養父が命を賭して守ってくれたこの身には死という選択肢しか与えられなかった。
 しかし燐は死ねない。死んではならない。
 だってこの命は養父が守ってくれたものだ。だってこの命が無いと、
(雪男が独りになってしまう)
 家族は燐しかいないのに。
 燐がここで死ねば、燐の大事な弟はたった一人になってしまう。燐にはそれが耐えられなかった。
 ゆえに奥村燐は生を望む。せめて弟が己を不要と断ずるその時までは、と。


















「いっそ死んでくれ」

「おう。わかった」
 笑顔でそう言いきった兄は抜き身の刃を首筋に当て、躊躇いも無く横に引いた。



* * *



「……ッぁ!」
 ガバリと布団を跳ね除けて飛び起きる。
 何だ何だ。一体何なんだ今のは。
 祓魔塾の教室で、これから茨の道を歩もうとしている兄の覚悟を試すために酷い言葉を投げつけて。
 そうしたら、兄が―――
「ちがう。ぼくは、そんなつもりじゃ」
「何が違うってんだ? つーか顔、真っ青だぞ雪男」
「……え?」
 声がした方へ視線を向ければ、そこにはきょとんとした顔の兄が立っていた。正十字学園高等部の制服ではなく、修道院でも見慣れた私服姿で兄は雪男を見下ろす。その手には濡れタオルらしき物を持っており、ふと視線を下にずらせば飛び起きた時に落としたらしい別のタオルがくしゃくしゃになっていた。
「にい、さん……?」
「おう。お前の兄ちゃんだぞー。で、どうした雪男。なんか変な夢でも見たか?」
「ゆ、め」
「ん? 違ったか?」
 ことりと傾げられる首に斬り傷は無く、真っ白な肌を晒している。
 ああ、なんだ。夢か。ほっと胸を撫で下ろしながら、雪男は随分悪趣味な夢を見てしまったと己を叱る。神父が血塗れの姿で事切れているのを見たのは記憶に新しく、その所為もあったのかもしれない。だが最愛の兄まで(夢の中だが)あんな目に遭わせずとも良いではないか。
「大丈夫だよ、兄さん」
 そう答えながら雪男は微笑み、枕元に置かれていた眼鏡をかける。クリアになった視界で再び兄の首筋を見つめたが、やはりどこにも刀で掻き斬った痕跡は存在しなかった。
「ちょっと夢見が悪くて。あ、ひょっとして僕、魘されてた? うるさかったらごめんね」
「いやいや、全然ー。魘されるどころか死んでるみてえに眠ってたよ。つーか気絶か。あれは。俺もう本当にびっくりしたんだからな」
「ごめん。……って、気絶?」
 兄の台詞に奇妙なものを感じ、雪男は眼鏡の奥で瞬く。
 そう言えば自分はどうしてここにいる? 馴染みの無いこの部屋は己の荷物を運び込む時に眺めた正十字学園高等部男子寮旧館の602号室だと――己の荷物を見て――判ったが、雪男自身の記憶は祓魔塾一年生の講師一日目前半で途切れ、いきなりこの部屋に繋がっている。どうやって授業を終えたのか、どうやってこの部屋までやってきたのか、まったく残っていなかった。
 そもそも己は自分の足で祓魔塾からこの部屋まで辿り着いたのだろうか?
「雪男? そんな眉間に皺寄せてっと、しまいにゃ取れなくなっちまうぞ」
「ねえ兄さん」
「おう。なんだ」
 兄の台詞を無視して名を呼んでも特に気に障った様子は無く、雪男とは似て非なる真っ青な瞳が躊躇いも無く見つめてくる。長年己の常軌を逸した力の所為で悩んできた兄の瞳は、今、何か大きな問題を解決した後のようにすっきりと晴れ渡っていた。こんなに悩みも苦しみも無い澄んだ兄の目を見るのは久々だなと雪男は幼少期を思い出す。だが、やはりおかしい。
 だって兄は自分が悪魔の血を引いている、本当の悪魔だったのだと知ってしまった。育ててくれた養父は死に、一度は他人から死を望まれ、生きて茨の道を歩むと決めて。だからこんなに何もかも無かったかのような目などできるはずもないのに。
「にい、さん」
「何だよ。やっぱどこか痛いのか? それとも」
「だいじょうぶ、だから。僕は何ともないよ」
「そっか。なら良いんだけど」
「でもね、兄さん。ちょっと訊いていい?」
「おー。この兄ちゃんに何だって質問してくれていいぞ!」
 腰に手を当てて胸を張って、「えっへん」などという台詞までつけて兄は笑う。まるで何のしがらみも無い、極々普通の兄弟のように。
 しかしその背後では黒い尻尾がゆらりと揺れ、兄が悪魔として覚醒した事実を雪男に容赦なく突きつける。これは、夢ではない。だから雪男が祓魔塾の講師として兄の前に姿を見せたのも夢ではない。魔障の儀式のために腐った血を用意していたことも、兄が血を入れた試験管を割ってしまったことも、凶暴化した鬼(ゴブリン)が襲って来たことも、そして雪男が兄に向けて言った言葉も、全て本物。
 だとしたら。
「兄さん、僕はどうやって塾からこの部屋まで来たの」
「そりゃ俺が運んだからな」
「どうして運ばれたの。僕は自分で歩いて移動しようとしなかったの」
「おいおい無茶なこと言うなよ。気絶した人間がどうやって歩くってんだ」
「僕、気絶してたんだ。どうして?」
「どうして、って。そんなの俺も知りてえよ。お前、どうして気絶なんかしたんだ?」
 雪男には注意したくせに自分で眉間に皺を寄せ、兄は不思議そうに言い放った。

「折角お前が望んだとおり、俺が死んでやろうとしたってのにさ」

「は……?」
 言われた意味が理解できず、雪男は目を点にしてベッドから兄を見上げる。
 己が兄の死を望む? そんなまさか。有り得ない。
 一瞬にしてそんな言葉が思考を埋め尽くし、答えを出そうとする己の脳の動きを麻痺させる。けれど頭の天辺から血の気が引く音と指先が痺れる感覚は、頭が答えを出さずとも既にそれを知っていると言っているかのようだった。
「ああ、それともアレか。俺が中途半端に首を掻き斬ったりするから呆れちまったんだな。だからって気絶するこたぁ無いだろー。んん? それともようやく俺が死ぬことになってほっとしたのか? そんで気が抜けちまって気絶するように眠っちまったとか。いや、悪かったな。俺まだ生きてて。でももう大丈夫だから」
「え? あの、ちょっと兄さん?」
「お前ももう身体の方は問題ねえみてーだし、俺の心配事は片付いた。お前に言われたとおり死のうとしたのはいいけどよ、悪魔になっちまった所為で首ちょっと斬っただけじゃ死なねーし、でもって傷が塞がって起きたらお前が気絶してるし。こりゃ大変だってんで死ぬのは後回しにしてお前を俺用に割り当てられてた寮に運んでみたんだけど……お前が起きたんだからこれもオシマイ。晴れて俺はお前の望みを叶えてやれる」
 にっこりと笑った兄は絶句する雪男を尻目にその青い目で机の上に置かれた刀を見遣る。鞘から出されていないそれは兄の炎を封じ込めたまま静かにそこにあった。
「あれを抜くとさ」
 視線を刀に向けたまま兄は呟く。
「どうにも悪魔としての力が強まるらしくて、怪我も一瞬で治っちまうみてえなんだ。だから首を斬っても死ねなかった。手頃な武器だからってあれに頼るのは失敗だったな。だから」
 言って、兄は雪男がいるベッドから離れる。しかし数歩も歩かぬうちに辿り着いたのは倶利伽羅が置かれた机の隣で、雪男に割り当てられるべきもう一つの机だった。その上には雪男が祓魔師のコートの上から着ける装備品の数々が無造作に置かれており、兄はそれらの中から黒光りする鉄の塊を取り上げる。
「に、い」
 口の中がカラカラに乾いていた。嫌な予感しかしない。
 手も足も痺れて感覚が無く、ただドクドクという心臓の音だけが煩かった。
 そして兄は雪男の銃を手に取ってこちらを振り返る。右手の人差し指をトリガーにかけ、銃口を己のこめかみに当てた兄は満面の笑みを浮かべて言った。
「お前が望んでくれるなら俺は喜んで死んでやる。―――じゃあな、雪男」

 ばん。









「……兄さん?」
 血溜まりに沈んだ兄はもう二度と雪男に笑いかけてはくれなかった。







誰がを殺したの?


「それは僕」とい目をした子供が言った。







2011.10.23 pixivにて初出

神父さんの死と引き換えに助けられて、でもいきなり会った他人(メフィ)には死ねと言われて、たった一人残った家族を一人ぼっちにさせたくなくて生きる道を選んだけれど、その弟に死ねと言われて、とうとう一線を超えてしまった燐の話でした。