城の大広間では喜びの声とグラスを打ち鳴らす乾杯の音が至る所から聞こえてくる。
夜の森で魔王に囚われていた子供の救出。まるで物語のようなその出来事に民衆は元より城で重役に就いている者達でさえ歓声を上げていた。人々は酒を酌み交わし、楽器を持っている者はその楽器で、歌が上手い者はその声でもって即興の物語を組み上げる。聖騎士が囚われの『姫』を救い出す物語。―――流れ聞こえてくるそれに、当の聖騎士本人、岸谷新羅は小さく苦笑を零した。 「あの子は『姫』じゃなくて男なんだけどね」 「だが王子と称するのも語呂が悪かろう」 新羅の呟きに応えたのは広間で一段高い所に座る壮年の男、この国の王だ。 国王もいつもの厳しい顔つきは相変わらずであったが、それでもまだ少しだけ楽しげに頬が緩められているように見えた。 (でも君はただの子供が助けられただけで満足する人間じゃないだろう?) 子供の救出と共に行われた事を思い、新羅は先刻とはまた別の意味で苦笑する。ただしそれを今この場で口にするような真似はせず、彼は会話の続きを滑らかに告げた。 「本人が聞いたらどう思うか」 「……その本人はまだ目覚めぬのか」 「うん。疲れていたのか、助けられた事で気が抜けたのか……それとも魔王に何かされたのか、判らないけどね。今は静かに眠ってるよ。まあ傍にセルティがついてるから問題ないとは思う。それに何かあればすぐ僕の方にも知らせてくれるよう頼んでおいたし」 言って、新羅は意志疎通用の水晶が入ったポケットを軽く叩く。だが新羅は軽く叩いた後に会話を続けるのではなく、ポケットに手を触れさせたまま「おや?」と首を傾げて小さく口の端を持ち上げた。 「? どうした」 「このタイミングの良さってひょっとして以心伝心? セルティに呼ばれたから行ってくるよ」 「……ああ」 新羅の言葉が何を意味しているのか気付き、王は主役でもある<聖騎士>がこの場を辞する事を許可する。新羅は眼鏡の奥で双眸を細めて「どうも」と軽く答え、白い騎士服姿のまま玉座から正面の扉まで颯爽と広間を縦断していった。 大広間を出て長い廊下を抜け、新羅は一つの扉の前で立ち止まる。 「セルティ、僕だよ。入っても大丈夫かな」 応える『声』はない。しかし代わりにポケットの中の水晶が熱を帯びて扉の向こうの彼女の意思を伝えてくれた。 「じゃあ入るね」 金のノブに手をかけて静かに押し開く。 部屋の中央にはベッドが置かれていた。その端に腰掛けているのは首から上をヴェールで隠した女性、セルティだ。そして彼女がヴェール越しに見つめる先―――ベッドの真ん中に一人の少年が横たわっていた。 新羅はベッドに近付くとセルティの両目があるだろう部分に視線を向けて薄く微笑む。 「この子、目が覚めたのかい?」 『ああ。さっき少しだが目を開けた。今はまだちょっと微睡んでいるのかな』 セルティが手に持った羊皮紙にさらさらと文字が浮き出ては消えていく。新羅はそれを読み取り、小さく頷いてからベッドで夢現の少年に声をかけた。 「気分はどう。痛いところは無い?」 「……いたい、ところ?」 少年の目がうっすらと開き、声がした方―――新羅達を視界に入れる。 その少年の双眸を見て新羅は息を呑んだ。 (青、だ) そうとしか表現できない。 新羅の瞳の色は黒だが、人間の中には青い目を持つ者も沢山いる。黒も青もそのバリエーションは様々で、薄かったり濃かったり、赤っぽかったり少し緑色が混じっていたり。けれども新羅に向けられた双眸はそのどれとも一線を画す青。黒い色素がない故の青ではなく、まるで青の色素――それも上等な――を眼球に直接流し込んだかのような色をしていた。 新羅は知る由もなかったが、それは魔物が苦手とする特別な植物の花弁から抽出される色料と全く同じ色だった。 (人間が持つ色じゃない) 心の中でそう呟く。 この少年を魔王から救い出した時には周りを闇と炎に取り囲まれており、きちんと確認する事ができなかった。けれど今、改めてその双眸に宿る色を見据えて、新羅の中に驚愕と感嘆が生まれている。 そんな驚きのままセルティに視線を向けると、彼女はこくりと頭を動かして羊皮紙に文字を浮き上がらせた。 『これは夜の王がかけた呪いの一種だろう。人間のものではない魔力が感じられる』 しかし一体どんな呪いがかかっているのか判らない。セルティは最後の一文をそう締めくくった。 「あ、の……」 ベッドの真ん中から声。美しい青を持つ少年は上半身を起こし、幼い顔に顔に困惑を浮かばせながら新羅とセルティに問いかける。 「ここは、どこですか」 「ここはライラ。ライラの王城だよ」 声を発せないセルティに代わって新羅がそう教えた。 「おうじょう?」 「うん、そう。王様のお城。ライラは小さな国だけど魔術で栄える国だから大丈夫。君はもうこれ以上怖い目に遭わなくていいんだよ」 長く非道な魔王に捕らえられていたであろう少年を慮って新羅はなるべく優しく告げる。ちなみに蛇足だが、少年を心配しているのはセルティであり、新羅自身はそんな妻に配慮しているだけなのであしからず。 ともあれ、新羅の優しい声に少しばかり気を許したのか、少年は言われた言葉を己の中に染み込ませるように「だいじょうぶ」と呟いた。 「……どうしてぼくはここにいるんですか?」 「忘れてしまったのかい?」 『それとも一時的な記憶の混乱か……』 新羅はセルティと顔を見合わせる。 セルティの普通とは違う会話方法に早くも気付いたらしい少年は少し驚いたようにその青い目を丸くしていたが、特に何も言わなかった。 (へぇ) 奇異なものを見る目でセルティを見ない少年に対し、新羅の中で少しだけ好意(もしくは興味)が生まれる。しかしそれを外には出さず、新羅はもう一つ気付いた事を口にした。 「君、文字が読めるの?」 この国やその周辺における識字率はそれほど高くない。城や神殿に勤めている者は一部を除き当然のように文字の読み書きが可能だが、下町に降りれば七割程度といったところになる。それでもライラは周辺国に比べ識字率が高い方だった。だからおそらくライラとは別の国からあの森へ連れてこられたであろう少年がセルティの『声』を読み取った事を、新羅はわざわざ指摘したのだ。 少年は小さく頭を動かして「はい」と答えた。 「少しだけ、ですけど」 「ふーん。魔王が教えてくれた、なんて事はないだろうから……ねえ、元々はどこに住んでいたんだい?」 少年の体力が回復した後にでも送り届けてやれるかもしれない。文字が読めるという事は、魔王に連れ去られる前にはそれなりの家の子供であった可能性も考えられた。そう思った新羅は軽い気持ちで問いかけたのだが、 「住んでいた? もともと……?」 少年が首を傾げる。 それからじっと新羅達を見つめて痩せた身体の少年は言った。 「ぼくはどこに住んでいたんでしょう。それに……ぼくは、だれ?」 新羅の横でセルティが言葉を失っていた。 それから彼女はゆっくりと手を伸ばし、雰囲気で少年に触れてもいいかと問いかける。勿論雰囲気だけでなく、彼女は持っている羊皮紙に文字を出そうともしたのだが、その前に彼女の意思を読み取った少年が「あ、どうぞ」と答えてしまった。 (まあ、人間の感情なんてちゃんと見ていれば解るものだしね) 新羅は胸中でそう独り言ちるも、妻の事を一番解っているのは自分であるという自負があるので少しばかり面白くないとも思う。けれど同時に声を失っているセルティを文字無しで理解できる人間がいる事――それによってセルティが普段より楽しく会話できる事――に喜びもあった。 一人で軽い二律背反状態を味わっている新羅の視線の先でセルティの白い手が帝人の双眸をそっと覆う。人間というものは自分の目に何かが向かってくると多少なりとも恐怖を感じて身体を強ばらせたりするものだが、少年の気質かセルティの雰囲気ゆえか、そんな気配は微塵も感じられなかった。 セルティは<聖剣の巫女>である。それはつまり、この国で最も魔術の才能に長けていると言っても過言ではない。(実際のところ、この国における魔術師の頂点というのは巫女である彼女ではなく魔王討伐にも赴いた矢霧波江であるのだが。)そんな彼女が本気で少年の双眸に刻まれた呪いの流れを感じ取ろうとしている。 しばらく三人とも声を発さない状況が続いた。 『……やはり記憶が封じられているな』 少年から手を離し、セルティはそう結論を出す。なんて惨い、と落とした肩が語っていた。 幼い子供を捕らえて満足に食事も与えずに使役したばかりか、魔王に捕らえられる前の温かかったであろう記憶まで奪うとは。 『しかもこの痣を見る限り、手足を鎖で繋いでいたんだろう』 セルティがそう言って指し示したのは少年の手首と足首にくっきりとついた鉄錆の跡だ。細い手足が血流を滞らせるギリギリのところまで締め付けていたであろう枷の証拠に彼女の心には怒りが宿っていた。 けれども新羅は怒りに震える彼女を見つめながら首を傾げた。 (そう言えば僕がこの子を助けた時にはもう、枷なんてなかったなぁ) セルティは少年についていた枷が救出後に外されたものだと思っているようだが――それはそうだろう。誰もが彼女と同じように考えるはずだ――、事実は違う。少年についていたらしい枷は新羅が助ける前、つまり魔王に囚われている時には既に外されていたようなのだ。 「……あのね、セルティ」 何かおかしい。そう感じた新羅は自分が知っている事実と推測を妻に伝えた。 するとセルティもこの不可思議な事態に首を傾げ―――けれども自分達がここで推論を交わす事で少年を放っておく訳にもいかず、ひとまずこの問題は後で考える事にした。 セルティは羊皮紙を少年に向けると、紙面で問いかけを発する。 『君は自分の名前すら覚えていないんだな?』 「……はい」 『そうか。……私はセルティだ。セルティ・ストゥルルソン・岸谷と言う。そしてこいつは』 セルティの指が新羅を示す。 『私の夫であり、君を助けた我が国の<聖騎士>岸谷新羅だ』 「セルティさん、と……新羅さん?」 『そうだ』 こくりとヴェールに隠れた頭を動かし、セルティは本題を告げた。 『そして君の名前だが……君は夜の森で囚われていた時、そこに迷い込んだ狩人に自分から名乗ったらしいよ。ぼくはミカドだと』 「みかど」 『帝、と書くのかな』 「……?」 セルティが紙面に書き出した文字を読んで少年は僅かに眉根を寄せる。何かこの字面に違和感を覚えたらしい。 少年は自分が一体どの部分に違和感を覚えているのか、それを解消するにはどうすればいいのか悩んでいたようだった。しかしやがて紙面から目を離し、少年は戸惑いながらセルティに告げた。 「あの……人、って続けてもらえますか?」 『こうか?』 確認の問いかけと共に『帝』が『帝人』へと変わる。すると少年は顔から迷いの色を消し、こくこくと何度も頷いてみせた。 「たぶんこれです。うん、ぼくはきっとこの名前だった」 『そうか……君は帝人というのか』 そう話しかけながらセルティは帝人を緩く抱きしめた。 突然上半身を覆った人肌の温もりに帝人はぴくりと肩を震わせる。しかしその一瞬以降は身体の力を抜いてセルティのしたいようにさせていた。おそらく温もりと共に彼女の思いも伝わったのだろう。大丈夫だ、と包み込むような感情が。 「少し気になる事もあるけど、それは追々調べておくよ。とりあえず帝人君……君はこの城でしっかり養生するように」 『困った事があればすぐ私か新羅に言ってくれ。ここを自分の家だと思ってくれていいからな』 「……王様のお城なのに?」 こてん、と幼い子供のように首を傾げる帝人を正面から見てセルティが僅かに身を震わせた。どうやら母性本能が刺激されてしまったらしい。折角離した身体をもう一度ぎゅっと抱きしめて首を縦に振る。 『そうだ。王もお許しになっているからな』 「君は何も気にせず健やかに……そう、囚われていた分を取り戻すくらい健やかな生活を送るべきなんだよ」 「えっと……はい。よろしくおねがいします」 セルティにぎゅうぎゅうと抱きしめられたまま帝人が答える。新羅はそんな妻と少年の様子に苦笑して、 「セルティ、そろそろ離れてくれないと私としてもちょーっと嫉妬に駆られてしまいそうなんだけど」 呟いた途端、その妻本人から『阿呆か』と大きく書かれた羊皮紙を眼前に突き出されてしまった。 * * * 少年が目覚めた事は瞬く間に城下まで広がった。人々は少年を救い出した聖騎士を讃え、少年自身には哀れみの念を捧げた。そしてどうかこれからは魔王に囚われていた分も幸せに暮らせますようにと人々は願った。 竪琴の調べと共に詩人は歌う。躍動感に満ちた声でライラの英雄譚を。そして物悲しくも強い意志を込めた声で双眸に呪いを受けた悲劇の少年の物語を。 しかし物語を奏でる彼らの口からも、また他の民衆の口からも語られる事のない事実があった。 少年を捕らえていた魔王は一体どこに消えたのか? 問えば「聖騎士が倒したんだろ?」「剣に刺されて消えたんじゃないか?」といった答えが返ってくるかもしれない。だが英雄の物語と少年の悲劇を歌い喜び悲しむ人々は、少年を苦しめた魔王の末路など気にも留めていなかった。 討伐された夜の王のその後は―――……。城の中でも限られた一部の人間だけが知っている。 湿った空気とカビの臭いが充満した城の地下室に、その人物はいた。 石の壁が剥き出しになったその部屋には全く似合わないであろう上等な衣服を纏った男、この国の王は数名の魔術師を引き連れて壁に磔にされている『それ』を厳しく見据えた。 「気分はどうだ、魔物の王よ」 「……人の王か」 低く掠れた、力のない声。けれども未だ美しさと威厳を保つ声が答える。 炎に照らされその輪郭だけを浮かび上がらせた透明な糸が壁や天井から伸び、磔にしている対象――― それは薄暗い地下室においても輝きを失わない金の髪と瞳を備えた青年、否、黒い翼を背に持つ夜の森の魔王だった。 後ろに控えた魔術師達は誰もが黙し、人間の王の声が地下室に響く。魔物の王の威厳に気圧されぬよう気を引き締めて人の王は続けた。 「魔王よ、人の手によって捕らえられた気分はどうだ」 「……」 魔物の王は答えない。しかしその沈黙だけでも充分な威厳を纏い、若い青年の形をしていても彼が長き年月を経た存在であると知らしめる。どんなに長くても百年程度までしか生きられない人間には絶対に出せないであろうそれに国王は息を呑み、しかし一国を背負う者として態度にも声にも気圧された様子は微塵も滲ませない。 「罪も無き小さな子供を捕らえ、暖かな家庭の記憶をも奪って隷属させていたそうだな。人間への復讐のつもりか? だがそれなら残念だったな。あの子供は何も覚えていない。お前の思惑は外れたのだ。あの子はこれから全てを忘れて、人としての幸せを得る」 人の王の言葉に魔物の王はそっと目を閉じた。悔しがっているのか、ただ静かに諦めているのか、それとも――― (安堵している……? いや、そんなまさか) 一瞬脳裏に浮かんだ考えを否定し、王はかぶりを振る。 それから後ろに控える魔術師の一人を呼び、その手から一抱えほどの水晶玉を受け取った。 透明な水晶玉の中には赤い炎が灯っており、小さくもその存在を主張している。 人の王は魔物の王の視界に入るようそれを掲げて静かに告げた。 「これが見えるか、魔王。この炎は魔力の炎だ。お前の魔力を吸い取り、この火は大きくなる。そしてこれが大きさを増し色を赤から青に変えた時、お前は全ての魔力を奪われて死ぬ。干からびたミイラとなってお前はこの国の魔力の象徴となるのだ」 魔王は透明な糸に捕らわれて身動きができない。それはつまり、このまま無抵抗で死ぬという事だ。しかし国王が淡々と語った死の宣告に、魔物の王は焦りも驚きもせず、沈黙を保った。 相手からの反応が無いため国王も次に言うべき言葉を失い、話は終わりだと踵を返す。その後に魔術師達も続く。 だが国王達が地下室の扉をくぐる前に、部屋の奥から小さく、けれどはっきりとした問いかけが聞こえた。 「人の王よ、もし己か国かどちらかを選べと言われたら、お前はどっちを選ぶ」 それは魔物の王が人の王に向けた初めての言葉であり問いかけであった。しかし足を止めた国王は相変わらずの厳しい顔つきのままで振り返り、戸惑いも何もなく自信に満ちた声で答える。 「愚問だな、魔物の王」 魔王がどういう意図でそのような問いを発したのかは知らないが、ほんの僅かに口の端を持ち上げて人の王は言った。 「いついかなる時も私は国を選ぶ。天秤になど掛けるものではないのだ。私はこの国の王なのだから」 「……そうか」 魔物の王は一瞬だけ月色の瞳で人間の王を眺め、再びその瞼を下ろす。国王は今度こそ地上へと続く扉をくぐり、地下室は静寂に閉ざされた。 「今ならまだこの程度の糸ぐらい切れない訳じゃねえが……」 静寂が支配する城の地下で静かな静かな声がする。 「そうか。幸せに……なる、のか」 声の主はぽつりとそう告げて、己からゆっくりと奪われていく魔力の流れを感じ取っていた。 |