それは、王妃の国葬を終え、聖剣の巫女が代替わりを迎えてすぐのこと。

 王城へ向かう野道だった。牧歌的すぎるほど青空は澄んでいた。
 だがそんな青空の下、一台の立派な馬車が横倒しになり、カラカラと意味もなく車輪を回している。
 不運な事故によって壊れてしまった馬車から一人の女性の手を引いて、青年と少年の間にいるようなその人物は黒縁眼鏡の奥で黒い瞳を輝かせながら問いかけた。
「ねえ、私と一緒に来る気はないかい?」
 返答はない。……否、返答の“声”はない。
 青年の問いに女は羊皮紙を突き出して、その上に文字を浮かび上がらせた。
『私のこの姿を見た上でその台詞とは……気でも違っているのか、お前は』
 問いを返され、青年は女の姿をじっと見つめる。そして口元に弧を描いたまま肯定を返した。
 青年が嬉しそうに、むしろうっとりと表現してもいいくらいの表情で見つめる先。声無き返答をした女には、
『まったく。あのヴェールが何のためにあったと思ってるんだ』
 首から上が無かった。
 倒れた馬車は代替わりしたばかりとされている聖剣の巫女を運ぶためのものである。ゆえに黒を基調とした巫女の服に身を包んでいるこの女は<聖剣の巫女>。
 巫女はいつの代でも頭部を黒いヴェールで覆っており、神殿の一部の者と聖騎士――長らく不在だが――以外はその顔を見る事が許されない。しかし今、そのヴェールが取り払われた場所には、日の元に晒される顔どころか頭部そのものが存在していなかった。
 血の赤ではなく黒い切断面を見せる首からはふわりふわりと黒い煙が立ち昇っている。
 聖剣の巫女とされる女の、決して人間とはいえないその姿を目にしながら、青年は恐れるどころか離さないとばかりにぎゅっと手に力を込めた。
「我が国の<聖剣の巫女>がまさか人間じゃなかったとはね、僕も驚天動地の気分だ。でもそれがどうでもいいくらい今の私は興奮している。ああ、自分がそうなるとは思ってもみなかったよ。まさか、まさか、私が誰かに一目惚れするなんて!!」
 感極まったかのように、青年の目元には涙すら浮かんでいる。
 聖剣の巫女―――セルティ・ストゥルルソンは信じられない思いで、目ではない何かで青年を見つめた。
「君はあれかい? 文献で読んだ事があるよ……。そう、確かデュラハンという妖精が首の無い女性の姿をしていたはずだ」
『よく知っているな。……まあ首無しの姿を見られたのだから今更隠しても意味はないだろう』
 気付けば強ばっていた肩から力を抜き、セルティは答える。
『私は人間ではない。お前の言う通りデュラハンだ』
「となると、ひょっとして今までの<聖剣の巫女>はずっと君が……?」
『ずっとじゃない。ここ百年程は私の代だったがな。その前……かつて聖騎士がいた頃は別のデュラハンが巫女を務めていたよ』
「なるほど。でも人間とは違い寿命の長さすら判らない君達妖精が巫女を務めていたと言うなら、顔を隠したままなのも頷ける」
 聖剣の巫女は次の聖騎士が現れた時か王妃が死亡した時、もしくは巫女自身の命が失われた時、そのどれかの場合に代替わりが起こる。しかし真実、巫女を務めているのは数がそういる訳でもない一方で寿命も判らない――ひょっとしたら不老不死かもしれない――妖精である。長らく聖騎士不在の中、王妃が死亡するたびに巫女の代替えなどしていられないだろう。ゆえに代替わりを行った事にして、顔を隠したまま何代分かの巫女を同じデュラハンが務めあげてきたのだ。
『先に言っておくが』
 納得顔の青年の眼前に羊皮紙を突き出し、セルティはきっぱりと言った。
『<聖剣の巫女>の真実を公言しようと思うな。これは神殿の最重要機密だ。もし誰かに話したとしたらお前の首は無くなるものと思え』
「その辺は大丈夫だよ。いくら私でもそこまで馬鹿じゃない。巫女の真実を明かしてしまえば、君が魔物ではなく妖精だと説明しても大きな混乱は避けられないだろうからね。それに何より他人の明かしてしまうにはあまりにも勿体無い」
『どう勿体無いのかは理解できないが、公言しないと言うならそれで良しとしよう。さあ、もう行け。気絶した御者達もそろそろ目覚める頃だ』
 セルティは取り払われたヴェールを拾い上げ、再び頭が存在すべき空間にそれをかける。名前も知らない青年との邂逅はこれで終わりだ。余程の事がなければもう会う事もないだろうと思いつつ、彼女は青年に背を向ける。
 しかし、
「まだ君は俺の最初の問いに答えてくれてないよ」
 へらへらとしているのにどこか有無を言わせぬ物言いで青年がその背に声をかけた。
 セルティは足を止めて振り返る。そしてもう何度目かになる羊皮紙を相手の方に向け、
『私はいつか訪れる聖剣を抜く者―――聖騎士のものだ。だからお前と行く訳にはいかない』
 声無き声で告げ、そのまま相手の返答を聞かずに離れていく。

 たった一度の邂逅。
 大きな変化の始まりは、彼女曰く偶然、彼曰く運命のその出会いだった。



□■□



 王城と神殿をつなぐ石畳の廊下を、音を立てて直進する影があった。
(どけっ!!)
 最早意思伝達のための羊皮紙すら出さない。気迫だけで扉の前の門兵達を下がらせ、そのドアを開ける。ランプなどの照明器具が一切無い、ただ部屋の中央でほの白い輝きを発する大きな魔法陣だけが光源のそこに何人もの魔術師達が集まっていた。
「せ、セルティ様……!」
 魔術師の一人がセルティの気迫に圧し負けて驚愕と脅えの混じった声で名を呼んだ。
 ざわめく魔術師達を前にしてセルティは羊皮紙に文字を浮かび上がらせる。
『これは一体どういう事だ! 誰が指示をした!? こんな悪趣味な真似を!!』
「国王陛下よ」
 魔術師達の集団から一歩前に出てそう答えたのは、魔術師団長の矢霧波江であった。
『波江嬢! 貴女までこんな悪趣味な魔術に荷担しているのか!!』
「これは命令よ。悪趣味も何も関係ないわ」
 きっぱりと言い切った波江にセルティは肩を震わせる。部屋が暗いおかげで誰にも判らなかっただろうが、ひょっとすると怒りの所為で制御し損ねた黒い煙が感情と連動してヴェールの下から溢れ出たかもしれない。
『いいからやめるんだ! 即刻、この悪趣味な“覗き”を!!』
 セルティが魔法陣の中央に乗り込んでいく。集まっていた通常の魔術師にその歩みを止める事はできない。
 聖騎士である新羅や聖剣の巫女であるセルティには生来の身分以外にも特権が与えられている。国事について、時には国王側近の大臣にさえ勝る発言力を持っているのだ。
 したがって、この場でセルティとまともに会話できるのは魔術師団長である矢霧波江のみ。波江は怒り心頭のセルティとは正反対の、普段通りの冷めた表情で静かに言った。
「無理に魔術を止めようとは思わない事ね。きちんとした手順を踏まないとあの子供の身にも何が起こるか判らないわ」
『だからと言ってこのままお前達に帝人の記憶を覗き見る権利はない』
 魔術を解こうと動かしていた指先をぴたりと止めてセルティは告げる。
 魔法陣に近付いたセルティには既にこの魔術によって盗み見られている帝人の記憶がいくらか見えてしまっていた。多くの悲しい現実とほんの少しの幸せを垣間見ながら、セルティは声があっても怒りと悲しみと悔しさでまともな音になっていなかっただろう状態で外に通じる扉を指差した。
『お前達は今すぐこの部屋を出て行け。この魔術が終わるまで、あとは全て私一人で見届ける。もう誰にもあの子の記憶は穢させない』
 セルティの強い剣幕に波江は溜息を一つだけ零し、配下の魔術師達を伴って部屋を出て行った。
 扉が閉まり、再び魔法陣のみの明るさで照らされた薄暗い室内にて、セルティは次々と己に流れ込んでくる帝人の記憶に思わずくずおれそうになる。
 セルティが慌ててこの部屋に駆け込んできたのには理由があった。短い気絶の後、目覚めたかと思うと突然暴れ出した帝人から微弱な魔力の気配を感じたのだ。妖精という人よりも魔力を関知しやすく、また最高の学問を修めたセルティには力の流れも何のための魔術なのかも容易く解ってしまった。この魔力が流れていく先で何者かが帝人の記憶を読んでいる、と。
(帝人、帝人……!)
 痛い。苦しい。悲しい。怖い。
 自分で自分を抱きしめながらセルティは帝人の記憶を正面から受け止める。
 ずっと屋敷に閉じ込められていたから文字は知っていても貨幣の使い方は知らなかった。
 人に触られるのはきっととても苦手だったに違いない。記憶がない時は無自覚。記憶があっても意識的な拒絶は許されていなかっただろうけれど。
 帝人を守り慈しんでいたのは人ではなく魔物だった。とてもとても解り辛い、けれど確かなもので。
(これがお前の生きてきた道か)
 記憶の再生が終わると同時にセルティはその場で座り込む。そしてしばらくの間、耐えるようにじっとその場にうずくまっていた。



□■□



 帝人の記憶が戻ったと聞いて、新羅もまた城に駆けつけた。大事な妻は少年の記憶を読んだ影響で少々ダウンしてしまい、今は家で休んでいる。代わりに帝人の部屋を訪れた新羅は、扉を開けてまず最初に―――
「おや? 結構平静でいるもんだね」
 窓枠に手を添えて外を眺めていた帝人に声をかけた。
 記憶を思い出した直後の様子は話に聞いていたのでもうちょっと暴れるか何かするかと思いきや、今こうして目にしている帝人は凪いだ海のように静かなものだ。
 また記憶の有無もその人物の性格や言動に影響してくるはずなので、自分達がこれまで一緒に過ごしてきた『帝人』とはガラリと変わってしまってもおかしくないのだが……。新羅の目にはさほど帝人が変化したようには見えなかった。
 しかし、
(……ん? ああ、やっぱり違うか)
 振り返った帝人の青い目を見据えて新羅は胸中で独りごちる。
 これまで新羅達に対して好意しか抱いていなかった宝石のような青い目に今は別の感情が混ざっていた。今の帝人が凪いだ海のように見えるのは飽和した感情が子供の身体の中に全て留められているからに過ぎない。針でつつけば簡単に破裂して怒濤のように怒りも悲しみも曝け出すだろう。
「記憶を取り戻した今の気分はどうだい?」
「決して良いとは言えませんね。でも思い出せて良かったとは感じています」
 窓枠から手を離し、帝人はゆっくりと新羅に歩み寄る。そしてじっと新羅を見据え、
「静雄さんはどこですか」
 その声を聞いた瞬間、新羅は理解した。
 城での穏やかな生活により、かつて壊れていた帝人の心もいくらか本来あるべき形に戻っていたはずだ。しかし正常な形に戻った所為で“飼われていた頃の記憶”には随分と苦しめられているのは想像に難くない。だがその苦しみも何もかも押し殺し、帝人が一番に優先したのがこの問いかけであった。
 帝人が何よりも求めているもの。それを示す問いかけに新羅は眼鏡の奥で僅かに双眸を細める。
 少年の過去を妻から聞いた新羅には“静雄さん”が一体誰を……『何』を示しているのかも解っていた。
 どうして人間が魔物などを求めるのか、慕うのか。普通の人ならば理解できないだろう。しかし新羅は違う。彼もまた人ではない存在を愛しているから。“彼女”は魔物ではなく一応人間には害を及ぼさないとされる妖精であるけれども、やはり人外である事には違いなく、新羅の想いが本当の意味で他人に理解される日はおそらく来ないだろう。
 けれど、と新羅は胸中で独りごちる。
 気持ちを理解できるのとそれに協力するのとはまた別の次元の話だ。
 新羅が動くのはそれを愛しの妻が望んだ場合のみ。彼女が何かを求めない限り新羅が動く事はない。たとえ彼女と一緒に可愛がっていた子供が全ての感情を押し殺した目でこちらを見ても、嘆願しても。新羅の心は揺るがないのである。
 黙ったままで静雄の居場所を答えない新羅に、帝人は落胆したようだった。殊更ゆっくりと瞼を下ろし、静かな声で告げる。
「出て行ってください」
「私の顔なんて見たくもないかい?」
「……どうでしょう」
 帝人は新羅から視線を逸らして答えた。
「セルティさんが僕を大切に思ってくれているのは解ります。新羅さんもセルティさんがそうだから僕を大切にしてくれていたのも。でも」
 いったん言葉を切った帝人は再び新羅を見据える。滲み出る怒りは相手を射るような強い視線となり、子供が抱える感情の一端を新羅に晒した。
「静雄さんの絵を燃やした貴方を僕は憎まずにいる事なんてできない」
「……」
 子供の記憶によると魔物の王が描いた絵は大層美しいものだったらしい。だが帝人が怒っているのは“美しい絵”が燃やされたからではない。“魔王の絵”が燃やされたからだ。
 魔王の館を燃やした炎は新羅に同行した魔術師団の誰かが放ったものであるが、新羅が討伐に向かわなければその火が放たれる事もなかった。ゆえに絵を燃やしたのは新羅と言っても間違いではない。
「そう」
 短く答えた後、新羅はへらりと笑みを浮かべる。
「じゃあ僕はこれで失礼するよ。ああでも、次に僕じゃなくセルティが来た時には今みたいに憎んでいるとか言うのは控えてくれると嬉しいな。彼女はとても繊細で優しい女性だから」
「わかっています。僕もあの人が大好きなのは事実ですから」
 大好きな人を、大切にしてくれた人を、悲しませたいとは思わない。
 そんな帝人の言葉に新羅は満足そうな顔で頷き、ドアノブに手をかける。彼は最後にちらりと帝人を一瞥すると、
「私はセルティが一番だけど、決して君の幸せを願っていない訳じゃないよ」
 帝人の顔が困ったように眉根を寄せる。憎みたいのに憎みきれない。そんな感情がありありと示されていて、新羅は小さく苦笑した。
「またね」