を鎖で拘束するサドなのか暴力を振るわれることが好きなマゾなのか、一体どっちなんだよ。 間違った方向にイラつきつつもベーコンエッグを口に運ぶ。ナイフとフォークで?そんな訳がない。もちろん箸を使って、だ。俺のこの顔でたかが目玉焼き相手にどこぞの映画っぽいシーンを求める必要性が感じられない。そんなものは古泉一人で十分さ。 と思えなくも無かったのだが、目の前の男は見た目だけならまだしも中身がそれにそぐわないらしかった。 正面に座る男はナイフとフォークを持って来るでもなく、おもむろに目玉焼きを箸で掴むと、そのまま皿から丸ごと持ち上げてトーストの上に乗せた。で、それを半分に折り曲げる、と。おいおい、そんな食べ方すると潰れた黄身が服に落ちる可能性大だぞ。 「まだ制服には着替えてませんから大丈夫です。」 「汚れた服は誰が綺麗にすると思ってるんだ。」 まさかそのままゴミ箱行きだなんて環境に優しくないことを言うわけではあるまいな? そう切り返すと相手は何故か一瞬間を置いて、にへら、笑った。 「あなたが洗濯してくださるんですか?なんだかそれって夫婦みたいですね。」 「脳内花畑大会もそれくらいにしてくれ。・・・あ、洗濯で思いついたんだが、」 「何でしょう?」 「俺の服はどうする気だ。このまま着たきり雀だなんて不潔すぎるぞ。」 しかしこの足枷が在っては、上はまだしも下(ズボンと下着)が交換出来ない。そもそもここに俺の着替えがあること前提で話すところから色々と間違っているわけだが、もしお前がこのまま俺をこの家に監禁し続けるつもりならそれ相応のことも考えておくべきだろう。まことに不本意だがね。 わざと右足を動かしてジャラジャラと鎖を鳴らす。これのおかげで俺は制服を着たままで三日目に突入しちまった。なんか気付いたら身体が痒くなってきたような気もするし。風呂にも入ってないぞ、俺。 「すみません、気が付きませんでした。・・・そうですね、良い案が一つあるのでもう少し待ってください。」 「碌でもない案に思えるのは俺の気のせいか?」 「やだな。あなたにとってもそんなに悪くない案だと思いますよ?今の状況とそう変わらないはずですから。」 微笑んだまま物騒なことを言う――だってそうだろう?つまりこいつはまだ俺を拘束し続ける気でいるのだから――古泉に嫌な予感を覚えつつも、きっと周りに花が飛んでいる人間には何を言ったって無意味だろうと判断して俺は溜息をつくに留める。 しかしその次の瞬間、ニコニコと笑っていた古泉の顔が瞬時に無表情へと移り変わった。どうしたのかとこちらが問う暇もなく、奴は席を立ってソファの背凭れに無造作に掛けられていたブレザーのポケットから携帯電話を取り出す。 「やはり僕も行く必要がありそうですね。」 ぼそりと呟かれた言葉は俺に対するものじゃないのだろう。 小さな液晶画面を眺めながらどうやらご出勤決定らしい古泉が肩を竦める。困ったものです、って、原因はお前なんだろうが。 「まあその通りですね。あなたは未だ行方不明のままですし、にもかかわらず学校がいつも通り始まることに彼女は多大なるストレスを感じているようです。」 にこりと笑みを浮かべて言うそいつは本当にこの事態を理解しているのだろうか。自身の異常さも含めて、な。 眉を顰める俺に古泉は何を思ったのか、「朝食はそのままでお願いします。帰ってきてからきちんと食べますので。」と告げると外出の支度をするために部屋から出て行った。 俺はそのまま食事を続行し、あいつの準備が整う前に終了。自分が使った食器と調理に使った道具を洗い始めた。まあ一応、洗ってる最中に「行って来ます。」と声がしたから振り返らないまま「おう。」とだけ答えたがな。誰が「いってらっしゃい。」などと言うものか。言ってくださらないんですね、と悲しそうな声で言うな馬鹿者が。 「そこのソファに座ってしばらく目を瞑っていてくれませんか。」 閉鎖空間から帰って来た古泉が冷めた朝食を片付けた後、満面の笑みで放った台詞がそれだった。 「いきなり何だ。」 「足枷を外して差し上げます。その代わり別の形で拘束させていただきますけどね。・・・ああ、ご安心ください。自由度はこれまでと殆ど変わりませんから。」 怪しい。物凄く怪しい。怪しいのだが、着替えもままならないこの足枷をどうにかしたいのは本当だったし、何よりも帰宅後、冷めて不味くなった朝食(だったもの)――目玉焼きは黄身が潰れてトーストに染み込んだまま冷たくなってるし、サラダも新鮮さが損なわれてしまっていた――を「あなたが作ってくれたものですから。」と美味しそうに完食したこいつの言葉を一刀両断してしまうのも随分と気の引ける作業であり、結局俺は長い長い溜息を吐いてソファに座ることになった。俺は馬鹿か。馬鹿だろう。馬鹿に違いない。そして古泉、お前は愚か者だ。 「僕にも自分が愚か者だという自覚はありますよ。でもあなたと共にいられるなら愚者だろうが変態だろうが何だろうが構いません。」 臆面も無くそう言い切るお前はもはや尊敬に値するね。 「光栄です。」 「褒めてない。」 呆れた声でそう言った後、俺はさっさとこの足枷から解放してもらうために目を閉じた。古泉もこれで話は終了だということを理解したらしく、小さく笑って俺の前に移動してその場に膝をついた(ような気配がする)。 馬鹿丁寧な仕草で右足が持ち上げられ、次いでカチャカチャという音。視界が閉じられている所為か、妙に感覚が鋭くて困る。くすぐったい感触も嫌に耳に付く音も、そこまで自己主張する必要はこれっぽちも無いんだぞ。・・・おお、足が軽くなった。これで足枷からはおさらばだな。出来るならこの部屋からもおさらばしたいんだが、それは無理か。 「もうちょっと待ってくださいね。」 嬉しそうに言うな。ん?なんだお前、次は立ち上がって何かする気か。瞼越しに天井からの蛍光灯の光が(おそらく)古泉によって遮られたのが分かる。それから顔――いや首か?――の両側に気配。古泉、このまま抱き締めるなんて展開になったら俺は迷わず立ち上がるぞ。 「それは魅力的な案ですが、今は止めておきましょう。」 カシャン あ、そうか。そりゃ良かった・・・って、"カシャン"? 首の周りに妙な感覚を覚えて俺は古泉の許可も取らずに目を開けた。そして「おや。」と驚いて見せる妙に近い顔はスルーして自分の首元に手を伸ばし、絶句。 「お、まえっ・・・!何だこれは!!」 「何だ、とは。どう見ても首輪ですね。」 激昂するこちらに構うことなく古泉は如才ない笑みを浮かべて言い切る。 ふざけるな、俺は犬猫じゃないんだぞ!お前は人のことを何だと思ってるんだ!! 「どうして怒るんですか?僕があなたを最初に拘束した時にはもっと酷い状態だったではありませんか。両手両足をベッドに括り付けていたんですよ?」 きょとんと不思議そうな顔をして古泉は小首を傾げた。 ああ、確かにそうだな。でもあの時、俺はちゃんと怒っていたぞ。ただその拘束がお前の意思によるものではなく機関からの命令だと思っていたから目の前で微笑む人間に辛く当たらなかっただけだ。そして拘束も監禁も古泉一樹の意思だと知った後は、お前の狂い具合や誰も助けが来ない状況に(正直に言うと)恐れて怒るどころではなかったし、また流されるようにイかされて眠りについてから今までは古泉一樹の生活の片鱗を見たり柔和に微笑むその顔を好意的な意味で受け取ってしまったりしていたために、恐怖や嫌悪よりも友情や同情めいたものが先行していたんだ。自分で自分を馬鹿だと思えるくらいにな。 「じゃあこれもいいじゃないですか。」 「なんでそうなる。今の俺は生憎この状況に慣れちまって恐怖なんて抱いていないし、何よりもまず、俺はお前のペットじゃない。」 「当たり前です。ただ機能性を考えて上で手枷や足枷よりこちらの方が良いと判断したまでですよ。だからあなたが自分を人間以下に扱われて怒る謂れは無いはずだ。」 「つまりお前は、そもそも古泉一樹が俺をペットとして扱うわけではないのだからこの首輪も許容できるはずだと言いたいわけか。」 「ええ、そうです。この三日間で僕に監禁されることを事実上許してしまっているあなたが今更首輪如きでそこまで激昂するなんて可笑しい。」 古泉はそう言い、右手に首輪と繋がる鎖を持ったまま口元に左手を添えて小さな笑い声を漏らす。 「ねえ。大事なのはそれがあなたを僕の元に繋ぎ止めておくための道具だということ、そしてあなたはこの三日間、確かに僕を許容していたということの二つだけなんですよ。」 それ以外は全て僕にとって無意味で無価値なものだ、と告げられた俺は、古泉の言い分を認めて過去の自分の甘っちょろい行いを悔いればいいのか、それとも癇癪を起こして否定すればいいのか。 迷う中で相手を睨み付けると、古泉はこちらの表情と逆のものを浮かべ、俺に見せ付けるように鎖を揺らした。 「解ってますか?どうして僕が常識的に考えて理不尽な理論をあなたに突きつけることが出来るのか。・・・あなたは僕に優しくしてくれたんです。そしてあなたは自分の行いに責任を持てる人だ。だからこのことについても責任を取ってください。僕を甘えさせた責任をね。」 「ふざけるな。」 「ふざけてなどいません。僕は真剣です。最初に、あなたを手に入れるためなら何だってすると決めたのですから。だから、僕はこんなことだって言えます。あなたに甘やかされた僕は既に、あなたから拒絶されれば簡単に壊れるほど脆くなってしまった、と。・・・さあ、残酷なまでに優しいあなたはそんな僕を捨てることが出来ますか?その首輪を外せと叫ぶことが出来ますか?僕を壊すことが、出来ますか?」 鎖に口付け、古泉は笑う。勝ち誇ったように、嬉しげに、そして一抹の恐れを見せながら。 なぁお前は、俺を自分に縛りつけるためにその心すら利用すると言うのか。俺に拒絶されれば本当に壊れるように、狂ったお前は自分を作り変えてしまったと言うのか。俺がどんな奴か理解した上で。 これだから頭のいい奴は嫌なんだ。きっと、"俺に拒絶されるかもしれない"と恐れを微かに見せることすら計算されたものに違いないのに。俺は、己が古泉一樹を拒絶することによって目の前の相手が壊れてしまうことを、嫌だと思っている。壊れるのを見るのも嫌だし、自分の所為で壊れてしまったという罪を背負うのも嫌だ。相手はこんな奴だと解っていながら。 きっと今またこいつを許容してしまえば、今度は俺がこいつの狂気に引き摺られてしまうだろう。自分の感情と行動を矛盾無く繋げるために。俺がここにいるのは自分の過去の行為を悔いながら相手が壊れないように「仕方なく」現状を受け入れているからではなく、古泉を「好き」だから「自分で望んで」この場所に囚われているのだと、きっと思うようになる。それが人間の精神というものだ。 「くそっ。」 短く吐き捨て、俺はソファから立ち上がった。古泉の右手から鎖を引ったくり、その足で風呂場へ向かう。 「古泉、」 「はい。」 「俺はシャワーを浴びてくるから、その間にお前は着替えを用意しておけ。」 「・・・はい。」 二度目の「はい」はあからさまに嬉しそうな響きを伴って零された。 畜生。 (2007.10.16) |