一体どこで失敗した?
 帝人の台詞を聞いて静雄はまずそう思った。
 昨日まで帝人は静雄の隣を心地よいと思ってくれていたはずだ。日に日に近付く精神的な距離に喜びを覚え、もうちょっと、あと少し、と手を尽くしてきたのに。
 しかし昨日、帝人との外出中に折原臨也と出くわしてから様子がおかしくなった。やはりたとえ一瞬でもノミ蟲なんぞに気を逸らしたのがいけなかったのだろうか。あんな男など意識の端にも引っかけず、自分はただ帝人の手を引いて真っ直ぐ目的地に向かっていれば良かったのだろうか。
「……ここを出て行くって?」
 尋ねる声はかすかに震えていた。
「はい。もうこれ以上ご迷惑はかけられませんから」
「迷惑だなんて、そんなわけ……!」
「ありますよ。僕の存在は貴方の負担になる。貴方が貴方じゃなくなってしまう。そんなのは嫌なんです」
「俺が俺じゃなくなるってどういう意味だよ。俺はいつだって俺だ。それにお前を負担だと思った事なんか一度もねえ」
「でも我慢はしたでしょう?」
「そんなのいつの話「昨日、臨也さんと会った時に」
 被せるように、逸るように、帝人はきっぱりと言う。
「いつものような喧嘩、しませんでしたよね。それどころか貴方は“あの”折原臨也に背中まで向けた。こんなの有り得ないですよ。どうしてなんですか。やっぱり僕がいたからでしょう? 僕の存在はそれだけで貴方の行動を制限する。駄目なんです。嫌なんです。……貴方の事はずっと前から憧れでした。兄弟になって、とても近くで暮らすようになって、一人の人としても素敵な方なんだと実感しました。だから僕はそんな僕を許せない。離れましょう。ね、静雄さん」
「―――ッ!」
 兄さん、ではなく、静雄さん。
 故意に使われた以前の呼称は帝人の言葉が本気である事を示していた。
 静雄は息を呑み、帝人のためにしてきた事が逆に彼をこんな思考に至らせたのだとショックを受ける。だが帝人と一緒にいたいと思う気持ちは本当なのだ。迷惑だと、負担だと思った事など一度もない。臨也を追いかけ回さず帝人の元にすぐ戻ってきたのだって、その方が静雄にとって大切で圧倒的に優先したい事だったから。無理なんてものは欠片もおしておらず、むしろノミ蟲を前にしても冷静に判断できた自分と、その理由となった帝人の存在を凄いと思ったほどである。
 帝人はこの結論を静雄のためだと言うけれど、静雄はこんな答えなど求めていない。全く、これっぽっちも、求めてなどいないのだ。
「俺の気持ちはどうなる」
「え?」
 ぼそりと落とした呟きに帝人が小首を傾げる。
「俺は、俺はお前が―――」
「僕、が……?」
 竜ヶ峰帝人は静雄にとってどういう存在なのだろう。
 傍にいると落ち着く。穏やかなその気質が好ましい。一緒に暮らしていてなんとなく片鱗が見えてきたのだが、穏やかなだけでなく我を通す強さも持ち合わせている。それもまた嫌いではなかった。頭を撫でると仔猫や仔犬のように目を細めるのが可愛くて、思わず抱きしめてしまいそうな事もあった。離れるだなんて考えられない。まだ帝人の部屋に家具も買い足していないし、一緒に街を歩きたいし、手を握っていたい。
(そうだ、俺は帝人が)
「好き、なんだ」
 家族愛のようで、けれど血の繋がった弟である幽には当て嵌まらない部分もあって。この気持ちに正しい名前を付ける事はまだできないが、それでも今の静雄に解るのは帝人と離れたくないという事。これはもう「好き」と言ってしまっても良いのではないだろうか。
「僕が、好き?」
「ああ。俺は帝人が好きだ。だから出て行くなんて言うなよ。離れるなんて、そんなの、俺が悲しいだろ」
 ―――もし俺を思って離れようとしているなら、そんな事はしないでくれ。
 そう告げた静雄に帝人が大きく目を見開く。「いいんですか?」とさっきの静雄より震える声で問われて、どうして否定などできようか。
「いいんだ」
「本当に? 本当に、傍にいてもいいんですか?」
「だからそう望んでる」
「っ……しず、お、兄さ」
「帝人」
 腕を伸ばし、痛みを与えないよう細心の注意を払って、静雄は帝人を抱きしめる。小さな身体はすっぽりと腕の中に収まり、じわじわと帝人が力を抜いていくのを感じて大きな安堵を零した。
「来週、絶対ぇ休みもらってくるから、家具買いに行こうぜ。お前の部屋に置くやつ」
「……そう、ですね。もう出て行かないんですから、ちゃんとしたのを買わないといけませんね」
「ああ」
 今はまだ家族愛。兄弟愛。ひょっとしたら違うかもしれないけれど。
 とりあえず仮称でそんな名前を付けて、静雄は腕の中の帝人を強く感じるようにゆるりと両の瞼を下ろした。

















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