新羅が訪れたその日の夜、帝人は部屋のランプに火を入れず、窓の傍に座り込んで円になりきっていない不格好な月の明かりに照らされていた。
 記憶の封印が解けてから、気絶して誰かに運ばれるなど不可抗力だった場合を除いて、帝人はこの部屋にあるふかふかのベッドで眠ろうとはしなかった。もう大丈夫だと頭では理解していても、やはり上等な物で作られたベッドは屋敷で飼われていた時の事を思い出させて身が竦んでしまうのである。
「…………」
 絨毯が敷かれた床に座り込み、帝人は雑念を振り払ってただ一つだけ考える。おそらくこの城のどこかに囚われている静雄をどうすれば助け出せるのか、と。
 そして帝人は今夜、はっきりと言った。
「赤林さん、出てきてください」
 反応はない。
 しかし帝人の中の確信は薄れる事なく、森で出会ったもう片方の魔物の名前を呼び続ける。
「赤林さん」
 何度目かの呼びかけの後、ゆらりと帝人の視界の端が歪んだ。自分と同じく月光を受けて佇むその姿に帝人の青い目が大きく見開かれる。
「赤林さん!」
「やあ、帝人。久しぶりだねぇ」
 青白い光に照らされるのは赤紫色の髪と瞳、右目の真上を走る傷、そして飄々とした風体。時折ゆらゆらと揺れて向こう側が透けて見えるというとても不安定な状態だったが、それは確かに帝人が望んだ赤林の姿だった。
「おひさし、ぶりです……」
 あの森で静雄と共に過ごした知り合いだ。帝人の声は押し殺してきた感情が発露するように震えてしまう。
 そんな帝人の様子に赤林は小さく苦笑し、存在感の薄い手でぽんぽんと子供の頭を撫でた。
「まさかまた会えるとは思ってなかったよ」
「……どうしてそんなこと言うんですか」
 慈しむ仕草とは裏腹に赤林は突き放すかのような物言いをする。帝人は眉根を寄せ、どこか非難を含んだ声で小さくそう問いかけた。
 赤林は再び苦く笑う。
「住む世界の問題さ」
「僕が記憶を失くしたから?」
「そうとも言うねぇ」
「そんなっ」
 赤林の返答に帝人は身を乗り出して声を荒げた。
「そんな、そんなの無いですよ! だって記憶を奪ったのは静雄さんなんでしょう!? 僕は忘れたくなんかなかった! 静雄さんが記憶を封じなければ絶対に忘れなかった! 覚えていた! 覚えていたかったのに……!」
 どうして記憶を封じたのか。共に在りたいと望む事すら考えてはいけないと、静雄はそういうつもりだったのか。
 考えれば考えるほど胸が苦しくなる。
 目頭が熱くなって帝人はぎゅっと瞼を下ろした。
「……僕は、いらない子でしたか。迷惑な子供でしたか?」
 静雄は帝人に優しくしてくれていた。でもそれは静雄がただ優しいからであって、決して相手が帝人だったからという訳ではない。そんな風にしか思考が働かず、胸の痛みは増すばかり。無言を貫く赤林がただ一言肯定を返せば、それだけで帝人の胸は引き裂かれてしまうかもしれない。それ程までに苦しかった。
 だがここで止まる訳にはいかないのだ。そう思い直し、帝人は瞼を押し上げる。
 たとえ静雄達が帝人の事を迷惑に思っていたとしても自分はもう一度あの月と出会いたい。
 再び青い目で赤林を見つめた帝人は、自分の事ではなく静雄の事を口にした。
「静雄さんが捕まってしまいました」
「それはおいちゃんも知っているよ」
 頷く赤林に帝人は問う。
「魔物は『夜の王』を助けに行かないんですか」
「助けに、か……。それはちょっと無理な話だねぇ」
 そう言いながら赤林はゆらめく自分の姿を指差した。
「この姿が見えるだろう? 今、この国には厳重な結界が張られている。帝人がいる城の地上部も、王が捕らえられているであろう城の地下も。おいちゃんだってそんな結界の網の目をくぐるようになんとか姿を現しているにすぎなくてねぇ。この無理もいつまで続くか分からない状態なんだよ」
「つまり魔物は静雄さんを助けられない……?」
 助けたくても助けられないのか。そんなニュアンスとして受け取り、帝人が落胆の中で小首を傾げる。しかし帝人の様子に赤林は首を横に振った。
「助けようと思えば助けられる。所詮人間の魔力では一国を覆うほど巨大な結界など作れんよ。綻びを見つければそこから攻め込む事も難しくはないねぇ。そのまま魔物らしく出会う人間を順に喰らっていけば、いずれは王が囚われているこの城の地下にまで到達できるだろう」
「じゃ、じゃあなんで助けようとしないんですか!?」
 帝人に優しくしてくれたこの国の人達が魔物に喰われても良いと思っている訳ではない。けれども助けられるのに助けようとしない魔物達の考えも帝人には理解できなかった。
 だって静雄は王なのだ。あの魔物の森の王様。美しく、気高く、優しい、魔物の王様。なのにどうして他の魔物は彼を助けようとしないのか。非力な帝人とは違う、助けられるだけの力を持っているのに。
 まさか人間を喰いたくないと思っている訳でもあるまい。夜の森で帝人が魔物に襲われなかったのは静雄がそう望んだからだ。静雄が帝人を喰わないと決めたから他の魔物も帝人に手出しできなかった。ただ理由はそれだけで、もし静雄があのような判断を下さなければ、帝人は今ここで生きていなかっただろう。
 と、そこまで考えた帝人はふと嫌な事に気付く。
 まさかと思って赤林を見れば、彼は心得たようにゆっくりと首を縦に動かした。
「静雄さんがそう望んでいる……?」
「人間はとことん我らの王を舐めきっているみたいだねぇ」
 へらへらと笑いながらも赤林の声にはプライドを傷つけられた怒りが混じっていた。
「たとえ新月の夜に襲撃を受けたからと言って、夜光の君がこうも容易く捕らえられると思ってるなんてねぇ。あれは王だぞ? 我ら魔物の頂点に立つお方だ。それを人間如きが捕らえられるはずないだろう。逃げようと思えばいつでも逃げられた。殺そうと思えばいつでも国の人間全てを殺す事ができた」
「……でも静雄さんはそうしなかった。それが静雄さんの意思?」
 絶望に打ちひしがれながら帝人は赤林の言葉を継ぐ。
「王の意思は絶対だよ。おいちゃん達がそれに逆らう事はできない」
「ッ!!」
 痛みを耐えるように帝人は胸の辺りの服を握り締めた。これで万策尽きたのか。静雄は助けられないのか。
「それでいいんですか……? だって静雄さんは王様で、」
「夜の王は不滅だよ」
「でも!」
 魔物の王が代替わりをする事はかつて赤林の口から聞いていた。死ぬか、次の王に代を譲るか。そうすれば夜の王は次の世代に受け継がれる。しかしそれは『夜の王』の不滅であり、『静雄』が存在し続ける訳ではない。そんなのは帝人の望んだものではない。
「現王が倒れても、たとえ魔力が人間に搾り取られたとしても、それらはゆっくりと時間をかけて大地に集まり、再び夜の王は現れるのさ。今までずっとその仕組みで動いてきた」
「だからって静雄さんが死なない訳じゃない! 赤林さんは静雄さんを見捨てるんですかっ!?」
 赤林は答えなかった。黙ってじっと帝人の青い目を見返している。静雄が描くあの絵の青と同じ色を。
 月の光を受けた青は爛々と輝くようだった。いや、“よう”ではなく本当に輝いていた。宝石が光を反射するように、『夜の王』静雄の力が込められた双眸は人に有り得ぬ色と光でそこに収まっている。
「……おいちゃんにはどうにもできないよ」
 やがて赤林はぽつりとそう言った。
 彼の答えに帝人は唇を噛む。
(じゃあ)
 自分には一体何ができるのだろう。
 静雄には記憶を消され、想う事すら許されなかった身だ。ひょっとしたら自分は彼にとって本当に迷惑以外の何者でもなかったのかもしれない。優しいから傍にいる事を仕方ないと思ってくれていただけで、帝人が何かするのを望んでなどいないのかもしれない。
 静雄に好かれていない。静雄に嫌われているのかもしれない。
 そう考えただけで胸の苦しみは際限を知らぬほど大きくなった。屋敷を逃げ出した頃にはまだ知らなかった感情だが、今の帝人には朧気ながらも輪郭を捉えられるようになっている。
 帝人は屋敷を出て、夜の森で過ごして、この城で多くの人に囲まれて。そうして多くの事を知った。知ったからこそ、今こんなにも胸が痛い。他人から愛される事を知った帝人はまた、他人から愛されない事への恐怖や悲しみも知ってしまったのだ。けれどこの変化を無かった事にしたいとは思わない。
(今の僕だからこそ、痛いくらいに静雄さんを助けたいって思うんだ)
 好きなんだ。好きだから一緒にいたいんだ。助けたいんだ。こんな所に囚われていてほしくない。
 獣だった子供はもういない。帝人は人間になってしまった。
(でも人間の僕は静雄さん以外にも大切に思う人ができてしまって)
 セルティ、正臣、新羅、他の多くの人々。彼らに後ろ足で砂をかける真似などできるのか。
(どうすれば―――)
 あの優しい人々に迷惑をかけて、静雄の望んでいない事をして。ただ助けたいと願う帝人の思いだけで動いて、一体誰に何の特があるのだろう。
(僕、は)
「ああ、そうだ。帝人」
 決意が大きく揺らいでいた帝人の思考を遮るように赤林が名前を呼んだ。
 そして懐から取り出した何かをこちらに差し出す。
「これは……?」
「一月前、おいちゃんは夜光の君の命令で森を出ただろう? それはこれのためだったのさ」
 差し出された手の上には細くて黒い物が一束乗っていた。
「髪の毛?」
 黒くて艶のある、おそらくは人毛。どこかで見たような気がすると共に、自分の身体があまりこれを触りたくないと訴えているのが解った。なので手を伸ばす事はせず、じっと見つめて記憶を浚う。
「見覚えはあるようだねぇ。そうだとも。これはお前を飼っていた屋敷の主人のものだからねぇ」
「!? ……と言う事は」
 顔を上げて青い目を向けた帝人に赤林は苦笑を返す。
「坊が殺したと思っていた男は今もピンピンしてるよ。これが証拠だ。にしてもあの若造は本当に気に喰わない人間だねぇ。おいちゃんを見るなり恐れるどころかナイフを抜いて応戦してきたんだから」
 それでも軽く蹴散らしてやったがね、と笑いながら赤林は手を引っ込めた。帝人が受け取りたくないと思っているのを察したのだろう。
「これで帝人は誰も殺していないと証明された。もう過去の事を気に病む必要はない」
「ッ……!」
 帝人は息を詰まらせる。
 泣き出しそうなくらい幸福だった。いや、最早目頭の熱さは誤魔化しようがない。下を向き、嗚咽を噛み殺す。
 静雄は帝人のために赤林へ命令したのだ。帝人が誰も殺していない事を証明するため。逃げる際にナイフで屋敷の主の腹を刺した事はもう変わりようがないけれど、それでも殺人だけは犯していないのだと。静雄には何の利益もないはずなのに、彼は帝人を案じてわざわざ赤林を動かした。
(嗚呼)
 どうして彼はこんなにも優しいのだろう。ちっぽけな人間の子供にどうしてここまでしてくれるのだろう。
 会いたい。今すぐ彼に会いたかった。
 誰かの迷惑だとか誰かの利益だとか、そんなものは頭の中からすっぽ抜けて、ただ静雄に会いたかった。何を言えば良いのかも解らないけれど、帝人はやっぱり静雄に会いたいと強く強く思った。
「じゃあ、おいちゃんはそろそろ行くよ」
「えっ」
 顔を上げた先の赤林の姿は先刻よりも向こうが透けて見えている。
「そろそろ引き上げないと人間に見つかっちまうからねぇ。……帝人、運命が許せばまた会おう」
 その台詞はまるでもう二度と会う事がないかのように聞こえた。帝人は無意識に嫌だと首を横に振る。しかし赤林は苦笑を漏らすだけで何も言い返してはくれない。
「ま、待って赤林さん! 一つだけ教えてください!!」
 じわじわと消えゆく赤林に帝人は必死の思いで問いかける。問答を続けている限りは赤林も消えずにいてくれるとでも言いたげに。現実はそう甘くない。けれども問いの一つに答える程度の余裕なら持っている赤林が「なんだい?」と首を傾げる。
「赤林さんにとって大切なのは静雄さんなんですか!? それとも『夜の王』なんですか!?」
「……後者だよ」
 ふっと微笑んだ赤林に帝人は言葉を失う。やっぱり、という思いはあった。けれど聞きたい答えではなかった。
 視線の先では見る間に赤林の姿が透けていく。そしてもう輪郭さえあやふやになった頃、
「でもね、おいちゃんだってあの青い絵は何物にも代え難く、美しいと……そう思うよ」
「っ、あか……」
 粒子の一つも残さず赤林が消える。
 静寂が戻った部屋の中、帝人はしばらく黙り込んでいた。子供を照らすのは月明かりばかりで、窓から見上げたそれは不完全な円。けれどもそれは静雄の瞳と同じ色を宿している。
 涙を拭い、帝人はその不格好な月を見つめた。
「―――……僕は」