そう言えばここに連れて来られてから水さえ口にしていなかったと帝人が思い出したのは、喉の渇きで目が覚めたからだった。
 夕食を断ってこの部屋に引き篭もった後、どうやらいつの間にか眠ってしまっていたらしい。再び目を開けた時には辺りが真っ暗で、窓から入る街の灯りにより物の輪郭がおぼろげに浮かび上がる程度だった。
「みず……」
 声は掠れ、喉の渇きが酷い。
 これが良くない状況だと言うのは解っている。しかし部屋の扉を開けてその先に臨也がいたとしたら。
 顔を合わせた時の事を想像し、帝人は身体の欲求に従うか今の感情に従うか、その狭間で揺れた。だがそのどちらかを選ぶ前に結果が顔を覗かせる。
 ガチャン、と開錠の音。それを耳にした瞬間、ベッドの上で寝そべっていたままの帝人はぎゅっと両目を閉じて呼吸すら止めるように身を堅くした。
「帝人君、入るよ……」
 扉越しに少しくぐもった声の後、部屋に廊下からの灯りが差し込む。閉じた瞼の向こう側からその光を感じ取って帝人は更に目を固く瞑った。
 暫らくして部屋に侵入した気配は帝人が眠っていると思ったのだろう。なるべく音を立てないようにしながらベッドの横に立ち、サイドテーブルに何かを置く。コトン、と硬質なものが触れ合う音と、それから恐らく紙(メモだろうか?)のカサリという音が帝人の耳に届いた。
 それを終えると気配はベッドの傍を離れたが、
(な、に……?)
 今度はベッドの端で小さくなっていた帝人のすぐ傍に立つ。咄嗟に寝ているフリをしてしまった帝人は下手に動く訳にもいかず、緊張と不安で早鐘を打つ心臓の音が相手に伝わらないよう祈るしかできない。
 ぎっ……とベッドが小さく鳴く。身体に感じる傾き具合から察するに、臨也がベッドの端に腰掛けたようだ。
 その直後、額の辺りに感じた手の感触に帝人は思わず声を上げそうになった。
(……ッ!)
 さらり、と臨也の細く長い指が帝人の前髪を梳く。優しく、壊れ物を扱うように。それから短く切られた前髪を払い、指先が額を撫で、こめかみを掠めて頬をくすぐる。
(なになになになに―――!?)
 一体何のつもりだ。まさかこちらが起きているのを知った上で、寝たフリのまま動けない事を面白がっているのか。
 混乱がピークに達した頃、臨也の指先が帝人の唇に触れた。感触は相変わらず羽根のように軽かったが、指の腹は唇の形を確かめるように何度も往復を繰り返す。
「……ン」
 耐え切れず、帝人は微かな声を上げた。それでもなるべく、たった今目を覚ました――もしくは覚まそうとしている――かのように。
 途端、帝人に触れていた指がピクリと震え、慌てて離れる。できるだけ急な動作にならないように、それでも素早く臨也は腰を上げた。
「帝人君、起きた……?」
「……」
 帝人は答えず、寝たフリを続ける。彼と言葉を交わすつもりは、まだ無い。
 暫らく黙っていると、未だ帝人が眠ったままであると判断してくれたらしい。臨也は安堵したのかつまらないと思ったのか、一度だけ息を吐き出して静かに部屋を出て行った。丁寧に外から再度施錠までして。
 扉の向こうから臨也の気配が完全に離れた後、帝人は全身の強張りを解いて起き上がった。指の腹の感触がまだ残っているように思えて、手の甲で唇を擦る。
(一体何のつもりで、あの人は……)
 何度か腕を動かして唇を拭った後、ふとサイドテーブルに視線を向けると、そこには臨也が置いていったであろう物が。
(コップ、水差し。それから、やっぱりメモだ)
 部屋の照明を点けると帝人が起きているとバレてしまうため、紙切れを持って窓に近付く。硝子越しの街の灯りに照らされたメモには、臨也が仕事の都合で急に出かける旨が書かれていた。帰宅は翌日の昼になる予定。また水は夕食時に何も口にしなかった帝人を心配して用意されたもので、他に欲しい物があれば勝手に寝室を出て捜してくれとの事だった。暇なら風呂に入るなりテレビを観るなり本棚から好みの書籍を選ぶなり自由だ。ただし外界との連絡に使える物、携帯電話やネットに繋がったパソコンは使用不可。帝人の携帯電話は臨也が預かったままで、パソコンはIDとパスワードが必要かつゲストユーザーでのログインができなくなっている。
(明日の昼まで折原さんはいない)
 メモの内容に目を通した帝人にとって一番重要なのはその部分だった。
 紙切れを元の位置に戻し、コップに水を注いで飲み干す。何時間ぶりかの潤いに喉が鳴った。
(逃げるなら、この時。ここを出られれば、あとは警察に駆け込んで……)
 そうと決まれば臨也が用意した水に手をつける事にも、更にはこの部屋を出て(逃げるためのエネルギー補給として)食べ物を口にする事にも、嫌悪感は殆ど湧かなくなる。
 誰がこんな理不尽な状況に甘んじるものか。
 怒りで自身を奮い立たせ、帝人は「よし」と頷いた。








(2010.09.07up)



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