『おや。今日も王子の所に行ってきたのか』
 ちょうど目的の人物が寝泊まりする部屋の前で帝人と鉢合わせしたセルティは声の代わりに羊皮紙へとその言葉を浮かび上がらせた。
 内容を読んだ帝人は「はい!」と頷き、セルティと共に部屋へと足を踏み入れる。
 このところ帝人はよくこの国の王子の所に顔を出しているようだった。徐々に朽ちゆく身体という酷な運命を背負わされた王子を前にして帝人がどう反応するのか心配ではあったが、こうして本人が楽しそうに笑っており、己のそれが杞憂だった事にセルティは胸を撫で下ろす。それにまた王子―――正臣の方も帝人と交流するようになってから無理に明るく振る舞う事が少なくなってきていた。帝人といる時や帝人の話を新羅やセルティとしている時に彼が浮かべる笑顔は、これまでの無理に作った物ではなく、自然と浮かぶ物になっていったのだ。
 セルティと帝人の二人は大きな窓の傍に置かれた椅子に腰掛け、なんとはなしに外の景色へと目を向ける。
 この部屋からでも活気溢れる町を目にする事ができた。また近いうちに帝人をあそこへ連れて行ってやろうと思いながらセルティが横を見る。しかし帝人本人の青い双眸は町ではなく空を見上げて嬉しそうに細められていた。
『帝人?』
 とんとん、と指先で相手の肩を叩くセルティ。
 それでようやく青い宝石を埋め込んだかのような瞳が彼女に向けられる。
『何を見ているんだ?』
 首を傾げながら羊皮紙にそう表示させると、帝人はにこりと笑って己が見つめていた物を指差した。
「月です」
『月?』
 言われて指先を辿っていくと、確かに青空の中に白い月が浮かんでいる。夜空に輝く黄金の月は美しいが、これもまた悪くはないとセルティは思った。
『帝人は月が好きなんだな』
「はい。きらきら輝く月もあの白い月も大好きです。なんだかちょっと懐かしい感じがして……」
 懐かしい。その単語にセルティは口ごもった。
 声を持たない彼女に口ごもるという表現は似合わないかもしれないが、それでもやはり彼女はしばらく己の『声』を控え、帝人が言った言葉の意味を考える。
「なんだろう……。とても大切な事だったはずなのに」


 同日、夜。
「ああセルティ解っているよ。君が何を言いたいのか、僕に解らない訳がないだろう?」
 顔を見せて開口一番そう言い放った新羅に、セルティは驚きや感嘆ではなく慣れと諦めの気配を滲ませた。
 声を持たないどころか顔すらヴェールの奥に隠した女の考えをこの男はいとも簡単に読み取ってしまうのである。本人曰く、愛の力だそうだ。
『それなら話は早い。お前はどう思う?』
「私としては、君がどうしたいか。重要なのはそれだけなんだけどね」
 寝室の出窓に腰掛け、新羅はにこりと微笑む。
「帝人君の記憶をどうするか。……彼にこれまでの記憶がないのは魔王が封じたからだ。でも人間を捕らえて使役して記憶まで奪ったなんて言うと極悪非道最低最悪流石魔王って感じだけど、帝人君には夜の森に入る前どころか魔王の元にいた時の記憶すら存在しない。加えて僕が彼を救出するよりも前に砕かれていたであろう手枷と足枷の件もある。これはちょっとおかしいね。まあ記憶がないのは、覚えていられると魔王にとって都合の悪い事があったからかもしれないけど」
『しかし忘れている事が帝人の本意でないというのは確かだ』
 帝人は真昼の月を見上げて大切な事を忘れてしまっているようなのだと言った。白い月を見つめる青い目はもどかしさに揺れ、唇は――無意識なのだろう――悔しそうに噛みしめられて。
 そんな帝人を見てしまったセルティの意志は新羅に尋ねられるよりも前に最早決まってしまっていると言えるだろう。
「彼の記憶を取り戻すんだね」
 夫の言葉に妻は頷く。
『叶うならば。しかしあの魔王がかけた呪いだ。簡単には解けないだろう……。おそらく重要なのは帝人の意思。あの子が思い出したいと強く願わなければ解呪も中途半端に終わる』
「わかった。じゃあ説明は私の方からしておこう。セルティはなるべく帝人君に負担がかからない方法を調べてあげて」
 後半の労わりの台詞は帝人本人へ向けられたものではなく、帝人を案じるセルティのために投げかけられたものだ。相手がそういう人間だと理解した上で、それでもセルティは自分が帝人を案じるのは当然だという気持ちでヴェールを揺らした。新羅のセルティ唯一の考え方は今更だし、それをひっくるめて自分は彼を愛したのだから、と。
『頼む』
「うん。任せてよ」



□■□



「さて、君はどうしたい?」
 ありのままを話した新羅は最後にそう問いかけた。
 帝人は黙って話を聞いていたが、自分が回答する番になって「どうするも何も」と苦笑を浮かべる。
「新羅さんの話だとぼくが強く思い出したいと望まなければ、おそらく記憶は戻らないんですよね」
「そうだよ」
「でも今のぼくは昔のぼくの記憶の価値がわかりません。思い出せたら皆さんが奇妙に思っている事なんかも解決する可能性だってありますから、できればそうしたいって気持ちもあるんですけど……」
「強く思っている訳ではないから成功するか自信がないって?」
「はい。……えっと、それに」
「?」
 言葉を切った帝人に新羅が首を傾げる。
 すると帝人は躊躇いがちに青年を見て己の目を指差した。青すぎる程に青い、人としては有り得ない宝石のような青い瞳を。
「もし呪いを解いてこの目の色が変わっちゃったら嫌だなって」
「……帝人君はその色が好きなんだね」
「だってとても綺麗じゃないですか」
 楽しそうに、嬉しそうに、誇らしげに。帝人はきらきらと瞳を輝かせてそう言った。
 どうやら記憶云々よりもこちらの方が帝人にとってより重要であるらしい。新羅は苦笑を滲ませて青い目の子供に「大丈夫」と優しく告げる。
「記憶を封じている呪いを解除してもその瞳の色は変わらないよ。ひょっとしたら変わらない事を嫌がるんじゃないかとも思ったんだけど、逆ならいいや。セルティもなるべく君の望みが叶うようにしたいらしいから」
「じゃあ受けます。解呪の術を」
「そう。じゃあ私は君の意志を他の人に伝えるとしよう。数日中に準備が整うから、そのつもりでね」
「はい。よろしくお願いします」


 立派な樫の扉をノックすると「帝人?」と嬉しそうな声がする。しかし残念ながら己は部屋の主が期待する人物ではない。「私だよ」と答えれば、僅かな間を置いて先程より少し沈んだ声が返された。
「新羅さんか。入っていいぜ」
「失礼するよ」
 扉を開け、中に入る。
 車椅子に腰掛けた正臣が見えない目を新羅の方に向けてへらりと笑った。
「珍しいな。あんたがここに来るなんて」
「帝人君じゃなくて申し訳ないとは思うけど、その言い方は酷くないかい?」
 冗談混じりにそう言えば、正臣もこの程度の軽口には慣れたように返してくる。
「だって折角俺の大事な親友が来たと思ったのに、実際には我が国の出不精聖騎士様だろ? これを残念と言わずして何と言うって気持ちな訳よ」
「ええー。普通聖騎士って言ったらもっと家鶏野鶩と有り難がられるもんだと思うんだけどねぇ」
「王子にそれは通用しねーよ。あと家鶏野鶩は不適切」
 まるで下町の悪ガキのような笑みを浮かべて正臣は言った。『王子』という部分ではやはり自身の身体の事もあり僅かに自嘲の気配を隠し切れていなかったが、ここまで明るくなれたのは帝人の存在があったからに他ならない。
 この王子を前にして、もしセルティならばこれから言う事に対してとても心苦しい思いをしただろう。だからこそ今この場にいるのは己なのだと、新羅は愛しい彼女の負担を少しでも軽減できた事に内心で喜びを感じながらへらへらと笑みを浮かべて口を開いた。
「いつの間に君達が友人どころか親友になったのか知らないけど、そんな君にちょっとばかりショックなお知らせだ。帝人君が記憶封じの呪いを解くために魔術を受ける事になった」
「……は? それがなんでショックな事なんだ」
 良い事じゃないか、と言う正臣に新羅は説明を付け加える。
「記憶という物はね、人格を形成する上でとても重要な役割を果たすんだ。つまり今の帝人君は夜の森から救い出された後からの記憶しか持たないが故のあの性格であって、それ以前の記憶を取り戻したならば彼はもう僕らが知る彼ではないってこと。解るかい?」
「え? な、それって……つまり」
 呆然となる正臣に新羅は哀れみの表情を浮かべて「うん」と頷いた。
「次に帝人君がここに来たとしても、それは君の友人――あ、親友か――であるとは限らないんだよ。それを覚悟しておいてほしいって事で、私は珍しくこの部屋を訪ねのさ」
「帝人が、俺を……俺は」
「悲しいのは解るよ。私もセルティが同じ境遇になってしまったら悲しくて寂しくて死んでしまいそうだからね! ああ、でも」
 一旦言葉を区切り、新羅は正臣にしっかり聞かせるかの如く明瞭な発音で告げた。
「もし僕とセルティが君らのような事態になったとしても、私ならもう一度セルティにアピールするよ。そしてもう一度僕の奥さんになってもらう。……君もただ諦めるなんて嫌だろう?」
「……もう一度帝人と友達……いや、親友に」
「そう。自分から動けばいい」
 新羅が頷いてやれば、徐々に正臣の元気が戻ってくる。そうしてここ最近の彼らしい明るさにまで回復すると、彼は「じゃあさ」と新羅の顔を、薄い瞼を閉じたままでじっと見つめた。
「我が国の聖騎士にお願いがある」
「なんだい? セルティに迷惑がかからなければ大抵の事は叶えてあげるよ」
「帝人の記憶が戻ったら、もう一度ここに来てくれるよう頼んでほしいんだ」
「そんな事でいいのかい?」
「ああ。あとは自分でやらなきゃなんねえ事だから」
「良い心構えだね」
 眼鏡の奥でにこりと双眸を細め、新羅は微笑む。
「本当なら俺の方から行くべきなんだろうけどさ、生憎この目と足だ」
「確かにその身体じゃこの塔の階段を下りる事もままならないだろうけど……」
 言って、新羅は一度言葉を切る。
 不自然なそれに正臣が首を傾げると、白い服の聖騎士は笑いを押し殺したような声で続きを口にした。
「もし君の足が動き、鈍り始めている手もまともになり、目も再び見えるようになったとしたらどうする?」
「本当にそうなら今すぐにでも全速力で帝人の所まで行ってやるさ。でもそんな非現実的な事は冗談なんかで口にするんじゃねえよ、岸谷新羅」
 返答に怒りが混じった。
 どうしようもない事で確率0%の“もしも”の例え話をするんじゃない、と。希望になるどころか惨めになるばかりのそれが正臣の怒りを買い、決して敵わないはずの男に牙を剥かせる。
 だがそんな正臣の反応も新羅の予想の範囲内であり、役職に人格が伴わない聖騎士は構わず話を続けた。
「非現実的、か。でも強大な魔力があればそれも不可能じゃなくなるね。何せ我が国は魔術の国だ。力さえあればそれを如何様にでも加工して己の望みを叶えるんだよ」
「その魔力が人間を何人かき集めても足らないんだから、不可能である事に違いはない。無駄な問答だ」
「無駄、かぁ……」
 またもや笑いを押し殺したような声で新羅はぼそりと言った。
 その声の調子に正臣が訝り眉根を寄せる。
「どういうつもりだ?」
「今の私には断言できない事だからね、君の疑問に答えるのは先送りさせておくれ。……それじゃあ今日はこれで。帝人君にはちゃんと伝言しておくから安心しなよ」
 そう言って新羅は相手に見えないと知りつつもひらひらと手を振って部屋を出た。
 呼び止める声はない。新羅の性格をそれなりに知っている正臣は、たとえ自分が王子でもあってもあの聖騎士の足を止めてこちらの質問に全て答えさせるなど到底無理な話だと知っていたので。







※単語説明。
・家鶏野鶩:かけいやぼく。ありふれているものを軽視して、新しいもの、珍しいものをありがたがること。