一睡もしないまま夜が開け、帝人はのそりとベッドの上で身を起こした。先程、玄関の扉の開閉音が聞こえたので、臨也はまた出掛けてしまったのだろう。己の想いを自覚した帝人としてもそれはありがたく――なにせ顔を合わせ辛い事この上ない――、念のため寝室の扉を開ける前に他人の気配が無い事を再確認してから部屋を出た。
いつも食事が用意されているテーブルを見ると、本日の朝食と何かのメモが一枚置かれている。近付いてメモを手に取ると、臨也の帰宅は夜中になるという旨の文章が書かれていた。 ホッとしたのが半分。それから、ここ最近全く臨也の顔を見ておらず、寂しく思うのが半分。昨夜の事もあり嫌われている訳ではないだろうが、言葉すら交わせていないとなると気分も落ち込む。 「僕、臨也さんに誘拐されて軟禁までされてるんだけどなあ」 不本意な目に遭わされていると言うのに抱いてしまった、好きという気持ち。ひょっとしてこれがかの有名な『ストックホルム症候群』と言うやつなのだろうか。 (だとしても好きだって気持ちは消えてくれない) 会いたいと思う気持ちも。会えなくて寂しいと思う気持ちも。 追い詰められたある状況下で自己防衛のために、相手を憎むのではなく愛しく思うようになる。それがストックホルム症候群である。つまり誘拐・軟禁されている現状を鑑みて、帝人が抱いている想いは第三者からすれば全くの偽物という事になるのだ。 それを頭では充分理解していながら、しかし帝人はやっぱり臨也に対する好意を消し去れない。 「もうホント……どうなっちゃうんだろう、僕」 呟きながら臨也が用意した朝食に手をつける。冷めてしまった料理がまた少し帝人の心を重くした。 □■□ (この時間帯だと、帝人君ばっちり起きてるよな……) 胸中で呟きながら臨也はなるべき音を立てないよう注意して己のマンションの玄関扉を開けた。 時刻は午後二時を少し回ったところ。もし帝人が寝坊していたとしても、流石にこの時間ならばもう目覚めて活動を開始しているだろう。 (顔合わせ辛い) 昨夜、眠っている(と臨也は思っている)少年にも告げた事だが、帝人を犯したあの時以来、臨也は少年の顔を見るのが、言葉を交わすのが、怖くて仕方なかった。 無理矢理閉じ込められて、男を受け入れさせられて。それで帝人が臨也を嫌いにならぬはずがない。 帝人から拒絶の態度を向けられたくないばかりに、臨也は少年を避けてしまう。本末転倒であり、自分自身でも情けないとは思うのだが―――。 しかし臨也にとってこんな状況は初めての経験だったのだ。今まで己の手元に留めておきたいと思った人間など一人もいない。臨也は人間を愛しているが、その中の誰かを特別視した事は一度も無く、精々が『面白い観察対象』と言ったところだった。 ゆえに臨也は己の中に生じたこの感覚もしくは感情を上手く把握する事ができずにいる。今はとりあえず形が解りやすい欲求の部分だけを実行に移しているところだ。ただしその欲求の結果として気まずい思いもしてしまっているのだが。 そんな気まずさを抱えつつ、臨也は途中帰宅の原因を思い出して胸中で毒づく。 (あれも要るなら最初から言っとけっての。本当なら帝人君が寝た後に帰る予定だったのにさあ) 靴を脱ぎ、静かに中へ。 一度出掛けてわざわざ取りに帰る羽目になった書類は資料棚に保管してある。いつもなら秘書として雇っている矢霧波江に持って来させるという手もあったのだが、今回の帝人誘拐・軟禁にあたり、彼女には暫らく休暇を与えているのだった。 (まあ波江と帝人君を一緒の空間に置いておくのは気が進まないからねえ) 結局、本日の取引相手だけを恨む事にして、臨也はそろりと仕事スペースを覗いた。―――とりあえず、帝人の姿は見えない。 部屋に戻って昼寝でもしているのかも、と若干ホッとしながら奥へ進む臨也。しかし、 「……ッ!?」 ソファとテレビが設置されている一段下がったスペースに目を向けた途端、黒いソファの背中越しに黒髪がちらりと見えているのに気付いて、臨也は全身を硬直させた。 いくら臨也が気を付けようとも、この場所にずっといたならば扉の開閉音や足音など筒抜けだ。少年はまだこちらを振り返っていないが、臨也の帰宅には気付いたはず。一度安堵したが故にそれを裏切られた際の驚きは強く、臨也は常の飄々とした態度を装う事もできない。 「……みかど、くん……?」 恐る恐る名前を呼ぶ。 「おーい、帝人君?」 しかし反応が無い。 会話の回数自体は少ないが無視されるというのはこのところ無かった反応であったため、臨也は不思議に思い首を傾げた。 「帝人くーん」 三度目の呼びかけにも応答なし。 まさかと思ってソファの前に回り込めば、 「寝てる」 座った状態のまま、帝人はすやすやと寝息を立てていた。それは昨夜、考え事をしていたために一睡もしていなかったからなのだが、帝人の頭を一晩中悩ませた原因である男が知っているはずもなく、臨也は珍しいもんだと思いながら幼い顔をまじまじと見つめる。 「……」 安らかな寝顔を見つめていると胸を圧迫するような感覚に襲われた。だがそれは、痛いのに、どこか甘い。 「ッ、帝人、くん」 帝人の身体を囲うような格好でソファの背に両手をつく。そろり、そろりと距離を詰めるにつれて胸に広がる痛みと甘さも増した。 (なんで、こんな風になるんだろうね) 心の中で語りかけ、薄く笑みを浮かべる。それも普段から顔に貼り付けている仮初の笑みではなく、臨也を知る者ならば一様に驚くであろう心からの優しいものを。 そんな臨也に呼応した訳ではないだろうが――― 「ざや、さ……」 「!! ビックリした。寝言か」 びくり、と身体が強張ったものの、帝人がまだ夢の中にいる事に気付いて臨也は胸を撫で下ろす。加えて少年の呟きが己の名であったために、臨也の口元は楽しそうな弧を描いていた。 「なあに、帝人君。俺はここにいるよ」 相手を起こさない程度の小声で応える。 声音は自然と優しくなり、頬の筋肉も緩んでいた。 「……き」 「ん?」 「いざ、……さん…………すき」 「…………………………ッ!?」 ガタンッと背後のローテーブルに臨也の足が当たり、大きな音が立った。その音の所為で帝人が「ん、む……?」と覚醒し始める。だが臨也自身それどころではない。「な、え……あ……?」と意味不明な音を発しながら、急激に熱くなっていく顔面を手で覆った。心臓がバクバクと煩い。 (なに、えっ、帝人君が俺を好きって事? って言うか俺のこの反応が何だ。え、ちょっと、これってまさか。え……?) 「んん……」 (う、わ。帝人君が起きる!) ようやく帝人の様子に意識が向き、臨也は慌ててその場を離れる。逃げるように――否、完全に『逃走』だ――靴を引っ掛けて外に出て、エレベーターに飛び乗った。わざわざ取りに帰ったはずの書類すら持たずに。 (いやいや、つーかもう仕事してる余裕なんか無いっての) 降下するエレベーターの中で壁にごつんと頭を打ちつけ、呻く。 「あー、なんだよもう……」 エレベーターの低い振動音を聞きながら臨也はポツリと呟いた。 「俺、帝人君の事が好きだったのか」 人間という大きな括りに向けての『愛している』ではない。竜ヶ峰帝人という個人を特別に思うという事。 ここに来てようやく自分の想いを自覚した臨也はちょうど一階に到着したエレベーターから降りつつ、その秀麗な顔に浮かぶ表情を片手で覆い隠した。 「なんだよ、それ」 誰も居ないマンションの共有エントランスに小さな独白が落ちる。 臨也の脳裏に甦るのは、この一週間、己が帝人に仕出かした様々な――最低の――行為。好きな相手に、この世界で一番特別な相手に、自分は何をしてしまった? 帝人は非日常を望むが、彼本人は至って普通の感性の持ち主だ。その『普通』と臨也の行為を照らし合わせた時、帝人が一体何を感じてどう思ったのか、想像するのは容易い。 「俺、は……」 とてつもない後悔に襲われる。 そして臨也は恐らく人生で初めて、自分に向かって呪うように告げた。 「死んでしまえ」 (2010.09.12up) |