(結局、臨也さん帰って来なかったのかな)
 昨日、うとうととソファで昼寝をしてしまった時に一度帰って来たような気がしたのだが、目を覚ましてみるとそこに臨也の姿は無く、帝人は己の気のせいという事にした。もしくは夢でも見ていたのかもしれない。
 そして夜、今日も部屋まで来るのだろうかと、不安と緊張と少しの期待を抱えて寝たフリをしていたのだが、結局、青年は現れず、それどころかメモには帰宅すると書かれていたのに、その気配すら無かった。
 いつしか帝人も本当に眠ってしまい、気付けばもう昼近く。はぁ、と一つ溜息を吐き、殊更ゆっくりとした動作で寝室を出た。すると、
「おはよう、帝人君」
 目の前に黒い影。
(っ! 臨也さん、だ)
 一瞬で目が覚めた。
 ついさっき帰宅したばかりらしく、相手はまだ黒いコートを羽織ったままだ。
(ああ、どうしようどうしよう。臨也さんだ。優しそうな表情だし、怒ってるとかそういう訳じゃないよね。まずはおかえりなさいって言うべきなのかな。応えてくれるかな。言って、みようかな)
 起きたばかりなのに、臨也の事を考えると頭の中では物凄い速さで言葉が溢れ出す。
 ほんの一瞬の間しか置かず、帝人は焦りで声がひっくり返らないよう注意しながら口を開いた。
「おかえり、なさい。臨也さん」
「うん。ただいま。朝御飯……って言うか昼かな。すぐ作ってあげるから食べにおいで」
「あ、はい!」



□■□



(幸せそうに食べてくれるなあ……)
 テーブルの向かいで臨也が作った食事に手をつけている帝人を眺め、思う。
 少年を攫った初日は、こんな風にはいかなかった。ひたすら臨也を拒絶して、今とは正反対の感情を剥き出しにして。
 そんな帝人の様子をハッキリ覚えているからこそ、今、自分に笑いかけてくれる少年の中に生じた“歪み”に目が行って、どれだけ悔やんでも終わりの見えない後悔に苛まれる。
 心が自分の置かれた状況に耐えられなくなって、自衛のために“勘違い”を起こす。それが今の帝人の状態だ。
 帝人を追い込んだのは臨也。帝人を苦しめ歪ませたのは臨也。大切にしたかったのに全く逆の事をしてしまったのは折原臨也。可能ならば時間よ戻ってくれないかとすら思う。そうすれば今度はもっと優しくして、本当の意味で好きになってもらって―――
(―――違う)
 表面上は微笑を浮かべながら、臨也は心の中で鋭く否定した。
(たとえ時間が戻ったとしても、俺はもう決して帝人君には近付かない。どうせ俺のような人間は何を思っていたって本当に大事な存在を傷つける事しかできないんだ。きっと)
 傷つけたくないから、近付かない。自分の所為で竜ヶ峰帝人という存在が穢れると言うなら、もう二度と会わない。関わらない。
(この子が幸せになれるなら、それで―――)
「ごちそうさまでした」
「お粗末さまでした」
「すっごく美味しかったです」
「そう言ってもらえて嬉しいよ」
 “好きな相手”が笑い返してくれたからだろう。帝人は更に嬉しそうに、幸せそうに、笑みを浮かべる。
(帝人君って正直だよね)
 少年がいつから臨也を好きだと思うようになっていたのか知らないが、帝人本人も最初は負の感情を向けていた事をこの短期間で忘れるはずも無く、なるべく今の想いを表に出さないようにしている。ただし人の感情を読むのに長けた臨也と、感情を隠すのが下手な帝人とでは、その努力も実ってくれず、少年の好意の原因を理解している臨也には喜びではなく切なさを齎した。
(だから、俺は)
 離れたくなんかないよ、という我侭を己の奥底に沈めて、臨也はにこりと口元を笑みの形に歪めた。
「帝人君、もう解放してあげる」
「…………え?」
「誘拐ごっこはもう終わり。君は俺の観察対象から外れました。以上」
「え、え? いざや、さん?」
 臨也を好きだと錯覚している帝人は突然の解放宣言に戸惑いを隠せない。少年のこれが演技で臨也を苦しめるためのものならどれ程良かっただろうと思いながら、臨也は己の感情を殺した。
「出て行って」
「ぁ……」
 氷のような冷たい声に帝人の肩が震える。顔色はどんどん悪くなり、先程まで頬をうっすら染めて笑っていた様子など欠片も無い。
 ガタンッと椅子を鳴らして帝人が席を立った。
 唇を噛み締め、両の拳は耐えるように固く握られている。少年の姿に臨也の心臓は痛みを訴えたが、顔に笑みを貼り付けたままそれを無視した。
「お……お世話に、なりました」
 硬い、震える声で告げると、帝人はペコリと頭を下げて臨也に背を向ける。拒絶されてまでこの場に居続けられるほど帝人の神経は図太くない。しかもその拒絶は帝人が好意を寄せている本人からのものであるから、尚更だ。
(行かないで)
 頼りない背中を視線で追いかけながら心の中で呟く。ヒックとすすり泣く音が微かに聞こえ、臨也は苦しげに眉根を寄せた。
(ああ、泣かないで。俺は帝人君に幸せになって欲しいんだ。だからもう俺との縁はおしまい。ね、帝人君……)
 心臓がズキズキと痛い。今すぐその手を取って引き寄せて抱き締めて、愛していると叫んでやりたい。でもそれは決して帝人のためにならないのだ。臨也の手によって歪められ、いびつな形に固まってしまった帝人の心をもっと歪めてしまうなんて。
 自分にそう言い聞かせ、臨也は今にも伸ばしそうになる腕をぐっと堪えた。
 だと、言うのに―――
「……ぃざや、さん」
「―――ッ!」
 涙に濡れた声で、けれどとても愛おしそうに名前を呼ばれた瞬間。
 臨也の箍が外れた。



「ごめんね。君が好きだよ」



「……え。臨也さん、今、なんて……」
「あ……っ」
 しまったと思ったが、遅い。
 無意識のうちに口を突いて出た本心はしっかりと帝人の耳に届き、涙を溢れさせる両目をそのままに少年が振り返る。
「あ、あの! 僕も、僕も臨也さんの事が、」
「君のそれは偽物だ」
「え」
「ストックホルム症候群って聞いた事はないかい? 今の君は自己防衛のために俺の事が好きだっていう感情を“作って”いるんだよ」
 だからそれに従う必要は無い。臨也はきっぱりと告げた。早く帝人が己から離れて、もう一度“正しく”笑えますようにと願いながら。
「……でも臨也さんは、」
「俺は最初から帝人君が好きだった。ちゃんと自覚したのはつい昨日だけどね。でもそんなのはどうでもいい事だろう? 君は早くここを去って―――」
「嫌です」
「な、にを」
 少年のハッキリした物言いに今度は臨也が驚く。
 帝人は離れた距離を再び縮めながら、強い意志を覗かせる瞳で臨也を見つめた。
「ストックホルム症候群については多少知ってます。僕も臨也さんが好きだって自覚した時に、たぶんそうなんだろうと思いました。でも」
 臨也の正面に立ち、帝人は穏やかに笑う。
「でも、好きだって気持ちは変わってくれませんでした。僕、やっぱり臨也さんの事が好きなんです。原因なんてどうでもいい。これが僕の真実なんだ」
「みかど、く……」
「だからですね、臨也さん」
「みか、……っ!?」
 両腕を伸ばし、ぎゅう、と帝人が抱きついてきた。息を呑む臨也に、貴方が好きだと少年は笑う。
「謝るくらいなら、責任とって僕を臨也さんの恋人にしてください」
「……本当に、それでいいの?」
「それが一番良いんです」
 抱きつく力を強めながら臨也の胸に顔を押し付け、帝人が頷く。
「本当の本当に?」
「本当の本当に、です」
「ッ!!」
 ああ、この喜びをどう表現すればいいのだろう。嬉しくて胸が苦しくなるなんて初めて知った。
 細い身体を抱きしめ返しながら、臨也は帝人の肩口に顔を押し付ける。目頭が、熱い。
「帝人君」
「はい、臨也さん」
「帝人君、帝人君、帝人君」
「どうしたんですか臨也さん。……泣いているんですか?」
「……嬉しくても泣けるんだね」
「そうですね。僕も……」
 シャツ越しに帝人の涙を感じた。
 お互いに今、同じ気持ちなんだと実感して、臨也は強く強く帝人の身体を抱きしめる。幸福という名の熱に爪先から頭のてっぺんまで満たされ、高揚する心と共に全身が燃えるように熱い。
「ああもう……幸せすぎて融けてしまいそうだ」
「もし本当に融けたらずっと一緒にいられるんでしょうか」
「あはは、そうだねぇ」
 ぎゅうぎゅうと抱きしめ合いながら、臨也と帝人は言葉を交わし、気持ちを通わせる。ここまで至った『過程』よりもずっと大切な、二人の真実をただ一つのものとして。
「ねえ、帝人君」
 大事な大事な少年に、臨也は甘く蕩けた言葉を囁いた。

「君が好きだよ」







   








(2010.09.13up)



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