机の上で充電中だった携帯電話が突然激しく振動した。音無しのバイブレーションモードだけだってのに、下が硬い木製の板だとこんなにも煩いものなんだな。
 閉鎖空間が発生したおかげで久々に身体中どこも痛む所が無く、ベッドの上で雑誌を捲っていた俺はのろのろと携帯電話に手を伸ばす。コールが三回以上。メールじゃなくて電話かよ。相手は―――。
 発信者の欄に示された番号を見て慌てて通話ボタンを押す。登録も何もしていない番号は、けれど11桁もあるくせに持ち主があいつだと言うだけで俺の頭にはっきりと記憶されてしまったものだ。
 こんな時間に異父兄は何を思って俺に電話なんぞかけてくるのだろうか。訝しみながらも、はい、と声を出した。
 しかし。
『・・・・・・、』
 無言。
 電話越しに微かな息遣いが聞こえるから、人に電話をかけておいて自分は何処かに行った、という状態ではないと思うが、「古泉一樹」の仮面があっても無くても口が達者なあいつにしては珍しい。話すことがあるなら妙な間など作らずさっさと言えってんだ。
「どうしたんだよ。」
 促してみても無言が続く。それにしても、こいつの息遣いって電話越しだとこんなにもはっきりしてたっけ?
「おい、一体・・・」
『こっちに来い。』
「・・・は?」
 ようやく口を開いたかと思えば何だそれは。
『僕の部屋に、来い。今すぐだ。』
 端的な命令だけが吐き出される。一体何のつもりだ、なんて問うことはしないさ。したって意味が無い。相手の不況を買いつつも「いいから来い!」とばかりに結局何も教えられずその言葉に従うことになるのだから。
「・・・・・・・・・わかった。」
 答えた途端、プツン、と通話が途切れた。無機質に通話時間を知らせる文字が小さく液晶画面の隅に映され、それが消える前に画面を閉じて俺は急いで支度を整え始める。親への言い訳を同時進行で考えながら最後にジーンズの尻ポケットに携帯電話を突っ込んで部屋を出た。
 自転車に飛び乗り、登校する時には考えられないくらいの速さで自転車を漕ぐ。頭の中で繰り返されるのは一度0と1に変換されてから俺の耳に届いた「来い」と言う言葉。そう、急いでいるのは命令されたからだ。決して、電話越しの声が辛そうに掠れていたからなんかじゃない。


 一樹が住んでいるマンションの一室に足を踏み入れた瞬間、目の前で倒れている・・・・・人物の状態に息を呑んだ。
「お前・・・ッ!」
 扉を開けてすぐの所にこの部屋の主がぐったりとしている。俺は靴を脱ぐのももどかしく足を縺れさせながら異父兄に駆け寄った。身体を起こそうと背中に手を回せば、どろりとした生温かくて嫌な感触。
「・・・ッぃ、」
「なん、だよ・・・これ。」
 暗くて最初はよく判らなかったが、痛みに呻く一樹の左肩がどす黒く染まっていた。
 神人、なのか・・・?おい、それなら『機関』ってやつは何をやっているんだ。大事な超能力者が怪我してるっていうのに、こんな所に一人置き去りかよ。病院とか、ああとにかく何でもいい。こんな傷放っておいて良いようなもんじゃないだろう!?
 パニックになりながらも、まずは救急車だと呟いて携帯電話を手にする。ところが。
「や、めろ・・・」
 弱々しい声とこちらの手に重ねられた冷たい一樹のそれが、119番を押そうとしていた俺を止める。
 どうしてだ。『機関』がアテにならないんじゃあ一般の病院に頼るしかない。それともお前、まさか『機関』が手当てしてくれるのを断って帰って来たとか言うんじゃないだろうな。もしそれが本当なら、お前はどれだけ馬鹿なんだ。
「う、るさ、いっ、・・・手当て、なら、もう、してきた。」
「は?お前何言って・・・」
 いや、こんな問答はどうだっていい。こいつが病院の世話になりたくないのなら、俺はここで出来る限りのことをするだけだろう?それでもしどうしても駄目そうならまた考えればいい。こいつの意思に背いて身体のことを優先させるか、それとも心の方を優先させるか。
 とりあえず傷を負っていない方の肩を支えて立ち上がらせ、寝室へと運んだ。と、その時。カサリと音を立てて何かが落下。一樹が手に持っていた物らしい。しかし人間一人を支えた体勢でそれを見ることは叶わず、まずは自分よりガタイの良い男を半分引き摺るような感じでベッドに寝かせた。
 次は手当てする道具を探さなければ。その前に何を落としたのか見て来ることにする。
 玄関に戻り、手探りでスイッチを押す。パッと照明が点灯して眩しさに顰めた目が捉えたのは白い紙袋だ。外に何も書かれていないそれは病院で薬を受け取った時に貰える袋と酷似していた。もしかしてあいつが言っていたのは本当だったのか?手当てならもうしてきた、って。
 中を開ければ包帯とガーゼ、傷に塗るための軟膏、それから抗生物質・解熱剤とそれぞれ書かれた錠剤およびその用法・用量を記したメモ。これから家の中を探すつもりだったそれらにプラスアルファまで見つけ、俺は紙袋を持って寝室に戻った。
 一樹はベッドに寝かされた途端、気を失ってしまったらしい。傷の具合をみるために服を脱がせても目は閉じられたままだ。
 肩の傷は・・・ああ、本当だ。包帯が巻かれている。でもこれだけ血みどろじゃ意味ないだろ。ハサミか何かで切ればいいんだよな・・・?
 こんな大怪我の手当てなんて日常的に身につくようなものでもなく、保健体育の授業で習った応急処置を記憶の底から引っ張り出して四苦八苦しながらやれるだけのことはやってみた。出血の原因だった傷口は一応縫い合わされていたから、俺はガーゼに軟膏を塗布し、それが傷口に当たるようにして綺麗な包帯で巻いただけなのだが。あとはこいつが起きた時に軽く何かを食わせてから抗生物質を飲ませれば、俺がやれることは終了だ。
 血のついた包帯はゴミ箱へ、シャツは捨てて良いものかどうか判らなかったので水を張った洗濯機に放り込んでおいた。
 やれることをやり終えた後、長い溜息と共にリビングのソファに座ると、もうそこから立ち上がれないような気までしてくる。体力的と言うよりも精神的な所でどっと疲れたのかもしれない。
 だから、と繋げて良いのかどうか判らないが、いつしか俺はソファに座り込んだまま襲い来る睡魔にやられて意識を手放していた。


 バタン、と何かがぶつかる音で、俺の意識が一気に覚醒した。音の源に視線をやると、そこには壁に寄り掛かって荒い息をついている一樹。お前っ、なんで起き上がって来てるんだよ!
 俺がシャツを脱がせた所為で今の一樹は包帯を巻いただけの上半身裸だ。未だきっちりと白さを保つ包帯に安堵しつつも近寄って見れば額には玉のような汗。これって傷の所為で発熱してるのか・・・?
「み・・・ず、」
「わ、わかった。だからもう無理するな。幾ら超能力者だからってお前の身体は普通の人間レベルなんだから・・・!」
 俺の台詞を最後まで理解したのかどうか判らないが、熱で焦点が合っていない瞳の持ち主はとりあえず無駄に動こうとするのは止めてズルズルと壁に体重を預ける。本当はベッドに戻した方がいいのだろうが、喉の渇きを訴える一樹に応えるべくまずはキッチンへ向かった。
 冷蔵庫からペットボトルのミネラルウォーターを取り出し、手近にあったガラス製のものではなく、その奥にあったプラスチック製のコップに注ぐ。これならもし一樹がコップを落としても床にガラス片が散らばることはないだろう。なんだ俺、結構冷静に考えられてるじゃないか。それともパニックになり過ぎて逆に落ち着いてきているのか?どうでもいいが。
 コップとまだ中身が残っているペットボトルを持って一樹の元へ戻る。ほら、欲しいのはこれだろ?
 口元にコップを持って行くと、水の存在に気付いたそいつは頼りない仕草で俺が支えるコップに手を添えながら中身を飲み干した。正気の時なら絶対にこんな真似しないんだろうな、こいつは。例え自分の具合が悪かったって水の入ったコップを弾き飛ばすくらいはするかもしれない。
 呆れと苦笑が入り混じった表情を浮かべていると、また小さく「みず、」と声が聞こえた。やはりコップ一杯では足りないか。ペットボトルのキャップを開けて中身を新たに注ぐ。
 水を二杯飲んだところで一樹の渇きは収まったらしく、そこから後、俺は再び自分よりデカイ身体をベッドまで運ぶことになった。氷枕も氷嚢も見つけられそうになかったので――と言うか、この家にあるとは思えない――濡れタオルを額に乗せておくことにする。相手は意識がまだハッキリしていないようだったが、それでも冷たいタオルは気持ち良かったらしい。表情が少し緩んだ。
 それじゃあ怪我人殿も起きたことだし、次は何か胃に入れて薬を飲まさなきゃな。でも冷蔵庫には水以外殆ど何も無かったから、来る途中で見かけたコンビニまで買い出しと言うことになるだろう。財布は持ってるし、その中身も一人か二人分の飯なら買える程度にはある。週末のSOS団市内探索で寂しくなってはいるけどな。
 ちょっと出かけて来る、と声をかけてベッドから離れる。聞こえてないんだろうが、まぁ一応礼儀だからな。・・・ん?声は聞こえたのか。顔がこちらを向いた。
 ちょっと待ってろよ。何かお前が食えそうなもの買ってくるから。そのまま薬を飲ませるわけにもいかんしな。水はペットボトルをサイドボードに置いてあるから、自分で頑張って飲んでくれ。
「・・・・・・な、」
「何か言ったか?」
「い・・・な。」
 小さく掠れた声が焦点の定まらないベッドの上の住人から発せられる。寝室のドアノブにかかっていた手を放し、俺は奴の声が聞き取れるようすぐ傍で膝を折った。この距離なら聞き取れるだろう。
 異父兄の薄く開いた唇から再度音が零れ落ちる。
「いくな、」
 え・・・?
「行くな、行かないで。・・・ここに、いて。」
 頼りない表情の男が幼児のような拙さで言葉を紡ぐ。行かないで、ここにいて、と、ひたすらそればかり。いや、しかしな。まずは何か口にしないとこういう薬は効果が薄くなったり胃に悪かったりするんだぞ。でもって薬を飲まないと辛いのはお前なんだからな。
 と言ったって相手に通じるはずもなく、終いにはベッドの上からのろのろと手を伸ばしてこちらの服の裾を掴むものだから、俺は溜息を零し「行かねえよ。」と呟いた。
 お前、俺が憎いんじゃないのか?なのにどうして、そこでそんな風に安堵したような笑みを見せるんだ。
「よか、た・・・」
「っお前、」
 怪我と発熱に頭までやられたか。
「だって・・・お前、は、」
 しかもここに居るのが『俺』だってこと、ちゃんと認識出来てるみたいだし。ますますお前の思考回路が解らん。どうして自分の憎い異父弟だと理解しておきながら傍に置きたがるんだ、お前は。憎い相手でも利用できる時はとことん利用するってことか?それならさっさと俺を買い物に行かせた方が得策だぞ。
「ちが・・・。お前・・・は、僕の最後、の、」
 次に一樹が続けた言葉を俺は信じられない心地で聞いた。
「最後の、繋がり、だから。・・・僕に、は、お前しかいない・・・から・・・ッ!」
 懸命に喋る異父兄の目尻から零れ落ちた透明な液体が生理的なものだと思えるほど俺は何も解らない人間じゃないつもりだ。人間、意識が朦朧としている時の方が素直になるという話も聞いたことがある。しかし、まさかこいつがそんなことを考えているなんて、信じられるか?それとも俺はただ単に信じたくないだけなのか。異父兄を俺という憎い相手にしか縋れないくらい酷い状態に貶めた自分の罪を直視したくなくて。
「もう、僕には・・・お前だけ、なんだ。」
 やめろ。
「お前、だけ・・・」
 やめてくれ。
「僕には・・・お前、だけ・・・なんだ。    、」
「・・・ッ!」
 呼ばれたのは俺の名前。
 けれど初めて顔を合わせた時のように憎しみを込めて呼ばれたものとは違い、その声に刺々しさは無かった。お前、そこで俺の名前を呼ぶのか。二人きりの時は、愚弟、なんて呼びやがったくせに。
 そんな声で呼ばれて、縋られて。しかも相手は自分が人生を狂わせてしまった異父兄。半分だけ血が繋がっている兄弟。そんな人間から、俺がもう離れられると思うか?
 伸ばした手。これは決して愛情なんかじゃない。自分の罪の象徴に求められたがゆえの応答。・・・ああ、でも結局はどちらでも構わないのかもしれないな。離れられないのが罪悪感のためであっても、肉親に対する情であっても。どちらでもいいんだ。結果は同じなのだから。
「一樹、」
 名前を呼んで熱い手を握る。
 そう。感情がどうであれ、俺達がやることは一緒だ。俺達は互いに依存している。一樹は繋がりを求めて。俺は苦しみから逃れるために。
 なあそうだろう?・・・一樹、兄さん。












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四方を囲む壁は鋭い棘を持つ茨で覆われ、指一本でも触れれば大きな痛みを伴って血が流れる。
だから俺達は望む望まぬにかかわらず牢獄の中央で肌を寄せ合い、その棘から身を遠ざけようとするのだ。
決して、想い合っているわけじゃない。触れ合いたいから触れ合っているわけじゃない。


そう。ここは、


茨の牢獄a jail of thorns



(牢獄のような世界から逃れるための道は『死』だけ。それすら、神様が許してくれたならの話だが。)









(2007.10.13up)



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