神 は ノ イ ズ の 夢 か ら 醒 め る か
-3-
夢を見た。
俺が、死ぬ夢。 別に死ぬ夢を見たからって特別何かを思うわけじゃない。何故なら死とは俺にとって身近なものであり、いつこの身に降りかかってきても可笑しくないものだからだ。自分が死ぬ夢を見て飛び起きるなんて今じゃ殆どなくなり、嗚呼またなのか、飽きないな俺も、程度のことを呟いたり呟かなかったりである。 しかし今回は違った。 夢の中、俺は瀕死の状態で、誰かと一緒にいた。けれど同胞達ではない。 痛むのは身体のはずなのに実際には胸の奥の方がずっと痛くて、これは俺達の神様の感情なんだと気付いた。どうしてそんなことを、なんて考えることもない。何故なら本人が俺のすぐ近くで泣いていたからだ。 後悔、悲しみ、絶望。伝わってくる負の感情から神の"人間としての優しさ"を知る。泣くな。泣かないでくれ。そんな顔をさせたいわけじゃない。 夢の中で俺は彼に手を伸ばす。思い通りに動いてくれない身体にもどかしさを感じつつも、ただ流れる涙を拭うため。そして告げるのだ。「ほら、泣くなよ。」と。古泉一樹に。 あまりにも鮮明な夢から醒めた後、俺はベッドの上で少しだけ泣いた。内容が悲しかったからかもしれないし、夢の中の神様に引き摺られたのが原因かもしれない。けれどとにかく泣いたのは確かで、そして夢の所為でこんな風に泣くのは初めてだった。 妄想にしてはあまりにも鮮烈な想いが込められていた夢。時間が経っても薄れていかないその記憶を抱えたまま、俺は今日も学校へと向かう。 その日、俺はいつになくピリピリしていた。今朝がた見た夢の所為でもある。しかし一番の原因は神から伝わってくるノイズだ。閉鎖空間の発生には至らないながらも途切れることなく続く小さな苛々は、此方を不安にさせるというよりもむしろ、同調して苛々が生じてしまう代物であるらしい。まあ、俺がどんな影響を受けようと、閉鎖空間が発生しなければ組織としては基本的に構わないんだけどな。 しかし午前の授業が終わり、午後からの英気を養うために弁当を開いたその瞬間、俺の苛々は一気に焦燥へと変化した。 いきなり椅子から立ち上がった俺を谷口と国木田が驚いたような目で見るが、生憎構っていられない。すまん、と告げて教室を出た。 廊下を走るなというポスターの横を駆け抜け、探し回るのは古泉の姿。九組の教室内には居らず、そこのクラスの人間に訊いてみてもどこに行ったかわからないと返ってくる。じゃあどこぞの空き教室か?屋上か?中庭か?それともトイレか? 急速に増していくノイズを感じながら学校中を走り回る。重点を置いて調べるのは人のいなさそうな所だ。人前でいつもニコニコスマイルを浮かべていなければならない古泉がこれだけイラついているのなら、その様子を他人の目に触れさせないようにする可能性が高いからである。 そして弁当というエネルギー補給を忘れたまま走り回り、とうとう目標を見つけたのは部活棟の一階の男子トイレの中、その手洗い場の前だった。 ぜぇはぁとこっちは荒い息だというのに、相手がそれに気付いた様子はない。聞こえてくるのはバシャバシャという水の音。蛇口から勢いよく流れ出る水を、これまた勢いよく跳ね返るのも気にせず、彼は一心不乱に手を洗っていた。 「なに・・・やってんだよ、古泉。」 お前、潔癖症だったか?どちらかと言うと部屋もあまり綺麗じゃな・・・あーその、まあ何と言うか、『古泉一樹』らしくない部分が見え隠れするという報告を受けたことがある。いやそうじゃないだろ、俺。しっかし気を持て。 混乱した頭をシャキッとさせるため一度両手で頬を叩いてから、俺は古泉の肩に手を掛けた。 「おい、古泉!いい加減にしろっ!」 触れた肩がビクリと揺れる。ゆっくりと振り返った顔に浮かぶのは驚愕の表情。そのあとすぐに「しまった!」という顔になって俯いた。 「古泉、」 「どうしてこんな所にいるんですか。」 その答えを俺は口にすることが出来ない。お前の不安を感じ取って駆けつけたなんて可笑しいだろ。 此方の無言をどう受け取ったのか知らないが、古泉は「ふふ。」と自嘲を零して己の両手を見た。濡れた手からは時折雫が落ち、床に模様を描いていく。それはどこか血を連想させて―――・・・ 「血のようですよね。これ。」 重なった思考に息を呑む。 古泉は顔を上げ、笑顔なんて欠片もない表情で俺を見た。 「血が、血がとれないんです。朝からずっと。我慢できずに此処で洗ってみたんですけど、全然、落ちなくて。」 「何言ってるんだ古泉。お前の手には血なんかついてないだろう?綺麗な手じゃないか。」 そう言いながらも広げられた手のひらにあるはずのない赤いものを見てしまうのはどうしてだ。 まばたきで目を閉じる直前にだけぬらぬらと赤く光るものが見える、なんて。有り得ないだろう、そんなこと。 俺が言葉で否定しても古泉はかぶりを振る。 「あなたにも見えているはずだ。この真っ赤に染まった手が。だって、」 ―――これは、あなたの血だから。 そう言って泣き笑いの表情を浮かべた男を、俺は衝動的に強く抱き締めた。 男が男を抱き締めるなんて気色悪いにも程があるし、こいつ俺より背が高くて「抱き締める」より「しがみ付く」の方が似合うような気がするし、ええい!しかしな!告げられた台詞より泣きそうな顔で笑うこいつを見た瞬間、守ってやらなきゃって思ったんだ。 俺よりでかいくせに俺よりずっと小さな子供みたいで、脆くて、今すぐにでも壊れてしまいそうで。俺も大概イカレてやがる。 「俺の血、だ?そんなことあるはずないだろ。俺はここ最近、そんな大怪我した覚えなんてこれっぽっちもないぞ。」 あっても夢の中だけだ。 「そんなものはタチの悪い幻だ。・・・ほら、よく見ろ。ただ水で濡れてるだけだろう?」 背中に回していた腕を解いて、その代わり、顔の割りに男らしい手を下から掬い上げるように持つ。 「な?」 小さな子供に言い聞かせるように優しく語り掛ければ、程なくして手のひらの上に水滴が落ちてきた。水道の蛇口とは違う、新たな水の供給源はボロ泣きを始めた男子高校生だ。 涙には不安や恐怖を洗い流す作用があるのだという。 もう一度その大きくて小さな背に腕を回してポンポンと叩きながら、俺は肩口が湿っていくのも気にせず微笑んだ。 「大丈夫だ。俺はちゃんと此処にいる。」 えぐえぐ、とはいかないが両目を真っ赤に泣き腫らした男子高校生の手を引いてトイレから出てくる・・・どんだけシュールな光景だよ。観客がいなくて助かったぜ。 チャイムはもう随分前に鳴っており、このまま教室へ向かうのも正直躊躇われるところだ。少なくとも俺に手を引っ張られているこいつはまだ九組へ戻るわけにもいかんだろう。何か冷やすものでも見つけてこないとな。 それと、俺。俺も古泉とは別の意味で教室には戻れそうになかった。既にお気づきの方もいらっしゃるかもしれないが、例によって例の如く、閉鎖空間が発生したのだ。まあ、あれだけ不安定になればそりゃ神人の一つや二つ出てくるわな。まずは目の前の相手を慰めることに専念したが、もうそろそろ俺も仕事に戻らなくてはならないだろう。 ひとまず古泉をその場に残し、俺はズボンのポケットの中に押し込まれていたハンカチを水で濡らすためトイレに戻る。トイレから出てきても古泉が先刻と全く変わらず突っ立っていたのには顔を顰めたが、とにかくそのニヤケスマイルを早く取り戻すため、濡れたハンカチをその顔の上半分に押し当てた。 「わっ・・・」 「これで冷やせ。他の奴らにそんな顔見られたら拙いだろ。」 「あ、その・・・ありがとうございます。」 はにかむような笑顔が返ってくる。これでよし、と。 それじゃあ俺もそろそろお仕事に行くとしますか。 「お前は部室かどこかに篭ってもう暫らく目の所冷やしてろ。俺は―――」 「ダメですっ!!」 背を向けようとした途端、古泉に腕を引っ張られた。 意外に声が響いたのは、廊下に俺達以外いないからか。 でもって此方の腕を両手で握ったまま――ハンカチはべしゃっと音を立てて廊下の上だ――古泉は古泉で自分の今の行動に目を白黒させている。 「古泉、何やってる。離せ。」 「っ、ダメです。」 「何がだ。」 「とにかくダメなんです。あなたは行っちゃいけない。」 まるで俺がどこに行くのか知っているともとれる口ぶりに、背中を冷たいものが走った。 だがそんなはずはない。それを証明するかのように、行くなと言った本人ですら自分の台詞は理解不能だという顔をしている。・・・あれか。だとしたら野生の勘か。 さてこの状況をどうしようかと――言い方を変えると、どうやって閉鎖空間へ行こうかと――考え始めたその時、第三者の声が聞こえた。 「あなたは古泉一樹の言葉に従うべき。」 「長門・・・?」 いつの間に現れたのか。視線を向けた先にはSOS団の団員兼宇宙人の長門有希が無表情のまま立っていた。しかしその無表情の中に大きな決意を見たのは俺だけなのだろうか。 長門は純水で作った氷のような瞳で此方を見つめ、ゆっくりとまばたきをする。 「あなたたち二人は実際に見たことのないものを夢や幻で見ている。その理由を、話す。・・・これからわたしの家に来て欲しい。」 それだけ言って背を向ける小柄な少女のあとを俺と古泉はすぐさま追いかけた。何故か、これで何かが変わることを確信しながら。 閉鎖空間のことは・・・すまん、みんな。頑張ってくれ。 (2007.08.22up) |