神  は  ノ  イ  ズ  の  夢  を  見  る  か

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「キョンっ!どうして昨日無理して学校来たのよ!こんな風にこじらすんなら、あと一日きっちり休めば良かったのに!」
 病室のドアを開けて第一声。ハルヒが放ったそれは見事に俺の鼓膜を激震させた。
 つーかハルヒさん、ここ病院だから。個室だけどドア開きっぱなしだし廊下歩いてる看護師さんがすっげー嫌な顔してるんじゃありません?だから抑えて抑えて。あと俺の頭痛のためにも音量ダウンお願いします。ハッキリ言ってヤバイんです。
 と主張したかったのだが、生憎現在の俺は昨夜からの発熱にハルヒの大声そして勢いよく開かれた扉による衝撃音のコンボ攻撃でベッドに深く沈むほか無かった。長門・・・はたぶん何も言わないだろうから、朝比奈さんか古泉、ハルヒにちょっと言ってやってくれ。流石の俺でも今はダメだ。
「涼宮さん、ここは病院ですからもう少し声を控えめに・・・」
「わかってるわよ!でも団員がこんなんじゃ抑えたくても抑えられないっての!!」
 朝比奈さんはハルヒの剣幕に引いてしまってオロオロするばかり。ゆえに消去法によって古泉がハルヒを止めに入った。しかし結果はこの通りであり、古泉はせめてもの対処として病室のドアを閉めることにしたようだ。いつもの微笑みにほんの少しばかり苦いものが混じってるな。
「もうっ、本当に・・・あんた何でこんな無茶するのよ。熱出して入院だなんて。」
「・・・正確には熱でフラついて転倒して怪我したからなんだけどな。」
「そうそう変わんないでしょうが!じゃなくて。キョン、頭の方は大丈夫なの?」
 ハルヒが俺の頭部に視線を向けて眉間に皺を寄せる。「頭、大丈夫か?」と訊かれたならばかなり不本意かつムカつくものであるが、彼女の台詞と視線が意味しているのは俺の頭に巻かれた包帯とその下に隠れている裂傷に関するものなので、怒る必要は無い。
 俺の状態がどんなものか、またどうしてそうなったのか、ということについてハルヒになされた説明は、俺が家で療養中にふらりと倒れ、その時に頭をぶつけて側頭部に傷を負ったというものだ。昨日、風邪を完全回復させて登校したはずの『俺』は、実は表面上そうであっただけで、無理して学校に来たために病気を悪化させ本日欠席という設定になっているのである。
 ということでSOS団のメンバーは「無理して学校に来た馬鹿者」兼「転んで怪我したドジっ子」である俺を見舞うためにここに押しかけて来たのだ。
 お分かりかと思うが、勿論ハルヒ達に知らされているそれは嘘である。神人退治で負傷し、そのために発熱してこんな場所に閉じ込められていると言うのが真実。しかし本当のことを知らせるわけにもいかないし、また理由も無しに何処にいるのかさえ明かされないままだとハルヒの、そして結局は連鎖して彼の機嫌が悪くなる。だからそういう設定を作り、学校経由で情報を流したのだ。俺の目に見える分の怪我と発熱に関する事象をカバーした嘘を。(流石に転倒しただけで頭部の裂傷以外にも肋骨が折れていたり出血していたりするわけもなく、それら服の下に隠れるものについては秘密にされている。)
「怪我も熱も大したことはないんだが、母親がちょっとばかり慌てちまってな。・・・ほら、やっぱ頭打ったから精密検査も必要だろうって。」
「それならいいんだけど。・・・まったく、この前から貧弱すぎるわよキョン。もうちょっとあたしや皆を見習って健康的な生活を送りなさい。昨日は『あと一日でもSOS団の活動をサボろうものならペナルティを増やす』とか言っちゃったけど、それも無しにしてあげるから、今度こそきっちり治して登校しなさいよ!団長命令!!」
「了解です、涼宮団長。そのご命令、厳守いたします。」
「よろしい!」
 ノリノリだな、俺。もしかして熱で頭やられたか?もしくは薬使いすぎてどっかイカレたとか。
 でもその対応は案外間違っていなかったらしい。
 朝比奈さんの心配そうだった表情がふわりと花がほころぶように緩み、彼の微笑も通常通りのものに落ち着く。長門は相変わらずの無表情だったが、それでもどことなくピンと張っていた雰囲気が和らいだような気がした。でもどこか良くないものを感じるのは、それだけ長門が俺を心配してくれている証拠なのだろうか。だとしたら嬉しい。本心から。
 で、ハルヒは言うに及ばずだ。まだ少しは俺を心配しているようだが、それでも90%くらいは通常モードに移行している。ちなみに残りの10%のうち5%は、俺が調子に乗って返事したことによる異様なテンションの上昇だ。ハルヒは俺が真正面から対応したのが嬉しかったらしい。しかも先刻まで心配していたためにその喜びもいつもより何倍かに高まっているようだ。
 いや、あんまり喜ばれると神様からの嫉妬が恐いんだが。これくらいは許してくれるだろうか。・・・うん。どうやら大丈夫なようだ。ハルヒの超笑顔が俺に向けられていても彼の内面はネガティブな方向へ走ったりはしていない。
 それからしばらくの間、俺はベッドの上、他はそれぞれ思い思いに椅子に座ったり壁にも垂れたりしながら雑談タイムとなった。
 俺が病院にいると聞いた時はてんやわんや(主にハルヒと朝比奈さん。しかしその時俺は彼の精神的安定が僅かに揺らいだことを察知していたので、おそらく彼も少しは動揺したと推測する。)だっただの、はたまた今度の休みはどこへ行く予定だの、鶴屋さん主催のパーティー(らしきもの)に御呼ばれしたからSOS団全員揃って正装で向かうだの、そんな話がとりとめもなく続いた。
 話し手は主にハルヒだったが、決して要領を得ているとは言えない部分においては古泉が説明を加えたり、また鶴屋さんとご友人である朝比奈さんがハルヒからの問いかけに答える形で色々話してくださったりして賑やかで楽しい時間だったと思う。それは俺だけじゃなく、他の四人も同じはずだ。
 しかしそんな会話も病院の面会時間という一種の区切りによって終了となった。
 看護師さん達に追い出されるギリギリの時間に彼らは病室を去り、俺はまた一人この部屋でベッドに寝転がる。もう今日は病院と組織の関係者を除く誰かと顔を合わせることも無いだろうし、やや副作用が心配される強力な痛み止めを使う必要も無いだろう・・・と思いながら目を閉じた。
 すうっと眠りに入るような感覚で意識を集中させる。もしくはリラックスさせると言うべきなのだろうか。少々説明しにくい感覚だ。
 とにかく、そうすることによって普段生活しているよりももっと鮮明に彼の内面を窺うことが出来る。本来ならこんなことをせずとも、俺が働かなければならないような事態に陥る前触れらしきものならば知りたくない時でも感知することが出来るのだが、今回は俺自身が入院しちまったこととハルヒが俺に向けた笑顔という二点によって、より詳細に調べておこうと思ったのだ。
 もし何か異変があれば組織の誰かにフォローしてくれるよう連絡を入れようと思う。流石に今の状態で閉鎖空間に出向くのは危険だと感じてるんだよ、俺も。だからなるべく発生しないように慎重な姿勢が必要なのだ。
 ・・・と、思っていましたとも。しっかりね。
「でもなあ。いきなりそこまで不安定に陥っちまうってのは些か詐欺だと思うわけなんだが・・・どうよ?」
 真に残念ながら、彼の閉鎖空間が発生です。
 不機嫌度は閉鎖空間がギリギリ発生するくらい。空間の拡大速度もかなりの鈍足。これなら神人も動きの鈍いのが一体程度だろう。しかしまあ、本当に何があったんだ。
 うお、携帯が鳴ってる。はいはい解りましたよー。出動しますって。
 つーわけで。
 四連続勤務決定となった俺は己もすぐに向かうという意思を返信して、いそいそと外出の用意を始めた。



□■□



 今日。本当のところ、昨日のことがあって文芸部室に向かうのは少し億劫だった。
 彼と秘密の約束を交した数週間は僕と彼の仲をいくらか近づけてくれたように感じていたのに、彼が僕の手を必要としなくなってしまったあとは酷く虚しい感じがして、しかも彼の付き合いも少し悪くなり、悶々とした日々を過ごしていた。そんな中、久しぶりに部室以外で彼と会うことが出来て(とは言っても部室へ向かう途中だったのだが)、僕は少々浮かれていた。だから彼の気に障るような発言をしてしまったのだろう。冷たくあしらわれたことに胸が痛み、混乱した。そして明日も冷たくされたらどうしようと思った。だから会いたいのに会いたくなかった。
 しかし涼宮ハルヒの機嫌を損ねてはならないという強迫観念に近い何かと最早習性のようになってしまった「放課後は部室へ」という行動意思は僕の足を問答無用に進ませ、扉をノックさせるにまで至った。
 朝比奈みくるの返事を聞いた後、ドアを開けると女性二人だけ。涼宮ハルヒと彼の姿が見えず、二人一緒に来るのだろうかと思い至って、彼の姿が無かったことに対する安堵と共に微かな黒いものを感じた。これの正体は判っている。
 分不相応な感情。嫉妬だ。僕から、彼女に対する。未来人も宇宙人も、そして超能力者も、誰もが求めて止まない手を独り占めにしてしまう神に対するもの。
 けれどその感情は神本人が良くない精神状態のまま部室の扉を壊さんばかりに開き、それと同時に発した台詞によって別のものに塗り替えられた。
 彼が入院したのだと言う。
 機関からはそんな情報は知らされていない。何故だ。・・・そう思う前に僕は他の団員と共に彼が入院する病院へと急いだ。


 病院に着いて彼の様態を確認すると、ほっと安堵の息を漏らすことが出来た。それほど大したものではないらしい。良かった、と胸を撫で下ろす。
 その後はわいわいがやがやと学生らしい会話を続け、僕も随分楽しむことが出来た。たまに涼宮ハルヒから視線を外して僕の方を窺ってくる彼の仕草を嬉しく感じながら面会時間終了まで微笑んでいた。
 しかし帰宅の途につき、他の三人と別れて一人歩いていた時、僕はふと思い出したのだ。
 昨日の僕の失態を彼は本当に許してくれたのだろうか。
 病室での彼は、主に涼宮ハルヒと話していた所為もあって僕に笑みを見せてくれることは無く、窺うような視線を少し寄越しただけ。その時の僕はただその事実に喜んでいただけだが、それは本当に喜ぶべきものだったのだろうか。その視線には彼の負の感情が微かでも混じっていなかっただろうか。
 そう思うと不安で仕方なかった。
 もし許してもらえていなかったら。・・・僕はまだ彼に謝罪の言葉を告げていないのだ。有り得ないわけではない。
 ぴたりと歩みを止め、その場に立ち止まる。
 どうしよう、どうする?あの様子では、彼が明日学校に来ることはない。すると放課後は団員全員で彼の病室に行くのだろう。だから僕と彼の二人きりになれる時間は無い。と言うことは、彼が怒っているのかどうか確認することが出来ない。
 そこでふと気付いた。
 そうだ。携帯電話で連絡すればいい。機関に「彼の入院に関して何故僕に知らせてくれなかったのか」と問い質す必要もあったし、そうなればさっそく彼に連絡を―――。
 と思い鞄を漁ったのだが、目的の物が出てこない。
 制服のポケットも鞄の中も全て探したが小型の便利機器は姿を見せなかった。
「・・・病室に置いてきたかも知れない。」
 学校を出る時には持っていたはずだから、忘れたとするとあの病室だけだ。
 忘れ物を取りに行くという理由があればまたあの部屋に行ったとしても許されるような気がして、僕は急いでもと来た道を戻る。病院の受付で忘れ物を取りに来たこととその部屋番号を告げて入室の許可を貰い、彼の病室がある病棟の五階へと向かった。
 しかしそこで僕が目にしたものは。
「・・・・・・・・・え?」
 僕達が帰る時も開きっぱなしだった窓と風に揺れるカーテン。
 サイドボードの上に置かれた花瓶の陰に隠れている僕の携帯電話。
 まるで急いでいたとでも言うように脱ぎ散らかされた彼の部屋着。
 そして、空っぽのベッド。
 目に付いたのはそれだけ。
 この部屋にいるはずの人物がいなかった。
 ふらふらとベッドの傍により、シーツに手を乗せる。まだ温かい。それはつまり、彼が先程までここにいたということ。僕達が部屋を出て、それから僕が戻ってくるまでの決して長くはない時間の間に彼は着替えてこの部屋を出て行ったのだ。
 ジュースやお菓子を一階の売店に買いに行ったのならそれでいい。しかしそれならわざわざ着替えたりするだろうか。答えは十中八九、否。
 先ほど道を歩きながら感じた不安よりももっと大きな圧迫感が胸を襲う。
 彼のいない部屋に取り残されて、この白い空間に押し潰されそうだった。




□■□



 場所は閉鎖空間。対峙する神人は鈍いのが一体。
 これならそれほど苦労せずとも倒せるだろうと皆で頷き合い、さっそく対処に取り掛かった。
 しかししばらく経った頃、『彼』の精神が大きく揺らいだ。この感情の名前は「不安」だ。彼が何かとてつもない不安に曝されている。
 それを感知したのと同時、閉鎖空間の拡大速度が一気に上がり、ずっと鈍かった神人の動きも俊敏になった。いや、それどころか二体目、三体目の出現を確認。
 俺達も直ちに作戦を練り直し、迅速な対応をとるべく動き出す。
 だが、強力な神人と少ない人数、そんな中で思うように動けない俺、加えて閉鎖空間の拡大スピード上昇というプレッシャーに、俺達は些か焦っていた。そして最近連続して起こった閉鎖空間の対処によって思った以上の疲労を蓄積させていた。
 もちろん俺達に敗北と言う二文字は許されていなかったが。
 さて、その結果は―――。



□■□



 携帯電話を握り締めたまま病院を出る。
 急速に熱を失っていくあの部屋にはどうしても長居することが出来なかった。
 無意識に足は家への最短距離ではなく回り道をする形で進路を取り、僕はおぼつかない足取りでアスファルトの上を歩いていた。
 まるで何かに引き寄せられるように足は進む。知ってはいるが、あまり通らない道。そこを歩むたびに徐々に顔が下を向いていった。思考はもう殆ど動いていない。ただ不安だけを感じていた。
 彼の怪我、どこか忙しそうで冷たく感じられた彼の態度、温度の無い声、窺う視線、真っ白な部屋。
 それらが次々にフラッシュバックして負の感情だけが増大していく。これが涼宮さんだったら僕達機関の人間は大変なことになっていたでしょうね、と苦笑してみたが、気休めにもならなかった。
 どれくらいそうしていただろうか。
 すぐ近くから数人の話し声が聞こえ、僕は思わず立ち止まった。
 ひそひそ話とまではいかないが、普通に話す時よりもいくらか控えめな音量で交される会話に、何となく聞いてはいけないような気がしてくる。
 発信源はこの角を曲がった辺りだろうか。
 人通りの少ない路地で少数の人間――そしておそらく僕と同じくらいの年頃の――が声を抑えているという状況は、聞くべきではないと頭で考えつつも聞きたいという欲求を芽生えさせるには十分だったようだ。それとも、これもまた何かにそうするよう導かれたと言うのだろうか。病院からこの場所まで歩いてきたのと同じように。
 かくして僕は嫌な光景のフラッシュバックを脳裏から追いやるかの如く、曲がり角ギリギリまで近づいて聞き耳を立てた。息を潜め、相手に気付かれないように。
「大丈夫?」
「まったく、無茶しやがって・・・!」
「たまには俺達にも任せろっつーの。お前にばっか頼っちまうわけにはいかねーっしょ?」
「おいコラ、笑うな。お前のこと心配して言ってやってんだから。」
 声の主は四人。女一人に男三人か。そして会話から推測するに最低あと一人はいる。どうやらその一人が周囲に心配されるような状況に陥って、残りがそんな一人――便宜上「彼」としよう。「彼女」でも構わないが何となく――の様子にヤキモキしていると言ったところか。その彼・・・普通に考えると怪我でも負ったのだろうか。しかしこんな所で?それとも別の所で怪我をして、今はこの場所で立ち止まり会話しているとか。
 そう考えていると、その「彼」がようやく声を発した。
「すまん。でも、今回も俺の所為かもしれないし・・・。」
 あれ?
 どこかで聞いたことがあるような・・・。
 ふと聞こえてきた声に違和感を覚える。しかし当然のことながらその問題が解決せずとも彼らは会話を続けていて、やや不鮮明な話し声が僕の耳に入ってきた。
「にしても今回はまたヒネりの効いたやつだったな。」
「途中から強くなるし、数も増えるし。しかも空間の拡大速度だって・・・」
「彼・・・に何かあったんだよね?」
「だろうな。まさか"お気に入り"にでもフラれたとか?」
「それは違うと思うぞ。病院からの帰り道だと全員一斉解散するのが普通の道順だし。」
「さすがご近所さん。この辺のことはよく解ってるな。」
「プラスして監視者だしね。」
「まあな。」
 会話の所々で「何の電波だ。」と問い質したくなるような単語が混じる。しかし僕自身もまるで電波話のような世界に足を突っ込んでいるので一概に彼らを頭の可笑しくなった集団だと決め付けるわけにもいかない。むしろ僕達『機関』と同じような雰囲気を感じてしまい、その有り得なさに戸惑った。
 本当に、会話を聞けば聞くほど閉鎖空間での仕事を終えた直後の僕達のよう。そう気付いた瞬間、鼓動が早くなった。
「四連続、だよね・・・。次はもうしばらく後がいい。」
「希望が叶うかどうかは、まさしく『神のみぞ知る』だな。何なら祈っとくか?"彼"に。」
「やめてよ。私達をこんな目にあわせてくれちゃってるのに?」
「怒んなって。冗談だから。」
「そーそー。あ、むしろ"彼女"に祈っといた方がいいかも?」
「そのネタはもうそろそろ止めとこうぜ。」
「そうだな。・・・うあー。でもホント、もうしばらくは閉鎖空間とも無縁でいたいもんだ。」
「私も。神人って光ってるから綺麗だけど、ぶっちゃけるまでもなく厄介な敵だしね。」
 閉鎖空間。神人。
 その二つの単語で彼らの役割を確信すると共に、僕の鼓動はピークに達し、身体がすっと冷えるような感覚に襲われた。
 彼らは何だ。僕と同じ超能力者か?
 しかし涼宮ハルヒの閉鎖空間は確認されていないから、僕と全く同じというわけではないだろう。ならば敵対組織か何かか。涼宮ハルヒ以外の個体を神と称する組織も無いわけではないのだし。
 緊張で手に汗が滲む。下手に敵対組織とぶつかってしまえばこの身も危うい。これはもしかしなくても早々にこの場を立ち去った方が良いのかも知れないな・・・。
 そう思い、踵を返す。
 と、その時。突然人一人分が崩れ落ちる音とそれを慌てて抱き止めるような音が聞こえてきた。同時に、耳を疑って振り返ってしまうような呼称も。否、「振り返ってしまうような」ではなく、僕はその呼び名を聞いて完全に振り返った。
「っと、」
「キョン!?」
「キョン、しっかり!!」
「キョン君!」
 そんな・・・。嘘だろう?
 聞き間違いじゃ無いのか。崩れ落ちたその「彼」は、ジョンでもヨンでもなく、キョンであると・・・?
 何度も心配そうに呼ばれる呼称が鼓膜を叩き、脳を揺さぶる。聞き間違いだと思いたくとも同じ呼称が繰り返されるものだから否定は出来ず、むしろ脳裏に浮かんだたった一人の映像がより鮮明さを増すだけだった。
 本当に「あなた」がそこにいるんですか。病室から消えた「あなた」が。
 いや、でも。キョンだなんてあだ名が彼だけのものであるとは限らないし・・・。ああ、けれど声が。聞こえた声と珍しい呼称と脳裏に浮かんだ映像が結びついて離れない。たった一人しか浮かばない。
 意を決して覗き込む。すると見知った背中が見え、その傷ついた身体が誰かに支えられて立っていた。
「悪い。ちょっと・・・腕、貸してくれ。」
「まさか傷口が開いたんじゃ!?」
「それもある・・・けど、マジ痛い。」
「痛み止め持ってるか?」
「ジャケットの右ポケット。」
「・・・あ、あった。使うぞ?」
「頼む。・・・・・・っ、」
「おまっ・・・!なんでこんなんで平気な顔できるんだよ!?」
「ごめん。キョン、ごめん。あの時私がミスったから。私なんかを庇って・・・!」
 衣服の下に隠れていた怪我の様子を見て息を呑む青年と自責の念に囚われる少女に対し、彼が苦笑を浮かべる。
「ばーか、何言ってんだよ。・・・俺達、たった五人の仲間だろ?」
 仲間、と言った時の声は優しく思いやりに満ちていた。
 たった五人の仲間。
 彼が僕らにではなく彼らに対して使うその言葉―――。
 唇を噛み締め、拳を握る。
 腹を立てているのか悲しいのか判らなくなってしまった。戸惑いを凌駕した激情が身体の中で荒れ狂っている。彼にそう言ってもらえるのは僕達ではなかったのか?僕達SOS団が彼の仲間だったはずじゃないのか?
 なぜ彼がこんな所でこんな状況に陥っているのか考える前にただ悔しさや悲しさが思考全体を占めてしまい、目頭が熱くなる。僕の知らない誰かの腕に支えられてやわらかな雰囲気を纏う彼へと今にも怒鳴り散らしながら駆け寄りたくなる。
 そんな顔しないでください。他人に見せたりしないでください。誰かの腕を借りて微笑まないでください。優しい声を出さないでください。・・・その人達ばかり見ないで。
「僕を、見てください・・・!」
 殆ど音にならないような声で呟いた瞬間、彼らの雰囲気が変わった。
 だが、こちらの存在がバレたわけではないらしい。
「ちっ!」
「冗談だろ!?」
「う、そ・・・。」
「またなのかよ。」
 ざわりと嫌な物を感じたように緊張し、或いは戸惑い、そして「彼」は仕方なさそうに笑う。
「今日はまた随分とご機嫌ナナメみたいだな。彼は。・・・それじゃ、行きますか?」
「っ、ダメ!ダメだよキョン!私達で何とかするからっ!」
「お前はさっさと病院に帰れ。もう無茶するな。」
 支える腕から抜け出して彼が歩き出すとすかさず静止の声が入った。彼の前に少女と青年が立ち、それ以上進まないように求める。しかし彼本人はゆるく首を振り「行かせてくれ。」と囁いた。
「どうして、そんなになってまで行こうとするんだ。・・・自分の責任だと思ってるのか?」
 問いかけに彼は苦笑を返す。「それもある。」と言いながら、「でも、」と四人の顔を見渡してから目を瞑った。
「この感じ・・・さっきのより大変なことになってるだろうな。」
 呟き、そして目を開ける。
 その顔は困ったように笑っていた。
「そんな時に俺が皆に全て任せたまま黙って病室にいられると思うか?」
「お前は・・・っ!」
「いらんことまで感知してくれるなよ。」
「キョンが私達の中で一番弱ければよかったのに。・・・どうして。」
「神がそう創りたもうたってことだろ。胸糞悪いことにな。」
 最後の一人がそう吐き捨て、仕方が無いと言わんばかりに諦めた表情で彼の前に立ち塞がっていた二人が道を開ける。
 彼が足を踏み出すと、彼よりも頭一つ分小さな身長の少女が上着の裾を摘まんでその名を呼んだ。
「キョン、行く時も一緒なら帰る時もみんな一緒だからね?」
「ああ、わかってる。」
 少女の頭をポンと撫で、彼は真っ直ぐ前を見つめた。
「行こうぜ。ノイズまみれの世界を壊しに。」


 結局僕は動けなかった。
 ようやく意思を持って動けるようになったのは、彼らが姿を消した後。
「・・・探さないと。」
 ―――彼を。
 そう呟いて、僕は走りだした。



* * *



 彼らの言っていた閉鎖空間が僕の知っている閉鎖空間と同じ、あるいは似通っているものだと仮定しよう。そうすると閉鎖空間と現実世界の時間の流れ方の違いを考えれば、彼らが一度空間に侵入して再びこちらに戻ってくるまでに掛かる時間はきっと数十秒程度。
 だから僕は急ぐ。
 もしあの空間で傷を負おうものなら、こちらに意識が戻った瞬間、全ての傷が現実のものになってしまう。ただでさえ彼はあれだけの怪我を負っていたと言うのに、これ以上身体を酷使して怪我が悪化しないわけがない。
 その悪化させた状態で彼が意識を取り戻した時、僕はその場にいられるだろうか。彼らではなく僕が、彼を支えることが出来るのだろうか。
 彼を支えていた他人の腕が思い出される。酷く、嫌な気分になった。大声で彼に触れるなと叫びたくなった。彼の正体と彼の知らない仲間と彼の行動と彼の状態と、そんな色々なものが、ただし全て彼に関するものが、ぐちゃぐちゃに混ざり合って頭の芯が焼けそうだ。
 ギリッと奥歯を噛み締めてひたすら走る。方向は勘に頼るしかない。でも何故かこっちだという確信が僕の中にあった。もしこれが僕に備わったもう一つの超能力なら有り難いことこの上ない。
 幾つかの角を曲がり、また幾つかの十字路を突っ切って彼らを追う。彼らが動き出してから僕が行動に移るまでのタイムラグを考えれば、そしてまた僕の勘が当たっているならば、もうそろそろ彼らの姿が見えるはずだ。
 そしてついに、また一つ角を曲がったところで目的の人影を見つけた。未だ人通りの少ないその場に立ったまま、動く気配を見せない五つの影。
 僕は立ち止まり、荒く息をつく。熱い血液が身体中を巡っているのを感じながら、視線だけは彼の姿から外さない。
「間に、合った・・・?」
 しかしそう呟いた瞬間、視線の先の人影がどさりと崩れ落ちた。
「・・・っ!?」
 彼が仲間と称した四人がその場に凍りつく。彼の名を呼び、崩れ落ちた彼の身を起こそうと手を伸ばす。その顔に浮かんでいるのは一様に恐怖だ。
 けれど、そんなことはどうだっていい。彼らが怪我しようが倒れようが恐怖しようが、そんなことはどうだって。僕にとって重要なのは彼だけなのだから。・・・そして、その彼が倒れた。僕は整わない息もそのままに、彼に駆け寄った。
「どけっ!!」
 彼の前では決して使ったことが無かった口調で四人を押し退け、彼の元に辿り着く。突如侵入してきた僕に彼らは驚いているようだったが、今の僕にそれを気にする余裕は無い。
 地面に膝をつき、彼の体を抱き上げると、僕の手は真っ赤に濡れた。
「そ、んな・・・。」
 先刻覗き見た後ろ姿よりも想像以上に悪化したその状態。至る所に裂傷が生じ、しかも右腕がおかしな方向に曲がっている。足の方は見る勇気さえ起きない。しかしこの腕と似た状況であるような気がした。
 目は眠っている時のようにゆるく閉じられているが、開く気配はない。ぐったりと僕の両腕に体重を預け、生々しい傷跡から鮮血を滴らせていた。
「貴方のせい、よ・・・。」
 声が降って来る。少女の声。彼に頭を撫でられていた少女の。
 搾り出すような声はもう一度同じ台詞を繰り返すと、何かに気付いた隣の青年の「やめろ!言うな!」という静止を振り切って声を荒げた。
「貴方のせいよ!キョンがこんなになっちゃったのは貴方の所為なんだから!」
「おい、やめろって!」
「うるさい!何が『神様』よ!私達をこんなに苦しめて・・・キョンをこんなに苦しめて!そんな神様ならいらない!そんな神が造った世界なんか滅んでしまえば良い!!」
 ―――だからキョンをこんな世界から解放しなさいよ!古泉一樹!我らが神よっ!!
 その叫びを聞いてようやく僕は顔を上げた。
 今、彼女は何と言った?彼女は僕のことを何と・・・。
 心臓が凍るようだ。一瞬で手足の感覚が消えた。
 ・・・・・・・・・。僕が、神?
「なんて顔してんのよ。馬鹿じゃないの?ねえ、貴方が今抱き締めてるその人はね、貴方の所為でそうなっちゃったのよ。貴方がキョンをそこまで苦しめたの。・・・どこまでやれば気が済むの?私達を、キョンを、どこまで傷つければ、貴方は気が済むの!?」
「キョンを離して下さい。古泉一樹。貴方に、彼に触れる資格なんて無いはずだ。」
 う、そだ。うそだ。そんなの嘘だ。
 『神』は涼宮ハルヒだろう?僕は彼女によって作られた超能力者だ。それだけの価値しかない存在だ。
 僕が彼を傷つけるはずがない。僕はそんなの望んじゃいない。僕じゃない。僕はそんなことしない。僕は―――。
「こい、ずみ・・・?」
 シン・・・と辺りが静まり返る。物理的に空気を震わせていた声も、僕の頭の中でガンガン響いていた音も、全てがその途切れ途切れな小さい声だけで停止した。
 上げていた顔を再び彼に向ける。彼は、その目を薄く開いていた。
「古泉、か・・・?」
「そうです。僕です。古泉一樹です。」
 血に濡れた頬に手を当てて語りかける。
 朦朧とした意識のまま彼はようやくこちらに焦点を合わせ、小さく笑みを浮かべた。
「昨日は・・・悪かった、な。・・・・・・八つ当たり・・・ッ、みたいな、マネ・・・して。」
「そんなこと、今はどうでもいいですから!早く病院に・・・!」
「お前、自分の・・・こと、聞いた?・・・・・・なあ、・・・かみさま。俺達の、神・・・様。」
「僕はこんなこと望んでません。僕はあなたがこんな目に合うことなんか・・・!」
「しってる。」
 折れていない方の彼の左腕がゆっくりと伸ばされた。
 力無いそれは僕の頬に辿り着くと、何かを拭うように小さく動く。
「知ってるよ。・・・ずっと、・・・ッ、見てきた。感じてた。お前の・・・こと。ずっと。・・・・・・だから。」
 痛みに苦しんでいるはずの顔がふわりと微笑む。
 血まみれの微笑で彼が僕を見た。
「ほら、泣くなよ。」
 そして、彼の手が落ちた。
「・・・あ。」
 パタリと地面の上に落ちた左手はもう二度と動かない。
 透明な雫が彼の頬に落ちたが、再度閉じられた瞳は開いてくれない。
 そして、苦しそうに上下していた胸はもう―――。
「そ、んな。ぅ、あぁ、・・・あ・・・・・・ああ。」
 彼は、死んでしまった。
 僕が、殺した。
「あ、あ・・・う、っぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああ!!!!!」

 暗転。



□■□



「世界の再構築開始。情報統合思念体との情報連結を強化。これより第三十八次改変観測最終モードに移行する。」



□■□



 長門と朝比奈さんのオセロ対戦を見ながら、俺は先刻までこちらが持っていた黒を引き継いで見事な戦法を披露する眼鏡少女に感心していた・・・わけではなく、おそらくもう間も無くこの部屋に連れて来られるであろう人物を思ってゴクリと唾を飲み込んだ。
 緊張、している。
 ついに俺のもう一つの任務が始まろうとしているのだ。監視者と言う名の任務が。
 我々の『神』。俺の人生を180度変えてしまった存在と対峙するという事態に、どうして緊張せずにいられようか。
 資料で見知った顔と経歴、閉鎖空間で暴れるあの化物。紙の上と頭に流れ込むノイズという形で与えられてきた彼という存在に俺の中で新たな色がつくとすれば、おそらくこの時。
 畏怖と嫌悪と憎悪と悲哀、その感情以外に一体何が芽生えるのだろう。
 パチリと音を立てて長門が駒を引っ繰り返す。増えてゆく黒色。殲滅される白。
 近づいてくる足音は、はてさて何を齎すか。
「・・・三十九回目。」
「え?」
 ぼそりと呟いた長門の声を耳にして朝比奈さんが盤上から顔を上げる。しかし長門は朝比奈さんではなく俺の顔を一瞥した後、再び視線を盤上に戻した。つられて朝比奈さんも白と黒の対戦に戻る。
 その直後、部室のドアが勢いよく開かれた。
 ハルヒが連れてきた人物を部屋の中に引き入れて太陽のような笑顔を振りまく。
「へい!おー待ちぃ!一年九組に本日やって来た即戦力の転校生!その名も!」
「古泉一樹です。よろしく。」

 その時。
 長門がほんの微かに瞳を揺らめかせたことを、俺は知らない。






















 繰り返される世界で、神はあと何度『彼』を殺せば気が済むのだろう。
 あと何度、悲痛に声を嗄らせば良いのだろう。








彼は何度も死んでいて、その度に神が世界を再構築させてきた。
そしてまた、観測を始めてから三十九回目の世界が始まる。
気付いているのは一人だけ。
観測者だけが全てを知り、そして全てを秘匿する。