「最悪だ・・・」
 古泉が家に来た翌日。俺はあいつに留守を頼んで午後から大学に来ていた。
 お昼前、外はカラッとした晴天で、俺は今日の天気予報がどんな内容だったか忘れて傘を持たずに家を出た。しかしそれが悪かったのだ。大学の講義を終えて帰宅しようと思った矢先、昼過ぎから徐々に雲が多くなっていたのには気づいていたが、とうとう雨が降り出したのだ。しかも、小雨ならまだしも土砂降りの雨だ。一体何の冗談だ、と空を睨み付けてみるが、それで晴れれば苦労はしない。
 西の空はずっと向こうまで雲が続き、この雨が夜になっても止まないであろうことは簡単に予想出来る。これはもう、濡れるのを覚悟してさっさと帰宅すべきか。大学からマンションまでそんなに距離もないし、帰ってすぐ風呂に入れば風邪も引かずに済むだろう。
 よし、と意を決して建物の外へ出ようとした、その時。
「傘、お持ちしましたよ。」
「え・・・・・・・・・、古泉?」
「はい。」
 土砂降りの雨の中、傘も差さずに立つ人影。それは紛れもなく昨日家にやって来た古泉で、デフォルトのような笑顔を浮かべたまま俺の方に傘を差し出していた。傘を持ってきてくれたのか。それはありがたい。・・・しかし。
「お前っ、何やってんだよ!そんなに濡れて!」
「ご心配は無用です。防水機能はバッチリですから。」
「いやそんな問題じゃなくてだな。」
 とにかくこっちに入って来い。
 水も滴るいい男を通り越し、何処の馬鹿だと言わんばかりに濡れ鼠な古泉を手招きして、ひとまず雨のかからない建物内に避難させる。それから奴の反論っぽいものは全てスルーし、鞄から取り出したハンドタオルで一応顔と頭だけは拭いた。くそっ、この身長差が忌々しい。お前もっと屈め。むしろ縮め。手が届き難いったらありゃしねえ。
「えっと。すみません・・・?」
「疑問系で謝るなら、最初から何も言うな。・・・よし、髪はこんなもんだろ。」
 色素が薄い半乾きの髪を手櫛で適当に整えて一歩離れる。服はこの際しょうがない。ハンドタオル一本じゃ、そこまで拭いきれないからな。
 古泉が持ってきてくれた我が家で唯一の傘を広げ、外に出る。古泉、お前も入れよ。
「入れとは、」
 お前もこの傘差して帰るってことだ。
「それではあなたが濡れてしまいます。」
 構わん。もともと濡れて帰るつもりだったし、お前がこの傘を持ってきてくれたおかげで風呂に入るほど濡れる目には合わなくて済みそうだしな。まあ、着替えなきゃいけないのは変わらんが。それにな、お前がずぶ濡れだってのに俺がその隣で傘を差してちゃ評判が悪いだろ。人の目はある程度気にしておくものだ。
「だからほら。」
「・・・じゃあ、お言葉に甘えて。」
 悔しいがお前の方が背が高いんだし、傘は持ってくれよ。
「はい。お安い御用です。」
 微笑んで俺の手から傘の柄を受け取る古泉は実にいい笑顔を浮かべてやがる。犬で言うところの、尻尾を元気よく振っている感じだ。そのうち本当に犬耳と尻尾の幻覚まで見てしまいそうだな。
 俺の苦笑の意味が解らなかったのか、古泉は笑顔でありながらもそこに疑問を滲ませるという奇妙な表情をしてみせた。面白い奴だな。そう思って俺が苦笑とはまた別の笑みを零すと、つられたように古泉もふにゃりと笑った。なんだその柔らかすぎる饅頭みたいな表情は。俺が笑ったのがそんなに嬉しいのか。
 にしても、雨が降ってて良かったのかもしれないな。そんな蕩けた表情、いくらお前が美形だからって他の人には見せられたもんじゃないだろう。
「僕はあなた以外の人間にどう思われようと知ったことじゃありません。あなたが嬉しいなら僕も嬉しい、ただそれだけですよ。」
「お前・・・っ!」
 なんだか物凄く雨の中に飛び出して行きたくなった。雨音がうるさいし、俺達の距離が短いから話し声は小さいし、周りにはあまり人がいないけれど、とにかく無性に恥ずかしい。なんつーことを言うんだお前は。それもプログラムされたことなのか?
「それは解りません。でも僕は今の言葉を自分の意思で言ったつもりです。」
「なんだそりゃ・・・」
 自分の意思、って。お前はアンドロイドだろうが。
「・・・そう、ですね。」
 あーもー。そんな顔するな。今のは俺が悪かった。さっきの言葉はお前自身の言葉だよな。OK、OK、認めるよ。だからそんな捨てられた子犬みたいな顔するな。こっちが罪悪感でいっぱいになる。
 生乾きの頭を軽くはたいて数歩先に出る。傘によって雨から守られた範囲の外に出てしまうが、致し方あるまい。
 悲しげなトーンを振り払い慌てて追いかけて来る古泉の声を背後に聞きながら、俺はもうしばらくそんなあいつの声が聞きたくなって立ち止まらずに前へと進んだ。
 と、その時。

 キィィィィィイイイイイっ!

「あぶないっ!!」

 ドンッ!!

 車のブレーキ音と古泉の焦った声が聞こえたと思ったら、直後、俺は無理やり地面に転がされていた。周りがざわついている。さっきまであんなに人気が無かったのに一体何処から集まったのか、沢山の人の声。女性の悲鳴が耳に痛い。一体何が起こった?
「人がトラックに撥ねられたぞっ!!」
「救急車!」
 うるさいな。こっちは何かに突き飛ばされて頭と背中が痛いんだよ。ああ、そうだ。古泉は?さっき「あぶない」って叫んだ声は、確かに古泉のものだったよな。あいつはどこに行ったんだ・・・?
 ようやく意識がハッキリしてきて周囲に視線を巡らせる。古泉はどこにいる?
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・冗談だろ。」
 視線の先に前部が少しへこんだ中型のトラック。そして、そこからやや離れた所に俺の探し人が転がっていた。
「古泉っ!!」
 全身が痛んでいるのも忘れて駆け寄る。名前を呼んでもピクリとも動かない身体に、背筋が凍りついた。
「おい!古泉っ!古泉、しっかりしろっ!」
 本当なら車に轢かれたであろう人間を揺するなんてしてはいけない行為なんだろうが、そんな常識は全て頭から吹き飛んでいて、俺は古泉の肩に手を乗せる。しかしその直後、バキッと硬い物の折れる音がして右手が厚みの消えた布を掠った。
 腕、が・・・。
 震える指を叱咤して古泉の左腕の感触を確かめる。やはりそこには何も無く、雨に濡れた指で触っていると千切れたコードに辿り着いた。血の代わりに赤褐色の潤滑油らしきものが流れ出す。透明な雨水とその液体にまみれた指がアスファルトの地面を掻いた。
 古泉、起きろよ。人間だって腕が折れたくらいじゃ死なないんだぞ。なのになんで起きないんだ。あんなに人間らしく作られてんなら、もっと元気よく痛がってみせるとかしろよ。衝撃でどこかがイカレちまったとか、そんな所だけ精密機械ぶるんじゃねえよ・・・っ!
 他人の足音が聞こえて視線をやると、道路から飛び出して一部大学の敷地内に突っ込んでいたトラックから運転手らしき人物が降りてきていた。顔を青褪めさせ、びくびくと近づいてくる。それ以外は皆遠巻きにこちらを眺めるだけで、近寄ってくるまでには至らない。誰かが携帯電話で救急車か警察を呼んでいるみたいだったが、前者なら意味が無いし、後者ならこのトラック運転手が傷害ではなく器物破損か何かで運転免許の点数が引かれる程度だろう。だから、どうせこちらも意味が無い。
 俺はどうすりゃいいんだ。機械の扱いなんて一般人レベルだし、古泉を作った奴の顔も知らない。ただこいつの傍に駆け寄って名前を呼ぶことしか出来ないのか?こいつは、身を挺して俺を守ってくれたのに。まだ正式購入にも至っていない人間、を。そんな価値、俺には無いんだぞ。商品を買ってもいない人間なんて、資本主義社会じゃ無価値ってのが基本だろう?それとも「壊される」なんて脅しまでしておいて無理やり一週間も居座ろうとしてたくせに、こんな時だけ道徳観発揮かよ。モノよりも人の命、なんてさ。矛盾してないか?
 サイレンの音はまだ聞こえない。少し離れた所に運転手がいて、そのもっと向こうに無意味なギャラリーがいる。俺は一人、古泉の傍らに座りこんで雨に打たれていた。

「あら。腕が折れちゃったのね。それと・・・衝撃でスリープモードに入ってるのかしら。」

 突如頭上から降って来た声に、俺は顔を上げた。視線の先にはエラい美少女。明るい色の傘を差し、大きな目を輝かせて高校生くらいの少女が俺と古泉を見下ろしていた。
「おまえ、は・・・」
「あたし?あたしはそこの古泉くんの製作者よ。古泉くんに付けてたセンサーが異常を感知したんで、慌てて飛んできたってわけ。でもこれくらいなら大丈夫でしょうね。」
「な、本当かっ!?」
 人間そっくりなアンドロイドの製作者がどう見たって二十歳には達していない目の前の少女だなんて俄かには信じられんことだが、信じられない存在である古泉が既に存在しているのだからこの際ゴチャゴチャ言うまい。俺はその場を下がって美少女――古泉の話と俺の記憶・推測が確かなら、彼女の名前は涼宮と言うのだろう――に全てを任せる。
「どうだ・・・?」
「ちょっと待って。・・・あ、ユキ。あれ取ってくれない?」
「わかった。」
 うお、びっくりした。俺は涼宮の存在にしか気付けていなかったのだが、どうやらもう一人いたらしい。ユキ、と呼ばれた小柄な眼鏡少女がその小さな手にすっぽり収まるサイズの何かを涼宮に渡す。それを受け取った涼宮はまた古泉の方に向き直って首筋やらボッキリ折れた腕やらに視線と手を走らせていた。
 突然現れた少女二人は一体何をしているのだろう、と、こちらの声が聞こえていないらしい運転手及びギャラリーが不審に思う中、涼宮が「よし!」と言って立ち上がった。その横顔に俺のような不安げな色は見られない。
「古泉くん、起きなさい。」
 少女の声の後、微かなモーター音が聞こえて、
「こい、ずみ・・・」
 古泉の目が開いた。
 周りの状況を確認するようにキョロキョロと忙しなく動いていた双眸は、しかし俺を捉えると一瞬大きく見開かれ、そしてゆっくりと細まった。
「よかった・・・お怪我はないようですね。」
「怪我してんのはお前だろう、馬鹿が。」
 頬に伝うこの感触は・・・涙?
 いや、これは断じてそんな生理食塩水っぽいあれじゃないぞ。雨だ、雨。そうに違いない。だから古泉、嬉しそうに腕が千切れたまま微笑むな。それから涼宮さん・・・でいいのか?涼宮さん、あんたも横でニヤニヤ笑わないでくれ。
「よかったわねぇ古泉くん。いい人みたいじゃない。」
「ええ、とても素敵な方です。」
「でも申し訳ないけど、今からあたしたちの所に戻ってちょうだい。ここじゃあなたの腕は繋げないから。」
「え、それじゃあ僕はもう・・・」
 古泉は涼宮を見上げて不安げに瞳を揺らした。それから俺を見て顔を伏せる。無事だった右手で折れた左腕を拾い上げ、口から零れ落ちたのは諦めたような声。
「わかりました。では、まだ彼のための"おためし期間"は残っていますので、代わりに別の―――」
「俺は嫌だぞ。お前以外の古泉なんて。」
 古泉の言わんとしていることがようやく解って俺は無意識の内にそう口にしていた。驚いたような古泉の目とかち合う。もうこの際だから言っちまおう。すでに恥はかきまくった後だ。
「お前の同型機っての?それはまだ居るらしいけど、お前と同じじゃないんだろ。それにそいつらは俺と過ごした24時間にも満たない記憶が無い。だったら余計にそれはお前じゃない。」
 だからな、おためし期間なんてもういらない。修理が済んだら、また俺の所に戻って来いよ。
「それ、は・・・!」
「別にそれでも構わないけど、この古泉くんの修理を待つっていうならもう正式購入してもらうしかないわよ?腕一本繋ぎ直すだけでも結構時間かかるんだから。」
 構わんさ。
「えっ・・・!?」
「ふうん。」
 古泉は驚きと喜びの中間辺り。対して涼宮は面白そうに俺を眺め、それから自身の美少女具合を更に増すが如く太陽のように輝く笑顔を浮かべた。
「売ってるあたしが言うのもなんだけど、安くないわよ。」
「何年かかっても払ってやるさ。俺はこいつに命まで救ってもらったんだしな。」
 それくらいの価値はある。
 料理は出来ないし掃除も壊滅的。雨に濡れながら傘を持って来たりして(行きくらい傘差して来いよ)一般常識の一部欠如も見られるが、そんなもの全て補って余る程の価値じゃないか。少なくとも、俺はそう思うね。
「いいわ。それじゃあ五日待ちなさい。ホントはもっと時間がかかるもんなんだけど、あんたのために今回だけはあたしが全力で直してあげる。」
「ああ、待ってるぜ。」








次はおまけの短文。



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