その日、帝人は記憶がある中で初めて城の外に出た。
「わあ……!」
 活気溢れる城下町の市場で青い目を丸くし、両脇に立つセルティと新羅を交互に見やる。
「人がたくさんいます!」
「ここは国でも一番活気がある場所だからねぇ」
『これだけの人を見るのは初めてなのかな』
「だと思います。……すごいっ」
 キラキラと宝石のような目を輝かせて帝人はキョロキョロと視線を飛ばす。今にもどこかへ走り去ってしまいそうな様子に新羅もセルティも苦笑し、本当にそうなってしまう前に両側から帝人の手を握った。
 記憶が失われているため少年の正確な年齢など判りようもないが、二人が帝人に向ける態度は小さな子供に対するそれだ。しかし現に帝人の記憶は一部の知識を除き数日前からのものしかないため、幼いと言えば確かに幼いだろう。加えて帝人がそれぞれ両の手を包む一回り大きな手のひらを握り返して嬉しそうに笑うものだから、二人は躊躇う事なくその手を引いた。
「どうしてこんなに人がいるんですか?」
「ここは市場だからさ。皆、買い物に来ているんだよ」
 歩きながら帝人は左右の大人を見上げて問いかける。新羅は空いている右手の指を立ててくるりと回し、その問いかけに答えた。
「かいもの?」
『そう。これと自分の欲しい物を交換するんだ』
 左側からセルティが羊皮紙を差し出す。帝人がそこに書かれた文字を読んだのを確認すると、次いで彼女は数枚の硬貨を取り出した。
『これがこの国の貨幣だ。帝人、お前も欲しい物があればこれで買うといい』
 一度手が離されて、帝人の左手にはセルティから渡された貨幣が乗る。キラキラと太陽を反射して輝く小さな円盤はそれだけで何か素敵な物のように思えた。
(文字は知っているのに貨幣の事は知らないのか……? それともこの国とは違うものを使っていたのか。いや、それでもどの国だって貨幣経済であれば似たようなものを使うはず)
 一枚一枚手にとって硬貨を眺めている帝人の隣でセルティは首を傾げる。
 識字率が七割程のライラでも大体の人間が貨幣の使い方を知っている。文字の読み書きよりも貨幣の使い方を知る方が生活に直結しているからだ。そんな状況とは逆を行く帝人にセルティは疑問を感じつつ、この子は一体どんな生活――勿論魔王に囚われる前の――を送ってきたのだろうと思った。
「セルティ様に新羅様! お二人で仲良くお買い物ですか?」
 セルティの思考を断ち切るように明るい声がかけられた。
 新羅はともかくセルティは頭をすっぽりとヴェールに覆われているため、人混みの中でその不思議な姿はとても目立つ。しかし人々は彼女が国にとってどんな存在であり、また彼女がどれほど優しい人かを知っているので、彼女の姿もまた自分達の日常の一つとして認識していた。
 声をかけてきたのはすぐ傍の店で青果を売っている青年だ。セルティ達はそちらを振り向くと小さく手を挙げて挨拶する。
「今日はもう一人いるよ。ほら、可愛い子だろう?」
「おや本当だ。お二人の息子さん……にしてはちょっと大きい、ですかね?」
「城で預かってる子なんだ。……あ、帝人君。この辺だったら好きにお店を見てきてもいいよ」
 自分達が話をする間、帝人をただ立って待たせておくのも忍びない。新羅はそう思って帝人の背中を軽く押す。
『自分の欲しい物を探しておいで』
 セルティも新羅と同じく、帝人を送り出した。
 二人の周りには次々に人が集まり始め、笑い声が溢れ出す。その楽しそうな雰囲気に帝人も笑みを浮かべて頷くと、セルティから渡された硬貨を握りしめて興味が引かれるまま店を見て回る事にした。


 甘い匂いが鼻腔をくすぐって帝人はふらりとある屋台に近付く。
「おう坊主、どうした?」
 そこはシロップに漬けた果物を焼いて売る店だった。甘い匂いが充満する中、作業を続けながら店の主がニカリと歯を見せて笑いかける。
 帝人は正面で焼かれている果物を見つめ、
「これ、すごくいい匂いがします」
 ぽつりと呟いた。
「そうかそうか、じゃあ一個食ってみな! 匂いだけじゃなくこいつは本当に美味いぞぉ!」
 人の良い店の主人は呵呵と笑いながら商品の一つを薄い紙でくるんで帝人に手渡す。それを受け取った帝人は甘酸っぱい匂いに頬を緩ませた後、ぱくりとかぶりつく。そして、
「わあっ本当だ! すごく美味しい!! こんなのお城でも食べた事がないです」
「こりゃすげぇ褒め言葉じゃねぇか! どれ、俺も一つ」
「じゃあ私もいただきましょうか」
 帝人の声に周囲の買い物客達が興味を引かれてやって来ては、自分も一つと果物を買っていく。そんな彼らによって屋台の端に積み上げられる硬貨を見た帝人は「あっ」と目を丸くして片方の手に握っていた硬貨を店の主に差し出した。
「ぼくも、これ。渡さないと」
「いいっていいって。坊主には特別サービスだ!」
「おっ気前が良いねぇ!」
「さっすが! 城の料理より美味い物を作る男だ!!」
 そんな台詞と共にまたもや積み上がっていく硬貨達。店の主人の計らいは更に多くの人の購買意欲を誘ったようだった。
 帝人は次々と売れていく果物と己に微笑みかけてくれる人々を交互に眺めながら青い目を丸くする。口に広がる甘みと良い匂いと人々の笑顔。初めての体験にただ圧倒されるばかりだった。
 だが買い物客の一人が「あら」と何かに気付いて帝人の前に跪き、視線を合わせてぽつりと言った。
「あなた、変わった目の色をしてるわね」
 思わず引き込まれそうな青を秘める瞳にその女性はパチパチと瞬きを繰り返す。
「そう言えば、さっきお城って言ってたかしら……。あなた、お城に住んでるの?」
「あ、はい。お城でお世話になってます。今日はセルティさんと新羅さんの二人と一緒にここまで来ました」
 そう言えば二人はまだ話し中なのだろうか? そろそろ戻った方がいいのだろうかと帝人が考えた時、女性は「まさか」と息を呑んだ。
「もしかして夜の森から救い出された―――」
「この子が“姫さん”なのかい!?」
「ああっ……て事はこの目が魔王にかけられた呪いの」
「可哀想に。辛かっただろうねぇ」
 女性だけでなくその場に集まっていた者達が口々に告げては帝人に哀れみと労わりの視線を向けてくる。
「もう大丈夫だよ。この国にいれば怖い事なんてない。聖騎士様と城の魔術師達が守ってくださるからね」
 そう言った女性にぎゅっと抱きしめられながら帝人は何を言って良いのかも解らず、ただおろおろとするだけだった。人慣れないその様子が更に皆の同情を誘って優しい言葉が次々に投げかけられる。女性と同じように帝人を抱きしめる者、握手をする者、頭を撫でる者。そうやって優しく触れられるたびに帝人は胸が熱くなり、ただしその一方で自分でも気付かない程度にほんの少しだけ“他人の手”に忌避感を覚えた。
「あ、あの……えっと」
「帝人君!」
『帝人!』
 周囲の人々にされるがままだった帝人はその呼びかけにピクリと反応して声を上げた。
「新羅さん! セルティさんも!」
 人だかりを割って登場したのは新羅と、それに続くセルティ。帝人は二人に駆け寄り、腕を広げたセルティの胸に飛び込む。
「あ、羨ましい」
『新羅』
「ごめんごめん。でも冗談なんかじゃないんだからね! 私はいつだって君を本気で愛してるんだ! って痛い! それ凄く痛いよセルティ!!」
『帝人、待たせて悪かったな』
 一方の手で夫の脇腹をかなり本気で摘まみ上げ、もう一方の手で帝人の頭を撫でた後、セルティは羊皮紙の上にその文字を浮かび出させる。
 周囲の人々が岸谷夫婦の漫才に笑い声を上げる中、帝人はふるふると首を横に振って「大丈夫です」と答えた。
「ここのお店の人に、とても美味しい物をもらって」
『そうか。それはよかった。なら新羅も一つ買っていくか?』
 後半は新羅の方に紙を差し出してセルティが問う。
「うん。それはいい提案だ。(君は食べられないけど、それでも匂いは伝わるし、ね)」
 最後の台詞は妻にしか聞こえないよう声を潜めて告げ、新羅は眼鏡の奥で双眸を細めた。



* * *



 概して帝人は聞き分けの良い城の居候だった。先日のようにセルティと新羅が外に連れ出してくれるというのはそうそう無かったが、退屈を持て余す事もなく、字が読める事もあって読書をしたり、城の使用人達と話をしたりと、快適な日々を過ごしていた。
 人は優しく、特に新羅とセルティはまるで家族のようだった。
 帝人の記憶には家族というものがどんなものなのか残ってはいなかったが、優しい二人の事は大好きだったし、どうやら子供ができないらしいセルティが帝人を抱きしめていると新羅が本当に嬉しそうな顔で「僕達まるで家族のようじゃないか!」と言っていたので、こういうのが家族なのだろうと思う。
 また、三人で和やかな雰囲気になっていると、国王自らが帝人の住む部屋に訪れた事もあった。
「こうして会うのは初めてだな、帝人よ」
 数人の付き人を従えて帝人の部屋にやって来た灰髪の王。帝人の隣にいた新羅が「この国で一番偉い人、僕らの王様さ」と説明してくれた。
 僕らの『王』様、という単語にどこか引っかかりを覚えた帝人だったが、その蜘蛛の糸のような微かな違和感は威厳に満ちた国王の前ですぐに消えてしまう。代わりに帝人は慌てて立ち上がり、自分が世話になっているこの城の主人でもある国王に一礼した。
「あ、あの! ありがとうございます! こんなに良くしていただいて……!」
「そう畏まらずとも良い。……ふむ、だいぶ元気になったようだな」
「はい。みなさんのおかげです」
「不足があれば近くの者に言うと良い。しっかり養生せい」
 そんな短い会話だったが、新羅達の国王が人格者である事は帝人にもなんとなく察せられた。まるでその形のまま固まってしまったかのような厳めしい顔つきには少し緊張を強いられたが。


 そうして、国王が帝人の様子を見に訪れてから数日後。
 帝人は日頃から良く顔を合わせる使用人の一人から鍵束を受け取った。
「これは?」
「西にある塔の鍵でございます」
「西の塔……?」
「その塔に住まわれているお方が帝人様にお会いしたいと」
「ぼくに、ですか?」
「はい」
 使用人の言葉遣いからしてそのお方とは客人という扱いを受けている帝人と同等かそれ以上の立場の人間だと推測される。そんな人が自分に一体何の用だろうとは思うものの、わざわざ鍵まで渡されて訪れるように言われたのだから帝人に断る理由はない。
「わかりました。これから訪ねても大丈夫でしょうか」
「勿論でございます。西の塔までへの道順はご存じですか?」
「あー……わからない、です」
「簡単ですからすぐに覚えられますよ」
 そう言って使用人は帝人に塔までの道のりを口頭で教えてくれる。説明を聞き終えた帝人は一つ頷いて早速部屋を出た。
 長い廊下の向こうに消える帝人の背を見送って使用人は小さく長い息を吐く。まるで大役を終えてほっと一息吐いているかのように。そしてまた、安堵と不安をその胸に同じ量だけ抱えているかのように。


 西の塔に辿り着いた帝人は渡された鍵束を使っていくつもの扉を四苦八苦しながら開け、一本しかない道を進んでいった。
 途中にいた衛兵は帝人を見ても何も言わず、ただじっと突っ立っているのみ。この中の人を守っているのかなとは思うのだが、どうもすんなり納得できない雰囲気があって帝人は内心で首を傾げる。
 廊下といくつもの鍵付きの扉を抜けて長い階段を上りきると、帝人の正面にこれまでで一番造りの良い樫の扉が現れた。この扉にも鍵がかかっており、手持ちの鍵束の中で使わなかった最後の一本がこの扉の物なのだろうと思う。
 帝人は早速鍵を開けようとしたが、扉の造りからしておそらく自分を呼んだ人物はこの樫の一枚板の向こうにいるのだと思い至り、鍵穴に鍵を差し込む前にコンコンコンと扉をノックした。これは城の人間がやっていた動作を見よう見真似でしただけだ。
 ともあれ細かい作法も何も知らずに行ったノックに応える声が一つ。「誰だ」という誰何に帝人は「えっと」と少し詰まりながら答えた。
「帝人です」
「……入れ」
 一瞬の間の後、同じ声が入室を許可する。
 声の具合からして自分と同じくらいの年齢の少年だろうか。そう思いながら帝人は鍵を開け、扉を開く。
 扉の向こうには広い部屋があった。
 天井から床まで、シャンデリアも壁紙も絨毯も本棚もベッドも何もかもその全てが上等な物だと一目で知れる。実際に見た事はないがまるで王様の部屋のようだと思いながら帝人は部屋に足を踏み入れた。
 足下に広がるのは遊び飽きたと言わんばかりの玩具や置物、その他諸々。片付ける事を放棄されたそれらの向こう、格子のはまった窓の所に不思議な格好の椅子に座った少年がいた。
 帝人は知らなかったが、車輪がついたその椅子は足の不自由な人間が移動のために用いる道具だ。金に近い明るい茶色の髪を持つその少年は車椅子の肘掛けに頬杖を突き、両の瞼を閉じたまま帝人の方に顔を向けた。
 口元にうっすら浮かんだ笑みやその明るい髪色に帝人の頭の中で何かがざわついたが、夜の森に入る前の記憶をも封じられた今の帝人がその理由に思い至る事はない。まさか自分が望んで夜の森の魔王の元にいた事、そこに辿り着く前―――ある屋敷で飼われていた頃に自分と同い年くらいの少年が庭師として働いていて、けれどその少年が屋敷の主人に殺された事など欠片も思い出さぬまま、小さな胸の痛みを訝しむだけだった。
 目は閉じていても部屋に一歩足を踏み入れた所で帝人が歩みを止めた事に音か気配で気付いたのだろう。茶髪の少年は首を傾げて明るい口調で言った。
「ほら、入れって。俺、動くの面倒だからこっちに来てくれると助かるんだけど」
「う、うん」
 言われて少年の元に歩み寄る帝人。手が届きそうな位置まで来るとそこで立ち止まり、何を言うべきか口ごもる。その気配を察して少年がやはり目を閉じたまま笑った。
「はじめまして、帝人。俺は正臣。正臣・K・ライラ」
 少年―――正臣の名乗りを聞いて帝人は目を瞬かせる。
「ライラ……?」
「そう」
 不思議そうな顔をする帝人にこくりと頷き、正臣は言った。
「この国の王子だ」