夜。正臣は微睡みの中で物音を聞いた。
「……誰だ」
 静かに誰何する。取り乱してはいけない。取り乱しても意味はない。目と足が不自由な自分にできる事など限られているのだから。
 気配を探ると、既に扉の内側―――この部屋の中にあった。
 ベッドに身体を横たえたまま正臣は問いを重ねる。
「こんな時間に何の用だ。もし俺に危害を加えようってんなら気を付けろよ? 俺に手をかけた途端、この国一の魔術師の呪いがお前を死に至らしめるからな」
 だが相手が死ぬ気でここまで来たならば国でたった一人の王子の命も危ない。
 正臣は唯一有効に使用できる聴覚を頼りにじっと耳を澄ませる。かすかな吐息の主はベッドのすぐ傍まで来ると、
「こんな夜遅くにごめんね、正臣」
「っ、帝人!? 帝人なのか!?」
 思わずベッドから上半身を起こして正臣は声がする方に顔を向けた。
「うん。ごめんね、ずっと来られなくて。僕、昼間は見張られてて、こんな時間にならないと正臣に会いに行けなかったんだ」
「見張られてる……?」
「そんな感じがするんだ。実際にどこへ行っちゃいけないとか言われてないんだけど。ここの見張りの人も何も言わず通してくれたし」
「そうか……」
 だが見張られていると感じている帝人がわざわざ見張りの目がない時間帯にここを訪ねたという事実に、正臣は複雑な心境になる。頭の中ではぐるぐると何人かの言葉が渦巻いていた。主に帝人が来なくなってからここを訪れた人々の言葉が。
「帝人……。俺はお前を待ってた」
「うん。ありがとう」
 帝人は頷き、微笑んだようだった。
「新羅さんが何度か来て教えてくれたよ。たまにセルティさんも一緒にさ。……お前の事、たくさん。もうここには来てくれねえと思ってた」
「どうして?」
 声も気配も前と変わらない。そして視覚を失った今の正臣に帝人の表情を伺う事はできない。だからこの親友が記憶を取り戻す前と後でどう変わったのか、はたまた変わっていないのか、正臣には判らなかった。
「今日、父上が……国王がここに来た。明日、夜の王を滅する最後の儀を行うってさ。しかもそれには俺も参加するんだとよ。この国の次期王として」
 それがどういう意味か、正臣には解っていた。
 新羅とセルティがやって来て教えてくれたのだ。帝人の境遇を、その手足についた枷の痕の意味を、そして人間ならば持ち得ない特別な青を宿す瞳について。
 そうして新羅は正臣に告げた。
『君は二日後の儀式に呼ばれるだろう。そこで君はこれまでの人生を一転させる。でもこの事を帝人君には言わないでやってほしいんだ』
 そう言った新羅の言葉には、セルティを唯一とする彼には珍しくほんの少しの苦笑が滲んでいた。
『まあ、どうせそのうち知られて、これ以上無いってくらいに嫌われてしまうんだろうけどね。……仕方がない事だ。憎まれ役も悪くはないと思えるようになっておかないと』
 そんな声で何故そんな台詞が吐けるのか。正臣は問いかけた。
 しかし新羅は問いに答えず、別の言葉を口にする。
『正臣君。君の目と足、朽ちゆく身体が治るかもしれない』
 俺の事なんてどうでもいいだろ。そう返した正臣に新羅は小さく笑った。
『そんなこと言わずに。君、普段は明るく振る舞ってるけど、そんな身体の所為で結構なネガティブ君じゃないか。曲がりなりにも父親である彼がそれに気付かぬはずもない。……国王はね、君に仮初めではない自信を持ってほしいんだよ』
 自分に自信を持つ。
 目が見えるようになれば、足が動くようになれば、正臣は自信を持つ事ができるようになのか。自分は次の王になれるのだろうか。
「ねえ、あのね。正臣」
 おずおずと、帝人の声がした。その声を聞き逃すまいと正臣は耳を澄ませる。
「あのね……」
 正常な身体が手に入る。そう思った時、けれども正臣の頭に真っ先に浮かんだのは帝人の事だった。帝人は泣くのかな、そう思った。
 そうして帝人は小さな小さな、本当に申し訳なさそうで、けれども強い願いが籠もった囁きを漏らした。
「助けて、って言ったら、どうする?」
 その言葉に、なんだお前は今更そんな事を聞くのかと、思わず正臣は笑ってしまった。
 答えなんてとっくの昔に解りきっている。だって自分達は親友なのだから。



□■□



 三色の鐘の音が絶妙な音階を作り上げた。岸谷新羅は城の地下にまで響くその音を聞きながら、まるで王妃の国葬のようだと思う。
 あの頃、まだ新羅は聖騎士ではなく、延々と続く黒衣の列を屋敷の二階の窓からぼんやり眺めていた。
 遠目では、葬列の棺の中までは見えなかった。王妃は希代の美女と言われていたので、まだ己の運命たる女性と出会っていなかった新羅は少しだけ残念だなと思ったりもした。
 けれど。
 新羅は顔を上げ、まるで自ら玉座を作り上げるかのように漆黒の翼を広げた夜の王を正面に臨んだ。
 捕らえたあの頃からゆうに二月が経っている。あれから、どんな食事も水も与えられず、魔力が込められた透明な糸でただ干物のように吊されていた魔王。魔物にとって生命力と同義である魔力を搾り取られ、最早動くこともままならないであろう、夜の森の王。
 しかしその姿は未だ寒気がするほど美しかった。瞼を下ろした姿は、やつれ、痩せ細ってもまだ、美しい月色の魔物としての威厳を宿していた。
 鬼気迫るこの美しさの前で、自分は聖剣を振るう。……振るえるのか? と、妻にしか興味のない男ですら頭の端でかすかに思った。
「巫女よ、聖剣を、ここに……!」
 国王が低い声を上げた。
 無駄のない動作でセルティが新羅の隣に立つ。黒いヴェールに黒いドレス。<聖剣の巫女>として全身を黒に染めあげた妻に新羅は薄く微笑みかける。
「……セルティ、緊張してるね」
 儀式の場であるためセルティは意思伝達用の羊皮紙を持っていない。けれども夫である新羅には彼女の考えが手に取るように解っていた。ゆえに微笑みを継続したまま、彼は妻にしか聞こえない音量で口さえも殆ど動かす事なく告げる。
「私が昔、君に言った言葉を、君はまだ覚えてくれているかな?」
 答えは聞かず、新羅は左手を伸ばす。その手にセルティが黒い鞘に収まった一振りの剣を差し出した。受け取った新羅は淀み無い動作ですらりと銀色の刃を抜き放つ。
 漆黒の柄から伸びる銀色。そこに映り込むのは魔術で作られたいくつかの灯り。そしてそれ以上に輝いていたのは人の頭よりまだ一回り大きな水晶。大勢の魔術師達に取り囲まれたそれは中に青い炎を揺らめかせていた。
 最早、夜の王に残された魔力はない。
 にも拘わらず、この威圧感は人間など到底及ばないだろうと新羅に思わせる。
「我が王子をここへ!」
 国王の号令によって数人の男達が御輿を担いで現れた。うすぎぬに隠されたその中には正臣がいるはずだ。
 御輿が定位置まで来ると、その前に魔術師達が歩み出る。これから魔王の魔力を使い、この国史上最大の魔術が行われようとしていた。
 目的は正臣の目と足の蘇生―――。否、それだけではない。今も尚徐々に朽ちている身体全てを健康なものに作り替えようとしているのだ。
 魔術師達が杖を構える。しかし彼らが術を始める前に紗の中から声がした。
「待ってください」
 正臣の声だ。この国唯一の王子の声に魔術師達の動きが止まる。
「国王様、儀式が行われる前に願いを一つ聞き届けていただけないでしょうか」
「……何だ」
 普段の正臣とは違い丁寧な口調である事を不思議だとは思わない。時と場所と場合を選んで話し方を変えるのは滅多に人前に出ない正臣でも当然の事である。国王の返答に僅かな間が空いたのは、正臣が自分から“話しかけてきた”事が理由だった。強い意志を感じさせる息子の声に王は低く答える。
「言ってみよ」
「聖騎士の剣が突き立てられる前にもっと近くで魔王の存在というものを感じたく思います。……私には既に眼球もなくその姿を目に焼き付ける事はできませんが、ならばせめて魔王というものが一体どれ程のものなのか、この肌で感じたく思うのです」
 人の王は紗の奥にいる息子をじっと見つめた。ポジティブに見えてネガティブで、明るく振る舞っているその裏では己の存在意義に自信が持てず、殆ど自分から動こうとはしなかった正臣が、今この場で自分の意見を述べている。この変化は身体が治る事への希望故か、それとも帝人と言葉を交わすようになったからか……。
 どちらとも判断が付かぬまま、王はしばらくの逡巡の後、口を開いた。
「よかろう。……王子を前へ」
 御輿が前に進み出た。魔術師達は一旦横へ寄り、ぽっかりと空いた空間に御輿が下ろされる。紗の中から王子は魔王の気配を感じ取っているのだろう。誰もがそう思った、その時。
「今だ!!」
 王も魔術師達も我が耳を疑った。
 瞬間、紗がばっと開かれ中から小柄な人影が飛び出す。足が動かぬ正臣ではない。魔王に向かって真っ直ぐに駆けていくのは、
「帝人、行けっ!!」
 正臣の声を追い風に、弾丸のように帝人は駆ける。
「止めろ!! その子供を止めろ!!」
 慌てる国王や魔術師達。だがその一方で、魔王と最も近い距離に立っていた一組の夫婦は動揺も驚愕もなくこの場の行く末を眺めていた。
「<聖騎士>岸谷新羅! お前もあの子供を止めるのだ!!」
 怒鳴るような国王の声に新羅がそちらを振り返る。だが抜き身の刃は構えられず、だらりと右手に握られたままだ。
「何を、何をしている……! 早く」
「悪いね、国王」
 黒縁の眼鏡の奥で黒い瞳がにこりと細まった。
「私が剣を振るうのは我が巫女がそれを望んだ時のみって一番最初に決めてたんだ。だから君の今の命令は聞けないよ」
「貴様……ッ! ええい、誰でもいい! その子供を止めろ!!」
 国王は叫んだが最早それは遅かった。
 帝人が走る。痩せ細った足で、しっかりと地面を踏みしめて。ただ一心に、黒い翼を広げた美しい夜の王の元へ。
「静雄さん!!」
 万感の思いを込めて名前を呼ぶ。
 その胸に黒い柄と銀の刃のナイフを握りしめて。



* * *



 数時間前。巫女の正装として真っ黒なドレスに身を包んで現れたセルティは、帝人の姿を見て入り口に立ちつくした。
 服装等は普段と変わらない。豪奢な物を好まない帝人に合わせ、“城の客”として相応しい範囲内でなるべく簡素な衣服が用意されていたからだ。
 セルティが足を止めてしまったのは帝人の目を見たからだった。強い決意を宿し青く輝く瞳を、セルティは息を止めるほど美しいと思った。
『帝人……』
「セルティさん、ごめんなさい」
 帝人はそう言って頭を下げる。
「僕、行きます」
『そうか。……やはり行ってしまうのか、帝人』
 羊皮紙の上の文字には感情など表れない。けれどもセルティは確かに納得と少しの悲しみを含ませてその文字を綴った。
 帝人がそれを読んだのを確認すると、彼女は腕を伸ばしてそっと小柄な身体を抱きしめる。
 息子がいたならこんな感じだったかもしれない。
 自分と新羅は種族が違い、ゆえに子供をなす事はできない。またセルティは長い時間を<聖剣の巫女>として過ごさねばならないから、自然と己が腹を痛めて産む子供の代わりにこの国全てを我が子のように愛す必要があった。孤児院から子供を引き取って育てるような事をしなかったのもそのためだ。まあ新羅がセルティと何ら関わりのない子供を可愛がるとも思えなかったが。
「セルティさん、ごめんなさい。それと、ありがとうございます。貴女に、皆さんに、してもらった事はどれだけ感謝してもし足りません。本当に嬉しかった。これは僕の本心です」
『解っているよ。解っている。その上でお前があの魔王を選ぶ気持ちの方が強かったという事なのだろう。……それでいいんだ。お前が一番したいようにすればいい』
 そうしてひときわ強く抱きしめた後、セルティは帝人を解放した。帝人はセルティの言葉にはにかむ。、
「こんなに優しい人達から離れるなんて、僕は馬鹿なんでしょうか」
『生き物は皆、好きな相手ができると馬鹿になるものだよ』
「セルティさんも馬鹿になったんですか?」
 きょとんとする帝人にセルティは苦笑で肩を揺らす。そして羊皮紙を子供の目の前に差し出して、
『でなければあんなロクデナシの妻に今も大人しく収まっているはずないだろう?』
 帝人の笑いを誘った。
 楽しそうに笑う帝人を眺めながらセルティはあらかじめ用意していた小剣を取り出す。黒い鞘の中には銀色の刃が眠っている。その小剣の黒い柄を帝人の方に向けてセルティは受け取れと言う。
 帝人が過去の出来事によってナイフ類を苦手とする事は知っていた。だがこれは特別な物。
『これは新羅が持つ聖剣と刃を同じくするものだ。夜の王を捕らえている糸を切るにはこれが必要になるだろう。受け取ってくれ』
「いいんですか……?」
『今更何を言う。私は帝人の一番の願いが叶う事を心から願っているんだぞ』
 それにあんな強い目をしておいて、まさか魔王奪還を諦める性格でもあるまいに。
 心中でそう付け足し、セルティは帝人の手に小剣を握らせる。
『このナイフでお前はもっと幸せになってこい』


 そうして帝人は剣を取った。
 架空の痛みが身を引き裂き、激しい吐き気に襲われる。けれども手を離そうとはしない。
(僕は、戦う)
 今まで自分で選んだ事も何かを望んだ事も殆ど無かった。初めて選んだのは屋敷を逃げ出し夜の森に行く事。そして初めての望みは魔物に食べられる事。けれど今の帝人は違う。自分でも浅ましいと思う程に選び、望む。それができるようになったのも全ては夜の森で静雄に出会ったからだ。
(貴方と出会って、きっと僕は初めて“始まった”)
 そして今一番の願いは静雄と一緒にいる事。
(だから、取り戻す)
 そのために、戦う。



* * *



「静雄さん!!」
 帝人は絹のようにまとわりつくその糸を小剣で叩き切った。
「静雄さん、静雄さん目を開けてください……!」
 泣きながら名前を呼んだ。長く見ていなかった静雄の顔はまるで美しい死に顔のようで、帝人は背を凍らせる。美しさゆえではない。失うかもしれないという恐怖ゆえだった。
「やだ、静雄さん……死なないでっ!」
 その時、ゆっくりと静雄の瞼が開いた。
 薄く開かれた双眸から月色の光が零れ出す。
「静雄さん!!」
 名前を呼ぶ声が歓喜に染まる。だが静雄の腕が動いたかと思うと、彼の手は痛いくらいに強く帝人の右手首を握りしめた。
「っ……」
「……ナイフは嫌いだって言ってなかったか」
 小剣が帝人の手から零れ落ちる。だが帝人は笑う。力強く。
「こんなの大した事じゃありません」
 そうしてガリガリの左腕を伸ばし、静雄の首に巻き付けるようにして抱きついた。華奢な腕がまるで彼を抱きしめるために生まれてきた、とでも言うように。
 静雄は無言で双眸を細め、帝人の右腕を戒めていた手を離す。解放された方の腕も己の身体に触れるのを感じながら、やがて静雄も帝人の身体を強く抱きしめた。
 あの月夜の邂逅から随分の時が経って、やっと二人は互いを互いの腕の中に納めたのだった。


「新羅ッ!!」
 額に血管を浮かばせ、国王は聖騎士に叫んだ。
「<聖騎士>岸谷新羅! 魔王を斬れ! 王の命令である……!」
 その怒号によって魔術師達も新たな魔術の構築に取り掛かる。だが先に聖剣を魔王の心臓に突き立てよと国王は声を張り上げた。
「子供ごと斬ってしまっても構わぬ! やれっ、新羅!!」
「……」
 新羅は一瞬だけ苦笑を浮かべると、抜き身の剣を持ったまま魔王に向かって歩き出す。セルティが腕を伸ばして引き留めようとするが、その手をするりと交わして、代わりに新羅は愛しの妻にウインクを一つ。
 歩みはすぐさま駆け足となり、新羅は聖剣を振り上げる。
 帝人はぎゅっと目を瞑って強く静雄に抱きついた。
「新羅さんっ!」
 叫んだのは耳で必死に周囲を把握しようとしていた正臣。そして新羅は―――

 ガシャン……っと。まるでガラスの割れるような音が響き渡った。

「!!」
 突然巻き起こった旋風のような気配の揺らぎに誰もが平衡感覚を失う。
「新羅、貴様何をっ!」
 その中で王が声を張り上げる。
 あらゆるものを薙ぎ倒すかのような風はやがて収束し、全てが収まった時に立っていたのは糸の拘束から解き放たれた静雄と、彼に抱きついたままの帝人と、聖剣を下ろした新羅と、じっと成り行きを見守っていたセルティだけだった。
 新羅が剣を突き立てたのは魔王の心臓ではなく。
 静雄の漆黒の翼が、大きく数度、深呼吸でもするかのように揺らめいた。失われていた魔力が戻る、その瞬間だった。
 粉々に砕け散った水晶の破片を月色の目が睥睨する。傍にいた魔術師達に支えられ体勢を立て直した国王は、その有様を目にしてギリッと奥歯を鳴らした。
「新羅……ッ!」
 怒りに満ちた声に、しかし新羅はしれっとした顔で答える。
「ごめんよ、国王。でも君も知っていたはずじゃないのかい? 私が何よりも優先するのは心優しい私の妻なんだって」


「静雄さん、大丈夫ですか?」
 自分よりもしっかりとした体つきの静雄を心配する帝人に、静雄は小さな溜息を一つだけ吐き出す。
「なんで来た」
 その言葉に帝人は眉根を寄せた。ほんの少し泣き笑いのような顔をして。
「どうして来ないと思うんですか」
「お前は幸福を手に入れたはずだ」
「確かにあそこには温かい食事も服も人の優しさも揃っていました。でも」
 もう一度強く静雄の首に抱きついて帝人は囁くように告げる。
「でも、貴方がいない」
 静雄は月色の目を細めた。
「お前は馬鹿だ」
「知ってます。馬鹿でいいんです。貴方と一緒にいられるなら」
 青い目からぽろぽろと涙を零して帝人はぎゅうぎゅうと静雄に抱きつく。
「だから、ねえ。帰りましょう、静雄さん。あの森に帰りましょう。僕は貴方と一緒にいたい。あの森で貴方の隣にいたいんです……!」
「……お前は泣かないもんだと思ってた」
 帝人の肩にそっと手を添えて視線を合わせながら静雄はゆっくりと告げた。長い指で次々に溢れてくる透明な液体を掬い取り、どうしようかとかすかな苦笑まで浮かべて。
「泣き方を覚えたんです」
 僅かな苦笑にすら胸がいっぱいになる。帝人は泣きながら顔を微笑みの形に変えた。
「今の僕は泣くし、笑うし、怒るし、悲しみます。こんなに人間らしくなってしまった僕は嫌ですか?」
「いや……」
 静雄は自分が与えた青を宿す瞳を見つめ、短い黒髪を長い指でやんわりと梳く。
「お前は今でも俺の知ってる帝人だ。そして俺は―――……静雄だ」
 それが、帝人が求め、静雄が出した答えだった。


 静雄の翼が大きく羽ばたいた。魔力と風が地下に満ち、巻き上がる。小さな子供を抱いた魔王の姿に、けれども国王は怯まない。彼にも譲れないものがあるのだ。
「何をしている、魔術師達よ! 矢霧波江! 早く、早くしないか……!」
 しかし魔術師達に為す術はなかった。魔力を取り戻した魔王に人間が敵うはずもないのだ。
 魔王の名に相応しく威厳と力に満ち溢れた静雄を止められる者などいない。魔術師団長である波江は辛うじて相手を睨み付けるだけの力を残していても、他の者達は全身の力が抜けたようにその場に座り込んでしまっていた。
「何をしている! 早く、魔王を……!」
「やめてくれ、父上っ!!」
 王の声を遮ったのは彼の息子だった。
「もうやめてくれ。帝人と魔王をそのまま行かせてやってくれ」
 帝人の青い目がまだ動く腕で何とか紗を押し退けて叫ぶ正臣の姿を捉える。助けてと言った帝人に、当然だと頷いてくれた親友を。自分の身体よりも帝人の願いを優先してくれた彼を。
「もう、もういいんだ。俺の身体の事は大丈夫だから」
「正臣……」
 国王は呆然と王子を見た。
「何を言ってるのか解っているのか? 魔王の魔力が無ければお前の目は見えないまま、足は動かないまま。それどころか今も尚、お前の身体は……」
「いいんだ」
 ゆるゆると首を振って正臣は答える。
「帝人は俺のたった一人の親友だから。あいつを悲しませるくらいなら、俺は目なんか見えなくていい。足も動かなくていい。この手が、口が、徐々に朽ち果てていくとしても構わない」
「正臣……っ!」
 静雄の腕の中から帝人は親友の名を呼んだ。正臣は見えない目で帝人を一瞥し、口元に弧を描いた。そしてこの国の王にして己の父親である男に顔を向け直すと、必死の思いで語りかける。
「世継ぎが必要なら優秀な子供を捜してくれ。俺よりもっと優秀な子供なんて探せばどこにでもいるだろう。それでも、それでも! もしあんたが認めてくれるなら、忘れないでほしい。俺はあんたの息子だ。こんな不良品の身体で生まれてきちまったけど、それでもあんたの息子なんだ!」
「まさ、おみ。お前は……」
「その息子がする一生に一度のお願いだ。帝人達を行かせてやってくれ……っ!」
 正臣の必死の願いに国王は戸惑うような顔をし、口元を引き結んだ。
「ねえ、正臣! 正臣っ!」
 帝人は静雄の腕の中から再び親友の名を呼ぶ。
「正臣……ごめんね、正臣」
 無理を言ったと解っていた。とても……とても酷い事を言ったと解っていた。まだ時間は残されているけれども、正臣の身体はゆっくりと死に向かっていて、それを治すには今が絶好のチャンスだったのに。それでも帝人は願ってしまった。そして正臣は叶えてくれた。
 嬉しくて、申し訳なくて。まだ己を親友と呼んでくれる正臣の存在が、やっぱり涙が出るほど嬉しかった。
「ごめん。ありがとう……っ!」
「いいんだ」
 正臣は帝人に笑いかけながら「これは恩返しでもあるんだぜ」と言う。
「俺はお前に出会って、お前から大事なものをもらったから。今、俺がこうして胸を張ってここにいられるのも帝人のおかげなんだ。こっちこそ、お前には感謝してる」
 優しい微笑みだった。
 亡き王妃に似た、美しい笑みだった。
 そしてその時、突然低い声がした。
「人の国の王子よ」
 誰の声か、一瞬殆どの者が判らずに戸惑った。だが帝人が自分を抱きかかえる存在を見上げて「静雄さん……?」と呼び、それによって地下に集まっていた者達は一斉に黒い翼の魔王を見る。
「夜の、王」
 静雄に呼ばれた正臣はごくりと唾を飲み込んで「なんだ?」と問う。
 月と同じ金色の瞳がじっと正臣を見つめ、一度だけゆっくりと瞬いた。
「見えない目と動かない足で、それでもお前は玉座に座る事を望むか?」
「……この国の王と国民がそれを許してくれるなら。命が続く限り、俺は俺の役目を果たしたい。俺は、この国の王になりたい」
「そうか」
 短く告げると、静雄はふわりと重さを感じさせぬ動きで正臣の前に降り立った。
「魔王よ、何をする……っ!」
 国王が魔術師達の制止を振り切って身を乗り出した。
「触るな! 私の大事な息子に何をする気だ!!」
 新羅も場合が場合ならばと、もしもに備えて聖剣を構える。その中で、帝人を一度見下ろした静雄は、いつかの夜、帝人にそうしたようにそっと正臣の目を己の手のひらで覆った。
 直後、静雄の手の内側で淡い光が生まれる。正臣がはっと息を呑んだ。
 そして光が収まり、静雄が手を退けると―――。
「……見える」
 正臣の両目が開いていた。しかしそこにあるのは空虚ながらんどうではない。鮮やかな黄色の眼球が二つ、瞼の奥に収まっていたのだ。
 帝人の目が青い宝石なら、正臣の目は黄色の宝石。それ程までに鮮やかな色を発する双眸で正臣は周囲を見渡した。
「あ、俺……目が、見えてる……っ」
 信じられないという表情で正臣が両手を持ち上げる。と同時に、今までとは違うスムーズな身体の動きに気付いて更に息を呑んだ。恐る恐る指を動かし、腕を動かし、そうして最後に全く動かなかったはずの両足で御輿の上から床の上に降り、その二本の足でしっかりと立ち上がった。
「治った……?」
 正臣の呟きはシンと静まった空間に広がっていく。
 彼の身体を治すために控えていた魔術師達は、驚きで声を失っていた。新羅は眼鏡の奥で目を見開き、それからゆっくりと微笑みを浮かべる。セルティは胸の前で両手を組み、言葉が無くても判るくらい喜んでいた。
 そして国王は、
「……っ」
 泣き崩れていた。
 悔しさや怒りなどあろうはずもない。自分のたった一人の息子が健康な身体を得たのだから。もうこれで緩やかな死に怯える必要はない。人の国の王としていつも威厳に満ちていたはずの顔が今だけはくしゃくしゃに歪んで涙を流していた。
 正臣はそんな父親を無言で眺めた後、再び静雄を見上げる。
「夜の王……これは」
「呪われし王子、と蔑まれるかもしれないな」
 低い声で静雄は言った。
「その目を、生まれ変わった身体を、魔王の呪いと蔑まれても構わないなら、その身体で生きていくといい。……人の王子」
 何度も正臣は手を握っては開き、そして足踏みをした。夢にまで見た自由に動く身体とようやく揃った五感だ。周囲の反応や静雄の言葉から察するに己の目が普通の人間の物とは趣を異にしているらしいとは判ったが、たとえ何色であっても、もし瞳孔が肉食の獣のように縦に裂けていたとしても、十分だった。
「正臣!」
 帝人が人間には持ち得ない息を呑むほど美しい青色の目で、正臣に腕を伸ばし、己より少し大きな身体の親友に抱きついて言った。
「正臣の目、とっても綺麗だよ! きらきら光って宝石みたい! 僕とお揃いだね!!」
「……お前とお揃いなら、そりゃもうすっげー綺麗なんだろうな」
 正臣は自由に動く両手で親友を抱きしめ返しながら、初めて目にした親友の細い体躯と美しい瞳に本心からそう告げた。
「ありがとう、帝人。これもお前のおかげだ」
 そうして帝人から手を離すと、次いで正臣は静雄にも頭を下げる。
「夜の王も……感謝する」
「お前が選んだ道だ。礼は必要ない」
 そっけなくそう言って、静雄は帝人を抱え直した。帝人も己を再び抱きしめる腕に抗う事なく、それが当然のようにすっぽりとその場に収まった。
 黒い翼が数回空打ちする。バサバサという羽音を聞きながら、誰もが「ああ、夜の王は森に帰るのだ」と思った。
「帝人君っ!」
 呼んだのは新羅。
 帝人が声のした方を向くと、聖騎士と巫女の夫婦が寄り添って立っていた。
「新羅さん、セルティさん……」
 ありがとう。ごめんなさい。そんな言葉では足りないんじゃなかと思うくらい、言葉にならない感情が帝人の中で渦巻く。最早嬉しいのか悲しいのか申し訳ないのかすら解らない。ひょっとしたら全部かもしれない。
「あの、僕……っ!」
「行っておいで」
 声が出せないセルティの肩を抱き、彼女の代わりとして新羅は言葉を発する。
「私達の愛しい子供。また来たくなったらいつでも来るといい。僕らは君を歓迎するよ」
「……ッ!」
 感謝すら音にならなかった。
 帝人は声の代わりに何度も何度も頷いてみせる。
 ありがとう。ありがとう。大好きです。
「っ……ま、また! 会いに来ます!!」
「ああ。いつでもおいで」
 微笑む新羅。ひょっとしたらそれは何もセルティの代弁者としてではなく、彼の本心もほんの少しばかり入っていたのかもしれない。それ程までに柔らかで、自然な暖かみを持つ微笑だった。
「……夜の王よ」
 次に言葉を発したのは国王だ。彼は息子の隣までやってくると、静雄を見上げてこう言った。
「これまでの事、許してくれとは言わぬ。それでも」
 一呼吸置く。そして人の国の王は魔物の王に告げた。
「心から、感謝する」
「国王、陛下…………父さん」
 正臣が父親を見上げ、吐息を漏らした。
 静雄は帝人を抱えたまま中空に浮かび上がり、徐々にその身体を透明にしていく。ついに城を去り、夜の森に帰るのだ。そして完全に姿が消える直前、静雄は国王を見据えて、
「……お前が国を選ぶ王なら。その手で素晴らしい国を築いてみせろ」
 その時、帝人は唐突に気付いた。
(ああ、そうだ。静雄さんも……)
 静雄も、もしかしたら人の王になっていたかもしれないのだ。
 そう思うとなんだか胸の奥が苦しくなって、帝人は静雄にぎゅっとしがみついた。
 言葉にならないならこうして態度で示せばいい。
 セルティに抱きしめられた記憶を思い出しながら帝人は何も言わず腕に力を込める。
 静雄はほんの少し月色の目を見開いたようだったが、やがて長い指で帝人の頭を撫でるような仕草をした。
 そんな仕草を見て、新羅とセルティは微笑みながら顔を見合わせる。
 そうして帝人と静雄はふわりと空中に溶け。一陣の風が優しく皆の頬を撫でた後にはもう、羽根の一つすら残さず彼らは地下から消え去っていた。