「行っちゃったね」
 王城の地下はまるで大きな嵐が去っていったかのようだった。
 隣の新羅の呟きを聞きながらセルティもこくりと頭を揺らす。漆黒の鞘を差し出せば、それを受け取った新羅が慣れた手つきで銀色の刃を納める。
「さて、後始末をやらなきゃだけど、少しばかり面倒だなあ」
(だがやらない訳にもいかんだろう)
「うん」
 セルティは羊皮紙に言葉を綴った訳ではない。だが己の夫たる男はセルティの考えている事がおおよそ解るらしい。そのためセルティが何かに文字を記さずとも、彼女の言いたい事を推測して的確な答えを返すのだ。
 そんな以心伝心夫婦の視線の先では正臣が黄色い瞳で若干居心地が悪そうに国王を見上げていた。
「父上……」
 たとえ正臣がこの国唯一の王子であっても、彼が逆らったのは自分の上に立つ国王陛下だ。父親のやろうとしていた事を否定したのは反逆罪が適応されてもおかしくない。
「正臣」
「っ、はい!」
 名前を呼ばれて正臣はピンと背筋を伸ばした。つい先刻まではできなかった機敏な動きに、国王は淡い茶色の瞳を細める。正臣の眼球が腐り落ちる前はきっとこんな色をしていたのだろう。
 さあ、罰は何だ。
 気構える正臣は確かに緊張していたが、己の判断を誤りだとは思っていない。王に背いたのは事実で、罰を与えられればそれを受けるつもりでいながらも、正臣は毅然とした態度で相手の次の言葉を待った。
 だが王は何かを言おうと数回口を開き、けれど結局は閉じたまま、一歩踏み出す。そして、
「国……王……?」
 正臣は父親に抱きしめられていた。
 淡い光を放つような黄色い双眸が大きく見開かれる。
 王は何も言わなかった。ただ無言で強く強く我が子を抱きしめる。きつく目を閉じ、僅かに肩を震わせて。
 痛いほどに強く、どうしようもなく不器用な親子の抱擁だった。正臣は目を閉じ、親友が大事な存在にしたように己も父親を抱きしめ返す。
 抱擁が終わると国王はじっと正臣を見下ろし、低く荘厳な声で告げた。
「お前にはこれから多くの事を教える。私の息子として王になる気概があるのなら、血を吐いてでもついてこい」
「はい!!」
 父親の言葉に正臣は目を輝かせる。
 それは後に異彩の瞳を持つ偉大な封王と呼ばれる、ライラの未だ幼い王子だった。



□■□



 まるで初めて帝人が訪れた夜のように、森の闇は騒々と凪いでいた。
 しばらくぶりに夜の森の大地を踏んだ帝人は、はてを首を傾げた。足に違和感がある。そう思って下を見れば、あの頃とは違い靴を履いた足が映る。
「靴、どうしよう。脱いだ方がいいのかな」
 大きな独り言を零しながら、それもまた自分で選んで決めればいい事なのだと気付く。
「懐かしいなあ!」
 澄んだ緑の空気を吸って、帝人は大きく伸びをした。
 もう動く度にジャラジャラと鳴る鎖はない。静雄が解き放ってくれた。
「帰って来たって感じがしますね!」
 振り返って帝人は静雄に告げる。
 そう言えば絵が焼けてしまいましたねとか、沢山の「ありがとう」と「ごめんなさい」とか、どうして記憶を消したんですか静雄さんの馬鹿とか、色んな言葉を言わなければと思ったけれど、今日の夜は色々な事がありすぎたから、それを言うのは明日でも構わないかなと思った。
 今夜は眠って、また明日。
(明日があるって、幸せ)
 そう思えるのはきっと隣に一番大好きなひとがいるからだ。
「……お前の故郷はここじゃないだろ」
「そうですけど、帰りたいと思ったのはここですから」
 静雄の顔を覗き込みながら帝人は淡く笑った。見上げた先の双眸は徐々に金色から銀色に変わり始めており、その向こうの空も白んできているのが見えて、ああ夜が明けるな、と帝人は思う。
「もし静雄さんがセルティさん達のいる国で暮らすなら僕もそこに帰ります。でも静雄さんはそんなこと言わないでしょう?」
「…………」
「僕の帰る場所は静雄さんのいる所です。ずっと、ずっと一緒にいたいんです」
「……解ってるのか?」
「?」
 静雄の問いかけに帝人は首を傾げる。何も解っていないという反応に静雄は小さく息をつき、そうして続けた。
「自分が言った言葉の意味だ。たとえどんなに長く生きたとしても、人間であるお前は……俺を、置いて逝くんだぞ」
「それなら解ってます」
 微笑を浮かべたまま帝人は首を縦に動かす。
 寿命の違いなどとっくに解っていた。永遠が無い事も知っていた。それでも。
「ずっと傍にいます」
 決して違えない約束のように。
 帝人は静雄の両手を小さな己の手で包み込むようにし、青い瞳にその存在を映し込む。
「死んだら食べて、なんてもう言いませんけど。それに僕が年をとって皺くちゃになっちゃったらきっと美味しくないでしょうし。でもそうしたら、死んだら、僕は土に還るんです」
 白み始めた月色の瞳を見上げて極上の夢を語るように帝人は笑った。
「僕が死んだら土に還って、花になって、貴方の傍で咲くんです。この目みたいな青い花になって、何年経っても、何十年経っても、ずっとずっと貴方の隣にいます」
 静雄は無言のまま帝人を見つめ返す。何を考えているのかは解らない。だが彼はしばらく沈黙を保った後、
「…………好きにしろ」
 それだけを言った。
 それだけで帝人はとてつもなく嬉しくなった。
(許されるって、たぶんこういう事)
 赤林が何度も言っていた言葉の意味がやっと解った。
 やがて静雄が翼を畳んで大きな木の根本に座り込むと、帝人はひょこひょこと近付いて問いかける。
「静雄さん? どうしたんですか」
「しばらく、寝る」
「……ご一緒してもいいですか」
 返事はない。静雄はゆっくりと呼吸しながら完全に瞼を下ろした。
 これもきっと「好きにしろ」という事なのだろう。帝人はそう思いながら静雄のすぐ隣で丸くなる。
 横になると途端に睡魔が襲ってきて、自分が随分疲れていたのだとようよう気付いた。でも一眠りすればすぐ元気になるだろう。ここはとても寝心地がいいのだから。
 起きたら静雄と沢山話をしよう。新しい館を作る話に、どんな絵を描くのかも。赤林も呼んで、みんなで沢山幸せになろう。
 そんな事を思っているうちに、うとうとと眠りの世界に誘われて。
 眠りにつく直前、静雄の翼が布団のように抱き込んでくれたような気がしたけれど、それはあまりにも幸せすぎる事だったから。
 夢かもしれないな、と、帝人は思った。






の魔物とい花