帝人のために何ができるだろう。帝人が静雄と一緒にいたいと思ってくれるようになるには何をすればいいのだろう。
考えて、とりあえず静雄は帝人にとって暮らしやすい生活環境を整える事にした。 一人暮らしも長いためそう苦手ではなかった炊事洗濯は帝人の分もまとめて自分が全て担当し、仕事もなるべく新しい末弟が学校に行っている間に済ませられるようシフトの調整を上司に依頼した。それでも取立て相手の都合で夜に外出しなければならない時は、帝人の夕飯を用意するのは勿論の事、帰ってきてドアを開け閉めするその音にすら注意に注意を重ねて、万が一にでも寝ている帝人を起こさないよう配慮した。 そして、 「静雄兄さん、ひょっとして煙草の本数減りました?」 夕食後、リビングで帝人の弁当のおかず用に料理本を眺めていた池袋最強の男はその末弟本人から話しかけられて顔を上げた。 確かに指摘された通り、静雄のここ最近の煙草消費数は減少傾向にある。今日も食後の一服はせずに手早く後片づけを済ませてから、仕事帰りに立ち寄った本屋で購入した――そして当然のように店員には驚かれた――料理本を読んでいた。もうちょっと中身を眺めてから帝人に何が食べたいか聞くつもりであった静雄は、末弟の問いかけを受けて首を縦に動かす。 「煙草って吸ってる奴より周りに害があるんだろ?」 「副流煙ですね」 「そうそう、確かそう言う名前の」 ソファを背もたれにして毛足の長いラグに座り込んでいた静雄は己の隣を手で叩いてここに座るよう帝人に促しながら答えた。長兄に従って腰を下ろした帝人にうっすらと微笑みかけ、開いていた本を閉じて脇に置く。 「お前は成長期だからな。そういうモンはなるべく無い方がいいかと思ってよ」 「じゃあ僕のために……?」 「ああ」 さらりと答えた静雄に対し、帝人が目を瞠って顔を赤く染める。大きく見開かれた双眸に静雄は、(目ん玉でけぇ。つか落っこちそうだな)と思いながら、すぐ傍にある短い黒髪にすっと指を潜り込ませた。 壊さないよう、痛みを与えないよう加減して帝人の髪を梳く。最初は大層驚かれたが――そして無意識に手を伸ばしてしまった自分にも驚いたが――二度三度と繰り返せば帝人も慣れ、今では当然のように受け入れられていた。そんな変化に帝人が自分といる事を好きになってくれているのだと感じ、静雄も嬉しくなる。 相変わらず帝人の部屋には家具が殆ど無く、こちらに越してきた初日の会話を思い出して腹立たしいのか悲しいのか解らなくなるけれど。それでも今、静雄の隣に座って気持ちよさそうに目を細めている帝人の姿は決して幻などではなかった。 □■□ 父親が再婚するまでまさか自分が池袋の有名人と一緒に出歩くなどとは考えた事もなかった。だが現実として帝人は今、平和島から竜ヶ峰になった静雄と一緒に歩いている。しかも、 「帝人、今日晩飯何にする?」 夕飯の買い物が目的で。 (うわなにこれ非日常) 同居開始から今日で二週間。親友には「え? 竜ヶ峰静雄? は? 俺、帝人に『√3点』って言った方がいい?」と言われ、自分自身でも現実を受け入れるのにしばらくかかったが、元々順応性は高いらしいおかげで今はもう静雄との生活にも大分慣れてきた。間違って「静雄さん」と呼ぶ事もなくなり、「兄さん」もしくは「静雄兄さん」と呼んでいる。 「帝人?」 「え、あ、はい! そうですね、静雄兄さんの作ってくれるご飯は何でも美味しいから……」 「おだてても何も出ねーぞ」 「ほ、本当です!」 池袋に来て初めて一人暮らしを体験した帝人の腕前など遠く及ばぬほどに静雄は色々と作ってくれた。しかも彼がやってくれるのは料理だけではない。掃除も洗濯も全て担当し、帝人は一人暮らしだった頃より格段に自由な時間が多くなっているのだ。 池袋最強の男が自分に尽くしてくれている。そんな非日常に帝人が興奮しない訳がない。何でもかんでもやってもらってばかりで心苦しく感じる事もあるが、長兄の行為は自分を大切に思っている証のようで、帝人はとても満たされた気持ちになっていた。 「昨日は魚だったから今日は肉かな」 「あ、いいですねー。ハンバーグとかどうでしょう」 「そうだな。付け合わせはあとでデパ地下の総菜売場でなんか買って帰るか」 「はい」 そう答えながら、帝人は身長差を考慮して普段の歩調よりゆっくりめに歩く静雄の気遣いにくすぐったさを感じていた。優しい人だと思う。この人は『自動喧嘩人形』やら『池袋最強』やらと恐れられているが、本当はこんなにも思いやりがあって優しい人間なのだ。 ただし、 「……チッ、ノミ蟲くせぇ」 (キレなければの話だけどね) さっきまでの穏やかさはどこへやら。鼻の上に皺を寄せて唸るように呟いた静雄を見、帝人はこっそりと溜息を吐いた。静雄と共に外出して“あの人”が近くにいたのはこれが初めてであるが、この後の展開は池袋の住人なら殆どの人間が同じ予想をするだろう。帝人もその例に漏れず、足を止めて周囲を見渡す長兄を一歩離れた所から見守る。 そして二人の兄弟の目の前に想像通りの人物が現れた。 「やあ、帝人君とシズちゃん。君達の話は聞いてるよー。本当、気持ち悪いよね。シズちゃんが」 「手前っ臨也!! 池袋には来んなって何度言やあ気が済むんだ!!」 「何度言われたって必要があれば来るさ。シズちゃんにごちゃごちゃ言われる筋合いはないよ。ってかさ、マジでムカツクんだけど。シズちゃんが帝人君の兄だとか有り得なくない? 俺と帝人君の方が似てるし兄弟っぽいよ」 「誰が手前の弟だ! 帝人は俺の弟なんだよ!」 兄と知り合いの口論を聞きながら帝人は思う。今日の晩ご飯は出来合いの物を買うか自分が作るかしかないだろう、と。 おそらく静雄はこのまま臨也に殴りかかって、そして臨也は持ち前の運動神経でそれを避けるだろうから、二人の追いかけっこは当分終わらないはずだ。二人が戦争をしている間に自分はスーパーに行って必要な物を買うとしよう。デパ地下は一人で行くには少々敷居が高いので却下である。 そんな風に取り残された後の事を考えながら、帝人は己に被害が及ばないよう金と黒の二人から距離を取る。 安全地帯から眺める静雄は帝人に見せる穏やかな面とはまた違う、雄々しさや激しさを持っていた。こう言うと静雄本人は嫌がるかもしれないが、感情を爆発させ怒りを解放した時の彼はとても生き生きして見える。帝人がどうしようもなく憧れてしまう非日常の輝きが最も増すのがこの瞬間なのだ。 穏やかさも激しさも、帝人にとってはどちらも静雄の魅力であり、一方が欠けてしまう事など想像もできない。腹が立つなら立てればいい。喧嘩せずにはいられないならやればいい。末弟を放置しての追いかけっこも結構。帝人は静雄に無理だけはしてほしくなかったのである。 (だから、これじゃだめなんだ) 胸中で独りごちる帝人。 その視線の先では誰もが予想した戦争のような喧嘩が……始まっていなかった。 遠くにぽかんと、美形にあるまじき呆けた顔の臨也が見える。周囲の野次馬らもそれに似た表情だ。そして臨也と帝人を結んだ線上、苛立ちを無理矢理抑え込んだと判る表情で静雄がこちらに近付いてきていた。 (この人が臨也さんに背中を見せるなんて) 今までなら……『池袋最強の男、平和島静雄』ならば、有り得ない事態である。 視線が合って静雄が微笑みを浮かべたけれど、帝人の気持ちは変わらなかった。今までキレる事を我慢しなかった静雄がこうして臨也への苛立ちを抑え込み、帝人を放置しないよう気を遣う事からも解るように、きっと自分の存在は彼に迷惑をかけている。負担になり、彼を彼ではないものにしてしまう。今、気付いた。ようやく気付く事ができた。 池袋最強として、そしてたった二週間ではあるが兄弟として、憧れであり好意を抱いていた人物であるからこそ、自分が静雄の迷惑になっているという事実は帝人にとってとても耐えがたい事に思えた。 (今までありがとうございました。そして、ごめんなさい) |