※本作は「誰が彼を殺したの?」を第一章とした加筆修正版となります。こちらのサンプルは第二章に当たる部分ですので、未読の方は先に「誰が〜」の方を御覧くださいませ。尚、このサンプルは相変わらずの鬱展開ですが、ラストはハッピーエンドとなっております。



■2■

 酷い頭痛と共に燐は両瞼を開く。
 視界に映ったのは薄暗い空間の奥に見える白い板―――かと思いきや、それは半個室になっている就寝スペースの天井だった。天井が低めと言う意味では修道院で使っていた二段ベッドと似ているものの、見慣れたシミも傷も無いそれは燐にとって馴染みのない景色だ。
 一体どこのベッドに寝かされていたのだろう。そう考えながら痛むこめかみに手をやろうとして、しかし腕が思うように動かないことに気付く。ゆっくりと眠りから覚め始めた思考回路が現状を把握した時、燐は遅まきながら自分が眠っているベッドにもう一人の存在を感じた。
「……ゆきお?」
 まるで拘束するように燐を抱きしめて眠っていたのは弟の雪男だった。外し忘れた眼鏡には幾つもの水滴が落ちては流れ、乾いた跡が残っている。頬も同じく。そして赤く腫れた目元は一目で泣いたと判る程に痛々しいものだった。
 大事な弟が泣いていた。それを知った燐は抱きしめられている所為で不自由な身体を何とか動かし、涙の跡が残る弟の頬を撫でようとする。が、白い頬に伸ばされた指の爪が記憶にあるより尖っているのが目に入って雪男の肌に触れる前にピクリと動きを止める。
「あれ……。おれ、悪魔化してる」
 雪男を起こさないように己の身体を観察すれば、所々に青い炎が灯っていた。しかし燐は今、感情が高ぶっているわけでもなければ意識して炎を出そうとしているわけでもない。となれば己が炎を纏う原因はただ一つ。
 ベッドの下に放り出されているのは紅色の細長い袋。それは中身を失い、へなりと床の上で折り重なっている。注目すべきはその更に向こう。深い青の鞘から抜き放たれた降魔剣が主の手を離れて尚、刀身に青い光を纏っていた。
 酷い頭痛。抜刀された倶利伽羅。
「それに、床の血」
 フローリングの茶色ではなく大量の血液が乾いたゆえにできた茶色を眺め、燐はぽつりと呟く。
 これらの物的証拠と徐々に復活してきた己の記憶を合わせて燐は自分がこの部屋で何をしたのかやっと思い出した。
(俺は……)
 弟に不要と断じられて死のうとして、でも倶利伽羅を抜刀してしまえば悪魔の力が強まりちょっとやそっとでは死ねなくなるから別の武器を探して。行き着いたのは弟が悪魔を祓うために使う二挺の銃。弟の前で一度しくじったことを謝罪し、それから今度こそはと鉄の塊を手に取った。己は銃口をこめかみに当て―――。
 引き金を引いてからの記憶は無いが、何が起こったのか想像はできる。
「……なあ、雪男。なんで倶利伽羅を抜いたんだ? 抜かなきゃ俺はちゃんと死んでやれたのに」
 今度こそ死んでやれるはずだった。
 大事な弟が望んだように。要らないと言われた命を捨てられたはずなのに。しかし何を思ったのか、おそらくこの弟は燐が頭を撃った後に倶利伽羅を抜いて強制的に燐の悪魔としての力を発揮させたのだろう。
 首を裂いても燐を生き長らえさせる悪魔の力は、同じく頭を撃ち抜いても有効だったようだ。対悪魔用の銃弾を使用しているはずなのに、なんてしぶとい力なのか。
 燐は人間と言うより肉食の獣に似た己の爪を眺めて眉根を寄せる。
 こんな醜い身体で、こんな醜い命で。自分はまだ生きている。燐にはそれが堪らなく申し訳なかった。この命の終わりを望んだはずの弟が起こした行動の意図が読めず、疑問と罪悪感が同時に降り積もる。
 拳を握れば手のひらに爪が刺さってぷくりと血が珠になった。一般人程度の嗅覚の持ち主である雪男がそのかすなか鉄錆の匂いを嗅ぎ取れたとは思えないが、計ったようなタイミングで「んん、」と呻き声があがる。
「……にいさん?」
 ぼんやりとしたピーコックグリーンがゆっくりと瞼の奥から現れた。掠れた声は寝起きゆえと言うよりも、むしろ絶叫の痕跡が見受けられてとても痛々しい。
 孔雀の羽を思わせる鮮やかな青緑が何度か瞬きを繰り返した後、それははっと大きく見開かれ、身を起こした雪男が痛いくらいの力で仰向け状態の燐の両肩を掴んだ。
「兄さんっ傷は! どうしてあんなことをしたんだっ!」
「ゆき、」
「僕があんな風に兄さんに死んで欲しいなんて思うわけないだろう!? なんで兄さんはそんなに短絡的なの!」
「泣くなよ……」
「泣いてない! 僕は怒ってるんだ!」
「……」
 姿勢の所為で雪男の眼鏡のレンズにぽたぽたと新たな雫が追加される。それが見えないはずも無いのに雪男は泣いていないと言い張って眉間に深い皺を刻んだ。
 燐はそんな弟の姿を眺めながらゆっくりと言われた台詞を反芻する。
 どうやら燐に死んでくれと告げた弟は兄が安易に自殺すること≠良しとしなかったようだ。成る程そういうことか、と燐は納得する。そうして燐は眉尻を下げて淡く微笑み、「ゆきお」と小さな声で弟を呼んだ。
「ごめんな、雪男。兄ちゃんが悪かった」
「兄さん……解ってくれたんだね」
 安堵したように弟の表情が柔らかくなる。その変化に燐は己の考えが間違っていないことを確認して「ああ」と頷いてみせた。
「自分から死のうとするなんて良くないよな」
「当たり前だろ。こんなことはもう二度としないで」
「わかってる。わかってるよ。俺は俺を殺しちゃいけない」
 うんうんと納得するように首を動かし、燐は告げた。

「雪男から父さんを奪った俺が自殺なんかで許されるわけがない。もっと生きて苦しんで苦しんで苦しんで、最後はお前に殺されてやるぐらいでないとな」

「……え?」
 雪男の表情が凍りつく。だが燐はそんな弟の意味を考えることなくにこにこと笑みを浮かべた。
「大丈夫だ雪男。兄ちゃんはもう自分から逃げたりしねえ。愚かで罪深い兄を殺すのはお前だ」
「兄さん、何を言って」
「まずは何をすりゃいいのかなー。俺は無茶苦茶怒った時にとにかく相手を殴っちまうんだけど……ああ、そうだ。なあ雪男、お前俺を殴ってみっか? それか銃の的にしてくれても構わねえぜ。今は悪魔化してっからどこに撃ち込もうがたぶん生きていられるし。そしたらお前は俺に罰を与え放題だ。まあわざと倶利伽羅を鞘に戻して人の姿の時に撃つのもアリだけどさ。そっちの方が回復も遅くて罰っぽいだろうしな。あ、片付けの方は心配するな。そっちも俺がちゃんとやっとくから。なんならこの部屋以外ですりゃいいしな。いっそお前が俺を撃つための専用の部屋を用意するってのもいいんじゃないか? それなら俺が回復して片付けてる間もお前はこの部屋で勉強なり何なりできるだろうし」
「ねえ兄さん何を言ってるのさ」
 弟の声は震えていた。
 双子であるにも拘わらず燐とあまり似ていない顔は歪な表情を刻み、泣いているのか笑っているのか判断し辛い。
 だが燐は己の考えの正しさを確信していたためにその真の理由には思い至らなかった。よって燐は自らの最大限の愛情を持って弟に微笑みかける。
「大丈夫だよ雪男。兄ちゃん、お前が殺してくれるまでの間、ちゃんと生きて罰を受けるから」
 弟の頬を滑り落ちた透明な雫が喜びによるものだと疑いもせず。