voice 09
帝人が連れて来られたのは都内某所の高級ホテルのスイートルームだった。
名前は知っているがおそらく一生泊まらないだろうそんな場所に随分と丁重に迎え入れられ、身が沈み込む程ふかふかのソファに座らされる。周囲を取り巻く人間達は皆一様に笑顔であり、“誘拐犯”のその様子に帝人は寒気すら感じていた。 そう。帝人は彼らに誘拐されたのだ。 下校途中、正臣達と別れて一人歩いていると一台の車が真横に滑り込んできた。あまりの距離の近さにぎょっとする間もなく、後部座席の扉が開いて中に引き摺り込まれ、耳元で囁かれた台詞は、 「抵抗しないでください。貴方に手荒な真似はしたくないんです」 若い女性の声。どこかで聞いた事があるような声だと思った。 首を巡らせて己の腕を掴む手を見れば、白くとても華奢な女性の―――少女のもの。そこから相手の腕、首、顔を眺めて、帝人は目を見開く。 「貴女は……」 「っ! 覚えていてくれたんですか!? 嗚呼、『D・R』の帝人さんに覚えてもらえていたなんて光栄です!!」 途端、頬を紅潮させながら言った茶色いブレザー服姿の少女は、以前帝人が臨也に絡まられた時、助けに入ってくれた しかも帝人の混乱を余所に車は走り出していた。容易に飛び降りられる速度ではなく、ちらりと窓の外を一瞥した帝人は「どうして」と小さく呟く。 「いきなりこんな事をしてごめんなさい。でも今日はどうしても帝人さんをお連れしたい所があるんです」 「僕を連れて行きたい所……?」 帝人の問いに少女はこくりと頷いた。 「はい。そこで私達の話を聞いていただきたいんです。それが終わればすぐにお帰ししますから」 真面目そうな顔立ちの少女は決して人が悪いようには見えない。しかも彼女は以前帝人を庇ってくれたファンの一人だ。彼女が言う“私達”もおそらくは『D・R』のファンであろうと推測され、帝人の警戒心を薄れさせる要因になった。 容易に逃げられそうにない。また、そう急いで逃げなければいけないとも思えない。その所為で帝人は大人しく彼女らの案内に従う事となった。 主犯もしくはリーダーと思われるブレザー姿の少女はアリスと名乗った。日本人にしては珍しい名前だと帝人が答えると、彼女はほんのり苦笑して、 「ハンドルネームなんですよ」 「ハンドルネーム?」 「はい。『D・R』のファンが作った交流サイトでそう名乗っているんです。今も帝人さんのファンの一人としてこの名前で呼んでいただければと思いまして」 「アリス、さん……?」 「はい! 嗚呼、本当に帝人さんに呼んでいただけるなんて……!」 感極まったように胸の前で手を組む少女。それはあまりにもオーバーな姿だった。 周囲に首を巡らせれば、車を運転していたとっくに成人済みだろう男性や、助手席に座っていたサラリーマン風の男、それに帝人がこの部屋に招かれる前から居たらしい数人の男女が思い思いに存在していた。そしてその彼らの全員がアリスを羨ましそうな目で見ているのだ。 (僕に名前を呼ばれたから……?) その考えにぞっとする。 違う。違う。竜ヶ峰帝人はただほんの少し他人より歌が上手いだけの人間で、それを除けば本当にどこにでもいる高校生なのだ。だからこうやってどこかの宗教の神のように扱われるのはおかしい。ここは異常だ―――。 己の歌が他人にどう受け取られているのか、またファンの心理とは時にどういうものになるのか。それを理解していなかった帝人は訳が分からない現状にはっきりと悪寒を覚えた。 「ああ、帝人さん。そんなに緊張せず、どうかリラックスしてください。この部屋は私の父が年間契約で借りているものなので汚しちゃっても平気ですし。いえむしろ帝人さんに触れたソファなんて元の状態より価値が上がって当然ですよね!」 寒気で身体を震わせた帝人をこの部屋の調度品の高価さ故に緊張したためだと勘違いしてアリスはニコニコとそう告げた。だが普通の少女の笑顔で発するその台詞もまた異常だ。 カラカラに乾いた口内ではまともに声を出す事もできず、帝人は数度小さく口を開閉する。そして何も発する事ができないうちに、目の前のローテーブルに紅茶のセットが二つ運ばれてきた。一つは帝人のもの。そしてもう一つは帝人の向かいに座ったアリスのものである。 どうやら裕福な家庭の娘らしいアリスは上品な仕草でカップを傾け、帝人が口を付けていないのに気付くと、先に飲んだ事を恥じるように小さく苦笑した。 「すみません。大好きな帝人さんを目の前にしていると緊張でどうしても口の中が乾いちゃいまして。……帝人さんもどうぞ。砂糖とミルクはご入り用ですか?」 「あ、えっと」 同じように口の中はカラカラなのに、その原因は全く違う。 同じものを見ているはずなのに、自分と彼女の価値観は全く違う。 盛大に嫌な予感がした。けれども今の帝人にここから立ち去る手段はない。出入り口の近くに体格の良い男が立っているのを一瞥して帝人はそう確信した。 「……じゃあ、砂糖を少し」 おそらく彼女が最初に言った“話”が終わるまで解放されないのだろう。ならば、と帝人は形式的にカップに口を付けてからアリスを見た。 「それで、アリスさん。僕にお話というのは?」 帝人に再び名前を呼ばれた事でアリスは小さく身を震わせ、どこか恍惚とした表情のままカップをソーサーに置く。 「そうですね。帝人さんもお忙しいでしょうし、あまり時間を取らせるのも良くありませんよね」 彼女は一体何を話すつもりなのだろうか。まさか拉致までしておいてただ単に「あなたが大好きです」的なファンのメッセージを伝える訳でもあるまい。 また、歌の一曲でも要求される程度ならばさっさと歌って帰してもらおうとも帝人は思う。『D・R』として帝人が歌うのは、本来、大事なバンドのメンバーのための歌だ。ここで一曲請われたとしても、それはきっと帝人にとって価値のない一曲になる。誰かのためではない、不特定多数に向けた単なる“音”にしかなり得ないそれは、彼女らにとってどうかは知らないが、少なくとも帝人にとっては塵芥に等しかった。無論、そう考えているからと言って歌の質が下がる訳ではないが。 帝人が平静を装う皮一枚の下でぐるぐると考え事をしていると、アリスがテーブルを迂回してすぐ傍までやって来た。そして彼女は帝人の手を取ると、 「誰か個人の物にならないで」 どこかで聞いた事がるような言葉を吐き出した。 「……っ」 否、違う。“どこかで聞いた”ではない。“目にした事がある”台詞だ。 「手紙、の……っ!」 慌てて距離を取ろうとするも、片手をアリスに強く握られてソファから立ち上がる事すらできない。相手は少女で自分はひ弱だと言われていても一応男。その所為で全力をもって振り払う事を無意識に止めていたとしても、彼女が帝人を掴む力は華奢な女の子の細腕がどうしてと思える程のものだった。 痣が残るくらいに強く帝人の腕を握ったまま、アリスは先刻から全く変わらぬ笑顔で「はい」と告げる。 「あの手紙は私達 あっさりと先日の手紙の事実を明かした後、アリスは悲しげに目を伏せた。ああいう物が異常だという自覚は無い。まるで帝人を想うゆえの行動ならば世間の理に反していても何ら問題無いとでも言いたげな態度だった。 数拍置いて彼女は再び顔を上げる。 「 凍り付いているのに、その下でどろどろした物が絶えず流動しているような声だった。 頭の中で盛大に警鐘が鳴る。 「悲しいです。とても、悲しい」 アリスは帝人の腕を掴んでいない方の手を胸に当て、ブレザーの下のブラウスに皺を寄せた。まるで己が被害者であるかのように。―――彼女にとっては己の方が被害者なのだろう。大好きな そんな自称哀れなファンの代表は「だから」と、自分達にはその権利があると言いたげな表情で帝人に願った。 「平和島静雄との縁を切って私達のものになってください、帝人さん」 「いやだ」 「……え?」 キョトン、と。予想外だったとしか表現しようのない呆けた顔でアリスは小首を傾げた。 帝人はその隙に少女の腕から逃れ、ソファから腰を上げて一歩離れる。 こんな気味の悪い連中に真っ向から反抗してもあまり良い状況にはならない事など解っている。頭の中は今もなお警鐘が鳴り響いていた。しかし帝人はそんな理由で静雄との関係を終わらせるなどと嘘でも言いたくなかったのだ。 もし正臣との付き合いをやめろ、杏里との交流をやめろ、青葉と会話するな、等と言われても帝人はきっと同じ反応をしただろう。赤の他人に自分の交友関係をとやかく言われる筋合いはない。穏和な一方で我の強いのが竜ヶ峰帝人だ。そんな帝人の中で最も重要な位置を占めている人間との縁を切れと言われて、素直に従うはずがない。 恐れも嫌悪感も全て押し込め、青みがかった瞳で真っ直ぐにアリスを見据える。 「嫌だって言ったんだ。僕は静雄さんから離れる気なんてない。少なくとも静雄さんが僕を好きでいてくれる間はね。だから君に、君達にとやかく言われて『はい、わかりました』なんて答える気はさらさら無いよ。……ねえ、アリスさんが言ってた話ってこれでおしまい? だったら僕はもう帰るから」 言って、帝人は呆けたままの少女に背を向けた。 このホテルへは車で連れて来られたが、近くに駅があったはずなのでそこから池袋へ戻る事は容易い。さっさと帰って仲間達に報告して、そうしてまだアリス達が何か言ってくるようなら対処方法を考えよう、と思いがら帝人は外へと続くドアに向かって歩き出し――― 「行かせない」 ぽつりと少女の呟きが落とされたのと同時に、口元に布のような物が押し当てられ…………暗転。 (2011.06.24up) |