『帝人、気分はどうだ?』
まる一日掛かって解呪の魔術を受けた帝人にセルティがそっと問いかける。優しく背中を撫でながらベッドの上にうずくまる子供を労り続けていた。 「あたま、いたい……です」 刺すような痛みではなく、脳の奥から染み出すようにズキズキとくる痛みに帝人はすっかり参ってしまっていた。にも拘わらず記憶を封じる夜の王の呪いは未だ解けていない。 解呪の魔術を取り仕切った魔術師団長の矢霧波江は己の力が及ばなかった事に対して悔しさ半分、やっぱりという気持ちが半分という顔でセルティにこう言った。 「人としてやれるだけの事はやったわ。記憶封じの魔術はもうかなり綻んでる。あとはその子の気持ち次第ね。思い出したいと強く願うか……、もしくは何らかの手がかりを得るか。そうすれば綻びから封をこじ開ける事ができるかもしれない」 『無理はするな。今はゆっくり寝るといい』 「は、い……。でも、寝ると夢を見るんです」 『夢?』 頭痛に苛まれながら夢と現の狭間を行き来する帝人は、浅い眠りの中で夢を見ていたらしい。 何を見たのか覚えているかとセルティが問えば、帝人は小さく頷く。 「誰かが言うんです。忘れてろ、忘れてろって。思い出すなって。ぼく、その声に嫌だって言うんです。でも声はずっと忘れてろって……。その声を聞いたら余計に思い出さなきゃって思うのに」 静かに帝人の話を聞くセルティ。 彼女の纏う雰囲気に帝人はぽつりぽつりと言葉を続けた。 「思い出したい。思い出さなきゃいけないのに。……なんで忘れてるの。思い出せないの。なんで」 うっすらと開かれていた青い双眸が再び瞼の下に隠れ始める。魔術を受けた影響で帝人の身体はまだまだ眠りを欲しているのだ。 セルティはこれ以上話させるのも良くないだろうと判断し、羊皮紙に文字を浮かばせるのではなくそっと子供の双眸に手を添えて視界を閉ざした。 次の日、すっかり目を覚ました帝人の部屋に珍しい客人が招かれた。 「ああ、久しぶりだ。そう、確かに君だ」 恐る恐る王城の絨毯を踏んだ彼は小太りの身体に質素な上着を纏っており、随分と恐縮した様子である。だが帝人の姿を目にすると頭の上に乗っていた帽子を取って胸に当て、顔を綻ばせた。 「覚えているかね。ええと、わたしは君と夜の森で会ったのだが……」 「?」 そう言われても記憶のない帝人には判らない。 小首を傾げてみせると、男は「記憶がないというのは本当だったんだね」とまるで自分の事のように悲しんでくれる。 『シーラさん、貴方が知っている範囲で構わないから帝人の事を話してくれないだろうか』 「はい、分かりました。セルティ様」 この場に同席していた<聖剣の巫女>セルティに頼まれ、男―――シーラはこくりと頷いた。 「わたしは狩人でしてね、いつもは夜の森の近くで仕事をしているんです。けれどある日、わたしは間違って夜の森に迷い込んでしまった。だがどうしようかと難儀していたわたしに救いの手が差し伸べられた。それが君です」 「……ぼく?」 「ええ。君は森に迷い込んだわたしに、川に沿って行けば森を出られると教えてくれましたね。おかげでわたしは魔物に襲われる事なく帰る事ができたんです」 「ぼくが、教えたんですか?」 「そうですよ。自分は魔物ではなく帝人だと名乗って」 「みかど……」 (僕は帝人って言います) ズキリと頭が痛んだ。木霊するのは誰の声だ。自分のような、自分ではないような。そんな声に帝人は顔をしかめそうになる。だが痛みを堪えて帝人はシーラの話の続きに耳を傾けた。 「それに君は魔除けだと言って青い花の雄しべをくれました」 「あおい、はな」 鸚鵡返しに言葉を発した帝人へシーラは頷いてみせる。 「そうだ。まるで蒼い炎のような、とても美しい花だった。でもそれを持つ君の手は血で汚れていましたね。あの時は恐怖ばかりが先に立って君を気遣う事もできなかったが……もう怪我は大丈夫かい?」 「あ、……だいじょ、ぶ」 切れ切れにそう答えるが、帝人の脳裏には記憶にないはずの青い花の姿がフラッシュバックしていた。形は百合に似ているが、色は帝人の双眸のような――― 冷や汗が流れ落ちる。心臓がドキドキと早鐘を打ち、帝人は無意識にごくりと唾を飲み込んだ。 「それなら良いんだが……」 ほっとしたようにシーラは息を吐く。 「森を出る道を知り魔除けの道具も持っている君は、わたしと一緒に森を出ようとしなかったから、怪我の事もあって気になっていたんです。聖騎士様と魔術師団の皆様が救出に向かってくださって本当に良かった」 「ぼくは、森を出ようとしなかった……?」 「そうですよ。確か持っていた青い花を誰かに届けなくちゃいけないと言っていましたね。誰だったかな…………ああ、そうだ。たしか『シズオさん』と。君はその人に花を持っていくのだと言っていた。人間の名前だったから君以外にも誰か人がいるのかと驚いたんです。ところでその『シズオさん』も君と一緒に救出されたんでしょうか? 町に伝わってくる話では君の救出劇ばかりでもう一人の事は……」 帝人ともう一人の『人間』を心配してシーラの眉間に皺が寄る。だが帝人はもう彼の様子に気を配る事ができなかった。 頭の中で頭痛と共に押し寄せるもの。 青い花。そして、『シズオ』という名前。 「しずお……しずお。しずお、さん?」 綻びが広がる。名前を呼ぶたびに気が逸る。急げ、早く、思い出せ、と。 「おや、ちょっと失礼。あの時の君は確か黒い目をしていたと思ったんだが……。今は綺麗な青い目になっていますね」 帝人の顔を覗き込むようにしてシーラは双眸を瞬かせた。 人には有り得ない宝石のような深い青の目は魔王の術によって変化したものだと推測されている。と言う事は、青くなる前―――シーラが帝人と出会った時はまだ魔王の記憶封じの呪いがかけられていなかったという証拠。 だがそんな事は帝人の意識に残らず、ただ色に関する情報のみが何度も何度も繰り返された。 (黒い目? 今は青くて……) 決して黒も嫌いではなかった。けれど夕暮れの中、水面に映った自分の目が赤く染まって見えて――― 「……や、だ」 『帝人?』 一歩あとずさった帝人の名をセルティが呼ぶ。しかし差し出された羊皮紙は帝人の目に映っていない。 羊皮紙どころか子供は何も見ていなかった。ここではない何かを見、ここにはいない誰かを求めている。 「や、……やだ。いやだ。たすけて、たすけて……ぼくは…………『僕』は、あ、あ、あああああああああああああああああああああああああ!!!!」 頭が割れそうなほど痛い。 喉が裂けるのも恐れず帝人は叫んだ。まるで断末魔の叫びのように。 帝人は吐いた。吐く物が胃液だけになっても、喉が焼けるような痛みを発しても。ぼろぼろと泣いて、涙も鼻水も訳が分からなくなっても。 背中をさすってくれたセルティの手を振り払って身体を丸め、一気に襲いかかってきた記憶の濁流に苦しみながらもそれらの全てを追体験する。 夜の森に入る前。夜の森に入った後。 黒髪と赤い目を持つ屋敷の主人。帝人はそこで何をしていたのか。何をされていたのか。窓から見える庭。正臣とよく似た庭師見習いの少年。血塗れのナイフ。笑う主人。刃の重み、金属が肉を裂く感触。ジャラジャラと鳴る鎖。逃げ出した月夜。足を切り裂く下草の痛みと、流れる血の温かさ。そして、 二つの美しい満月。 彼と出会い、自分は初めて幸せを手に入れた。夜の森での生活は、あの魔王の元で送った生活は、帝人に初めて与えられた『幸せ』だったのだ。 自分は大切にされていた。人間に虐げられてきた帝人を彼らは魔物として有り得ないほど丁寧に優しく扱ってくれていた。 何も強いず、帝人がしたいままに。思うままに。 唯一帝人を食べる事だけはしてもらえなかったが、それは壊れた帝人にチャンスを与えるためだったのかもしれない。簡単に命を投げ出して終わってしまわぬように。おかげで帝人は幸福だった。魔王の、静雄の傍で。赤林にも見守られながら初めて自由に“生きて”いた。 (それを、忘れてろって言うんですか) いくら静雄の言葉だからって、そんなもの承知できる訳がない。 (静雄さん……) 忘れるものか。 (静雄、さん) 忘れてやるものか。 (ふざけんな) ギッと、ここにはいない魔物の王を睨み付けて、帝人は叫んだ。 「誰が忘れてやるものか! 静雄さんの馬鹿野郎ぉぉぉおおおお!!!」 そしてセルティが驚いてビクリと肩を震わせると同時、記憶の封印が完全に解けた帝人は意識を失ってパタリと倒れ伏した。 □■□ 一方その頃、王城の地下。 刻一刻と魔力と生命力を搾り取られていく中で、静雄はぼそりと呟いた。 「馬鹿はお前だ。……帝人」 ――― そのまま優しい幸福の中に浸かっていれば良かったものを。 声は小さく、その空間には魔物の王以外誰もおらず。静雄の呟きを耳にした者はいなかった。 |