地面に膝をつき、■の体を抱き上げると、僕の手は真っ赤に濡れた。

 ―――ザザッ(ノイズが走る)

 至る所に裂傷が生じ、しかも右腕がおかしな方向に曲がっている。足の方は見る勇気さえ起きない。しかしこの腕と似た状況であるような気がした。目は眠っている時のようにゆるく閉じられているが、開く気配はない。ぐったりと僕の両腕に体重を預け、生々しい傷跡から鮮血を滴らせていた。

 ―――ザザッ(ノイズが走る)

「なんて顔してんのよ。馬鹿じゃないの?ねえ、貴方が今抱き締めてるその人はね、貴方の所為でそうなっちゃったのよ。貴方が■■■をそこまで苦しめたの。・・・どこまでやれば気が済むの?私達を、■■■を、どこまで傷つければ、貴方は気が済むの!?」

 ―――ザザッ(ノイズが走る)

 血に濡れた頬に手を当てて語りかける。
 朦朧とした意識のまま■はようやくこちらに焦点を合わせ、小さく笑みを浮かべた。

 ―――ザザッ(ノイズが走る)

「ほら、泣くなよ。」
 そして、■の手が落ちた。






神  は  ノ  イ  ズ  の  夢  か  ら  醒  め  る  か

-1-






「嫌だっ!!」
 伸ばした手はくうを掴む。今がまだ暗い夜明け前なのだと気付いたのはうるさく脈打つ心臓のペースが徐々に落ち着き始めてからだ。
 じっとりと汗で湿った寝巻に不快感を覚えながら僕はベッドの上で伸ばしたままの腕に視線を向けた。
「・・・あ、れ?」
 夢を見ていたのだろうか。
 伸ばしていた腕を引っ込め、その手で胸元を掴む。拳の下の心臓が痛い。
 思考は不安でいっぱいだった。けれど自分がどんな夢を見たのか覚えていない。当然、覚醒と同時に叫んだ言葉の理由さえ。
 ただとてつもない喪失感と後悔だけが残っていて、だから酷く苦しくて。何かをしなければいけないような気がするのに一体何をすれば良いのかわからなかった。


 それは、僕が北高に転入した翌日未明のことだった。



□■□



「・・・ッ!!」
 突如全身を貫いた不快感に飛び起きる。
 これは俺達の『神様』が不安定になっている証拠だ。
 無理矢理覚醒させられた身体は、しかしこの三年間で慣れきってしまったために素早く次の行動に移る。本来寝起きの悪い俺もこういう時だけはそれが嘘のようにサクサクとベッドから起き上がれるのだ。
 服を着替えながら対象の精神状態を詳しく調べる。・・・ああ、このままだと確実に閉鎖空間発生だな。組織に連絡して車を回してもらうか。短縮の1っと。
 昨日、神こと古泉一樹が予定通り俺の通う高校に転校して来た。その当日に涼宮ハルヒが彼を捕まえてSOS団に入団させるなんてことは予想していたりいなかったりだったのだが。しかし実を言うと"予感していた"と表現すべき感覚があった。無理矢理入団させられる可能性は団長である彼女の性格から十分考えられるものなのだが、だからと言って100%古泉が転校初日に連れて来られるわけでもないのに、俺は彼が絶対やって来ると文芸部室で確信していた。まるでそれが規定事項だと言わんばかりに、だ。まったく、なんでだろうな。
 と、色々回想している間に準備完了。時間が時間なので(夜明け前だぞ。彼は悪夢でも見たのか?)登校のことも考えた上で制服を着込んでいる。床に寝かせていた鞄を持ち、一階のダイニングテーブルに「アルバイトに行って来ます。そのまま学校に向かうかも知れません。」とメモを残して家を出た。タイミングよく、家の前に車が横付けされる。
「おはようございます。」
 一応挨拶して後部座席に乗り込んだ。運転手の男性から会釈が返ってきた後に目的地を告げると、まだ殆ど眠った状態にある住宅街を車が静かに走り出す。
 ふと無意識のまま胸に手をやる。しかしそこには掴むべき物など無く、空気を掴むだけに終わった右手を俺は唖然と見下ろした。なんでこんなことをしたんだろうか、俺は。装飾品の類なんて普段からあまり着けない性分なのに。しかも今は制服姿だぞ?余計に有り得ん。
「・・・ホント何やってんだ。」
 呟き、虚しくなった手で頭を掻く。
 しかし何とも表現しがたい喪失感が残ったのは一体どういうことだ?まるでそこに何か在ることが当然と言わんばかりの自然な行動だった。これも神様に影響された所為なのかと考えてみるが、確か古泉が常日頃から肌身離さず身に着けているような装飾品は無かったと記憶している。つまり彼に引き摺られたわけでもないということだ。
 縋る物を探しているということは俺にも何か不安があるということか。まあ、不安があると言えばあるが――例えば超能力者になったあの時から俺の中には俺や仲間がいつ死ぬか判らないという不安がある――、大抵のものは何か形あるものに縋らなくとも耐えられるようになっている。とすれば最近のことに関して、か・・・。古泉一樹が転校してきた所為で緊張でもしているのだろう。
 今度、アクセサリーの一つでも買ってみるか。比佐か水井あたりに訊けば良い所を知っているかもしれん。
 物に縋るという癖はあまりつけない方が良いのだろうが、何も無いことに喪失感を覚えるよりはマシだろう。
 手持ち無沙汰のまま携帯電話を弄り始め、俺は徐々に明るくなっていく東の空を窓の中からぼんやりと見上げた。


 チャリ、と鎖が鳴る。
 その発生源に目をやって俺は苦笑した。
 現在、俺の首に掛かっているのはクロスのペンダント。今朝の神人退治が終了した際に同じ超能力者の水井から譲り受けたものだ。
 手頃な値段でアクセサリーの類を買える店は無いかと同胞達に問うたところ、ちょうど首に掛けていたそれを水井が譲ってくれたわけなんだが・・・何故俺と同じく登校前のお前がそんなもの着けてんだよ水井。それと水井がこれをくれた時、芳養がエラい大きな舌打ちをかましてくれたんだが、あれはどういう意味だったんだろうな。
「今日はこのまま学校に向かいますか?」
「あ、はい。少し手前の、生徒の目に付かなさそうな所で降ろしてください。」
「わかりました。」
 運転手に話しかけられて咄嗟にそう返す。
 俺は今、閉鎖空間から帰る途中であり、車に乗ってこのまま学校に行くところだったのだ。
 思った通り、神人を倒して事後処理をこなした後にはすでに太陽が顔を出し切っており、いったん家に帰るよりも車で送ってもらった方が都合は良かったのである。まあ遅刻せずに済む代わり、帰りは徒歩になっちまうわけだが背に腹は変えられん。限定的超能力者とは言え俺も一介の高校生なのだから、出席日数は大事だ。
 チャリチャリと鎖を鳴らしながらクロスを弄ぶ。これでワケの分からない喪失感も治まるだろう。きっと。
 しかしそう安堵する一方で、俺は不思議な違和感を感じていた。何と言うか・・・"違う"のだ。首に掛けていれば何でも良いと思っていたのだが、こうして実際に首から掛けて弄ってみるとどうもしっくりこない。譲ってくれた水井には悪いが暫らくしてもこのクロスに慣れないようなら自分で買いに行くのも一つの手だろう。
 しかしどうしてこんな違和感なんてものを感じちまうのかね、俺は。それ程繊細な人間じゃなかったような気がするんだが、実はそうでもなかったということか?ま、考えても仕方が無いことなんだろうけどな。
「着きましたよ。学校、頑張ってくださいね。」
「ありがとうございます。」
 弄っていたクロスを制服の中に隠す。地肌に触れるヒヤリとした金属の冷たさを感じながら車を降り、鞄を持って歩き出した。背後で車が走り去るエンジン音を聞きつつ角を曲がる。道一本違うだけで案外人通りは少なく、その静かな道を少し歩くとガヤガヤと少年少女の声が聞こえてきた。「おはよー!」と爽やかな声が聞こえる辺り、実に平和的な高校生の朝って感じがするね。俺は既に一仕事終えてきた後だけどな。
 あはは。別に僻んだりしてるわけじゃないぞ。
「よーっすキョン!今日もダラけた雰囲気だしてんな!」
「そう言うお前は今日も元気だな。」
 答えた相手は谷口だ。
 こいつ、思いっきり俺の背中叩きやがって・・・。少しは加減してくれ。今日は平気だが背中に傷つくって来る日もあるんだからな。
「ん?どうした。なんか言いたそうな顔して。」
「なんでもない。ただ寝不足気味なだけだ。」
「ほほ〜う。どうせ昨日は遅くまで秘密のお宝でも拝んでたんだろー?」
「お前と一緒にするな。」
 これでも淡白な方だ。
「またまたー。俺達友達だろ?隠すなって!」
「お前な、いい加減にしないと・・・」
「おはようございます。」
 背後から聞こえた第三者の声。
 俺と谷口が振り返るとそこには(容姿が)平均的男子の代表格とも言えそうな俺達にとっては思いっきり僻みや妬みの対象となりそうなイケメンが如才ない笑みを浮かべていた。
「古泉?」
「ええ、昨日ぶりですね。」
「キョン、知り合いか?」
「昨日転校して来てその当日に涼宮が連れてきた団員だ。」
「団員?・・・ああ、お前が連れこまれたあの部活か。」
「まあそうだな。」
 サンクス古泉。お前のお陰で谷口のシモ的会話から脱却することが出来たぞ。
「ふーん。じゃ、俺ちょっと先に行くわ。今日日直なんだよなー実は。」
「・・・?おう。」
 今日の日直はあいつじゃなかったような気がするんだが・・・。もしかして同じ部活(しかもヘンテコ)に所属したばかりの者同士、この通学路で少しでも親睦を深めておけという気使いだろうか。そんなもん谷口のやつに出来るとは思えんのだがな。
 まあいい。下手な発言――主に涼宮ハルヒ関連、もっと詳しく言うと神に気に入られた少女に対する悪口とかな――をされるよりずっとありがたい。
「お邪魔してしまったようですね。」
「いや、そんなことないぞ。実を言うとあいつの下ネタに少々辟易してたところだったからな、助かった。」
「っ、そうですか?」
「ああ。」
 ん?なんかマズった?
 もしかして俺の笑顔がキモかったのか。そんなこと無いとは思うんだが・・・。
 マジで古泉の登場はありがたかったのでついつい顔が緩んでしまったのだが、もしかすると失敗だったのかも知れない。まあ、昨日会ったばかりの野郎に笑顔で話しかけられたりしたらやっぱ引いたりするもんなのかも知れんしな。ひとまず古泉本人がいつも笑顔なのは脇に置いておくとして。(なにせ仕事で笑っているわけだし。)
 その後、古泉の精神にちらりと現れたノイズに似たものを不思議に思いながらも普通に『キョン』として接しながら俺達は学校に向かい、靴を履きかえるために玄関で別れた。
 そうそう。教室に入ると谷口が随分とイイ笑顔で迎えてくれやがったな。「おい、どうだった?」と今にも訊いてきそうな勢いだった。とりあえず「お気遣いどうも。」と言えばジュース一本!と返してきた。その頭を軽くはたいて昼まで待てと答えたんだが、少し驚かれた後に返ってきたのはガッツポーズ。なんだかなぁ。別に奢らなくても良かったのか?本当にお前は何がしたかったんだよ谷口。



□■□



 驚いた。彼があんな顔で笑いかけるから。
 表情は設定された古泉一樹を保ちながらも僕は常より速く鼓動を刻む心臓に戸惑っていた。
 彼と玄関で別れてから靴を履き替えて教室に入ってもそれは収まらず、機関仕込の演技力がなければ少々拙いことになっていたかも知れない。
 今朝、夢見が悪く飛び起きてからずっと、僕は心に穴でもあいたかのように言いようもない喪失感を感じていた。その理由も、ましてや夢の内容さえ分からなかったのだが、登校しなければならない時間になるに従ってそれは一応徐々に薄らいでいった。
 特に、軽いハイキングコースと言える坂道の途中、機関がその存在を『鍵』と位置づけている彼の背中を見つけた時には未だ微かにわだかまっていた喪失感は一気に消え去ったような気がした。
 思えば、既にその辺りからおかしかったのだろう。
 どうして昨日顔を合わせたばかりの人間を見かけて安堵しなくてはならないのか。幾ら事前に写真つきの書類でどんな人物なのか知っていても、例え神の『鍵』であっても、僕は同性同年代の背中を見かけて安心するようなタイプではない。
 しかし僕は実際に彼のダルそうに坂道を登る背中を見つけて安堵し、それどころか彼の隣に居る存在に嫉妬した。そう、嫉妬したのだ。だからこそそのまま気付かぬ振りをしていれば良かったのに、わざわざ前を歩く二人の会話を邪魔し、あまつさえ彼の友人が居た場所を奪ってしまったのだ。そこは僕の場所だ、と。
 そして、彼の笑顔。決定打だった。
 調査書の写真ですら「笑顔=皮肉げなもの」ばかりだったのに、目にしたのは自然と浮かんだ優しく嬉しそうなもの。
 これが神に選ばれた理由かとまで思った。
 跳ね上がる鼓動と充足感、それに付随する戸惑い。解ったのは今朝の喪失感が彼に繋がっているということ。おそらく僕の喪失感は彼がいることによって埋めることが出来る。それどころか彼がいないこと=喪失感を覚えるということなのかも知れない。
 原因は彼が『鍵』であり僕らの神の安定に深く係わっているからか、それとも彼独特の何かがあり僕がそれに惹かれているからなのか。今の時点で判断することは出来ないが、とにかく僕は彼に他とは違う特別さを見出した。
 不快感は無い。それが当然のことであるかのように。
 まるで、昔からそうなることを知っていたかのように・・・。
「まったく、おかしなこともあるものです。」
「どうした古泉?」
「いいえ。何でもありませんよ。」
 昨日からクラスメイトになった男子生徒に微笑んで僕は席に着く。
 向けられた本人には判らなかっただろうが、久しぶりに出た自然な笑みだった。








「noise-fragment h・i・j」の影響で6回目以降のシークエンスでは「彼」よりも「古泉」呼びの方が多くなっています。
ただしキョンは無自覚。
また、『組織』内で古泉の話をする時や古泉を思い出す時は「彼」呼びが基本。
古泉が最初からキョンを気に掛けているのも、一部、それまでのシークエンスの影響です。

谷口がキョンとの会話中(朝)、先に行ってしまったのは神様パワーの所為・・・かも知れない。

(2007.08.21up)