「どういう、こと、ですか……」
口の中が乾いて上手く喋れない。 こちらを見下ろす青年を睨み返す余裕も無く、帝人は唖然として相手を瞳に映していた。 「どうも何も、」 臨也は肩を竦め、何でもない事のようにそれを告げる。 「俺は君を誘拐したんだよ」 「ッ!」 「でもホント心配しなくていい。帝人君のご両親に身代金を要求するとか、そういう他人に迷惑が掛かる真似はしないから。ただ君が俺の傍に居てさえすれば」 「どう、して」 「さあ? 俺にもよく解ってない部分があるんだけどね。……はっきり言えるのは、いつでも手の届く所に帝人君が居ればいいなと思ったって事だ」 嘘か本当か判らない調子で臨也は薄く笑う。 ただし最後に独り言のような小さい声で、 「趣味の人間観察がちょっと行き過ぎたのかもね」 と付け足したのを耳にし、帝人はぞっとした。これは冗談ではなく、彼の中では本気なのだと。今更ながらに以前親友から受けた忠告を思い出しながら。 (この人は関わっちゃいけない人なんだった) もう、遅いのだろうけど。 * * * 同日、夜。 「帝人君、ご飯だよ」 そう言って臨也は帝人を寝室から連れ出した。どうやら一室に監禁するのではなく、各部屋への移動は構わないらしい。折原臨也の住居兼事務所であるマンションから出なければ、また臨也に無断で外界と連絡を取ろうとしなければ、あとは自由だ。尚、外へと続く扉は内側からも鍵が無ければ開かない仕様である。本人曰く、帝人のために新しく付け替えたそうだ。またこの部屋は地上何階にあるのか……正確なところは判らないが、飛び降りれば確実に死ぬ高さである事は窓から確認できた。 寝室を出てすぐの階段を下り、連れて来られた先にはカウンター席がある。今はその上に様々な料理が並べられていた。椅子は向かい合うような形で二つ。一方に濃紺のエプロンが掛けられている事から察するに、あちらが臨也の席で、且つこの料理は彼が作った物なのだろう。 「どうぞ」 椅子を引いて着席を促す臨也。現時点で逃げる術を持たない帝人は、のろのろとした動作でそれに従う。 料理を挟んで向かいには当然のように臨也が座り、機嫌が良いのか、口元には綺麗な弧が描かれていた。 「遠慮なく食べてくれていいよ。味は保障するから」 まるで友人に接するかのような気安さで臨也がテーブルの上の料理を示す。 確かに彼の言うとおり、帝人の前に並べられたそれらはどれも美味しそうだった。腹が鳴るまでには至らずとも、身体が空腹を訴えてくる。しかし帝人は動かない。 「……何か入ってるんじゃないかって警戒しているのかい?」 手を付けようとしない帝人に臨也はそう言って苦笑を浮かべた。 「そんな事しないよ。なんなら俺が先に食べて見せよう」 まずはどれがいいかな、と訊いてくる臨也に帝人は首を横に振る。 違う。そうではないのだ。 料理に何かが混入された可能性を疑っている訳ではない。そんなのはわざわざ相手を誘拐してまで行うような事ではないだろう。 帝人は、ただ、食べたくなかった。 食べても何ら問題の無い料理を前にし、空腹を宥めすかして我慢するのは常識的に考えて得策ではない。いざと言う時、逃げ出すにも何かに抵抗するにも体力は必要になるのだから。 (解ってる。解ってる……けど) 感情までそれに従うとは限らない。 自分の興味――しかも帝人には理解しがたいもの――のためだけに他人の自由を奪って笑っている臨也の目の前で、彼から提供された物など口にできるものか。 今この場で喚いて椅子から立ち上がらないのも、テーブルの上の料理を全て引っ繰り返したりしないのも、帝人の理性がまだ機能しているからだったが、これ以上はもう無理だ。 「……食べたくない? でも何か腹に入れとかなきゃ辛いのは帝人君だよ?」 (そんな事、貴方に言われなくても解ってます) 口を開くのも億劫で、ただ首を横に振る。パサパサと短く切られた髪が小さな音を立てた。 顔を伏せ、視線を臨也からも料理からも外す。 その場に訪れたのは無言の静寂。 だが暫らく帝人が(微々たる)抵抗を続けていると、カウンターテーブルを挟んだ向こう側で小さな溜息が零れた。ピクリと揺れそうになる肩を無理矢理抑え付けて帝人が顔を上げると――― 「食べたくないならしょうがないか。じゃあまた、帝人君が欲しいと思った時に作ってあげるよ」 穏やかに、けれどどこか残念そうに臨也が微笑む。裏の無い善意を相手に断られ、それでも仕方が無いと諦めるように。 この表情が帝人のお人好し加減を知っての事だとしたら、臨也は相当な役者だろう。 チクリと痛む胸を無視して帝人は席を立つ。向かうのはさっきまで自分がいた部屋だ。 「みかどくん……」 「今日はもう、貴方と話したくありません」 人間観察が趣味だと言うこの人間に自身の動揺を悟られぬよう帝人は抑揚を欠いた声で言い放ち、その場を離れる。追いかけて来る気配は無い。向かった部屋も所詮、内鍵を掛けようとも臨也が入ろうと思えば入れる所だが、それでも多少、これ以上顔を合わせてこちらの心が揺さぶられる可能性が下がった事に帝人は幾許かの安堵を覚えた。 □■□ 「怒らせたか……」 ふむ、と顎に手を当てて臨也は空になった席を眺める。帝人を怒らせた事に対してはそれ程――否、全く――後悔などない。むしろ「こういう反応をするのか」と面白がっているぐらいだ。 「まあ、俺の傍にいてくれるなら、怒っていようが泣いていようが構わないしね」 そう独り言ちた後、臨也は自分が作った料理に手を付けた。普段通り上手くできたはずなのだが――― 「……あれ。ちょっとしょっぱい」 調味料を加えすぎたらしい。どうしてだろう。 何か緊張するような事でもあったかと首を傾げつつ、それでも食べられない程ではないので料理を口に運ぶ。 ただそれと同時に、帝人がこれを食べずに済んで内心ほっとしていたのは、臨也本人ですら気が付いていなかった。 (2010.09.06up) |