「魔王討伐の準備は順調みたいだね」
 入室して開口一番、そう告げた新羅に国王は顔をしかめた。
「騎士の礼儀はどうした、我が国の聖騎士」
「そんなものは本当に必要な時にしかやらない主義なんだよ、私は」
 黒檀の大きな机で執務を行っていた王の前へ新羅は歩み寄る。
「これまで事実上無害だったはずの夜の森の魔王が子供を攫って奴隷にしている。町は今この話で持ち切りだ。民衆の意志は魔王討伐へと傾き、どうやら城の方でも魔術師団の編成が進んでいる。団長は矢霧波江嬢かな?」
 魔術が盛んなこの国の中でも特に優れた使い手として有名な女性の名を挙げ、新羅は薄く笑みを浮かべた。
「まあ、愛しのセルティも子供が囚われていると知って何もせずにはいられないみたいだから、僕が聖騎士として出るつもりではあるけれど……。たかが一人の子供を助けるだけにしては力を注ぎすぎじゃないかい?」
 新羅の台詞には非情さが伺えたが、それ故に事実でもあった。民衆を煽り、強力な魔術師団を組織し、他にも多くの労力を費やしている。それはたった一人の人間のために使われる力としては多すぎた。
 魔王討伐の真の目的は別にある。新羅が出した答えはそれだ。
 沈黙する王に新羅は溜息を一つ吐き出し、「だったら」と続けた。
「一つだけ答えて欲しい。それは―――」
「この国のためになるか、か?」
「俺がそんな事を訊くと思う?」
 質問を先読みした国王にあっさりと否定を突きつけて新羅は眼鏡の奥の双眸を細める。
「貴方がやろうとしている事は、セルティを悲しませたりしないよね?」



□■□



 窓から射し込む朝日に照らされ、帝人は目を覚ました。
 多くのキャンバスが置かれた部屋には帝人以外に動くものなどない。どうやら帝人が眠っている間に静雄はどこかへ行ってしまったらしい。
 昨夜は自分が望んで忘れていたはずの記憶を思い出してしまい気分が悪くなったが、思い出した話を静雄は最後まで聞いてくれたし、それにもう一つ得た物があったから、プラスマイナスで言うと大きなプラスになったと思う。
 館を出て顔を洗いに川までやって来た帝人は、静かな水面に映り込んだ自分の顔を見てそれはもう嬉しそうに微笑んだ。
 水に映った顔の中で異彩を放つその色。空の青よりもなお青く、淡く輝いているようにも見える二つの瞳は、静雄の月色とはまた違った美しさを備えていた。
「静雄さんの絵の色だ……」
 どきどきと心臓が脈打って頬が赤くなる。喜びと、興奮と。それからこの色を得た事で自分が静雄に食べられてしまうのが帝人は少し残念に思えるようになった。
 静雄に食べられればこの青は消えてしまうが、食べられずに帝人が生き続ければこの青も存在し続ける。それはそれで、あの美しい魔王の糧になるのと同じくらい帝人にとって価値ある事に感じられたのだ。
 そうやってしばらく帝人が二つの青に見入っていると、後ろでガサガサと木々の擦れる音がした。
 振り返った帝人の視界に移り込んだのは―――
「赤林さん?」
「おや。いい色を授かったねぇ」
 帝人の瞳を指して告げられた言葉に頷きで返す。
「はい。とても綺麗です」
「そりゃ良かった。ところで帝人、腹は空いているかい?」
 そう言って赤林が差し出したのはこの森で採れたであろう数種類の果物だった。寝起きで実際にお腹が空いていた帝人はそれを受け取る。
 だが赤林を見上げていて気付いた。彼はただ単に食料を持ってきただけではなく、どうやらこちらに何か話があるらしい。そんな空気を感じ取って帝人は小首を傾げた。
「赤林さん、どうかしたんですか?」
「いやぁね。おいちゃん、しばらくここから離れる事になってねぇ」
「この森を?」
 帝人の問いに赤林が是と返す。
「夜光の君からのご命令でね。ちょいと人間達を見て回るのさ。だからその間、坊の世話ができなくなる。名前を呼んでもらってもすぐには駆けつけられないだろう」
 それでも大丈夫かい? と問われ、帝人はしばらく逡巡した後、首を縦に振った。
 この森に来てから帝人に物を教え、色々と世話を焼いてくれたのは赤林である。というより――どうやら静雄の決定(帝人を食べなかった事)と赤林の気遣いによって――帝人は襲われるどころかこの二人以外の魔物を見かけた事すらない。
 見知った相手のうち片方を一時的とは言え失ってしまうのは帝人にとって不安を感じる事だったが、いつまでも赤林に“おんぶだっこ”で世話になり続けるのも良いとは思えず、これを機にもっとしっかりしようと決意する。
 これまで魔物に食べられる事を望んでいた帝人だったが、その時、思考は当然のように生きる事を選び取っていた。この森に来た事で喜びを感じ、また何の価値もないと思っていた自分に至高の青が宿ったという事実が帝人の意識を大きく変えていたのだ。
 帝人の中の天秤が死よりも生に傾いた事を知った赤林は「なら良かった。しっかり頑張るんだよ?」と残った片目を眇める。
「出発は……」
「今日の朝には出ると夜行の君にお伝えしたからねぇ。もうそろそろ行くつもりだよ」
「そう、ですか」
「ああでもその前に、帝人には一つ昔話をしておこうと思ってたんだ」
「昔話?」
「聞いてくれるかい?」
「はい」
 帝人は居住まいを正して頷いた。

「昔……それはもう遠い昔の話だ。ある所に一つの小国があった」

 いつもとは少し違う真剣さを含ませた口調で、赤林は物語の語り手のように話し始める。
「その国は国土の大半を森に覆われ、主に森から切り出した木を売って生計を立てていた。だがその森は――ここ程ではないにしろ――魔物が出てねぇ。民は生きる糧を得るために生死を賭ける必要があった」
 生きるために死ぬかもしれない場所へ行く。それはどんな気分だったのだろう。
 屋敷から逃げ出しても他に行く所がなかった帝人とは違う。帰る場所も、そしてきっと待っている人もいる昔の誰かの気持ちを考えようとして、しかし結局、帝人には上手く想像する事ができなかった。
「ある時、その国に一人の王子が生まれた。時を同じくして人々は特別な性質を持つ花を発見する。魔物避けの効果を持つ、青い花弁の花だ」
「それって……」
 帝人の呟きに赤林は「そう」と答える。
「『蒼炎花』……人々は花に名前を付け、最初は自分達が森へ行く際の装備品として、そしてしばらく後からは自分達と同じように魔物に悩む他国への輸出品として、その花を扱うようになった。木と花、この二つにより国は潤い、人々は人生を謳歌した。また同じタイミングで生まれた王子を国の繁栄の証として大事に大事に見守っていた。蒼炎花をその王子の花と決め、魔物にとって毒となる花粉を取った後の花から色料を作って王子に献上したりね。王子も献上された青い色料を用いて絵を描き、民の心に応えようとしたんだ。……けれど」
 赤林は皮肉げに口元を歪め、言葉を続けた。
「王子が十になる年。それまで普通の人間だった彼は異常な力を発揮するようになった」
「異常な力って?」
「魔術で強化もしていないのに片腕で人間一人を持ち上げたり、頑丈なはずの城壁を素手で壊したり、果ては己の身体が限界を訴えてもなお力を揮おうとしたり。……平常時はそうでもなかったんだが、怒りに支配された時の王子はそんじょそこらの魔物よりも恐ろしい存在へと変化してしまった。原因は分からないんだけどねぇ。でもまあ、その分からないという事が人々の恐怖を煽る結果になったってのはよくある話だ」
 王子は怒りに支配されなければ物静かで優しい少年だったと言う。しかし民の不安は王子にまで伝播し、彼の心は安定を欠き始めた。それが余計に異常な力を発揮してしまう結果となり、人々は更に王子を恐れた。
 しかも、と赤林は続ける。
「王子が生まれた時とは逆に、今度はその怪力の発現と時を同じくして蒼炎花の収穫量が減り始めた。高く売れるからと人々が乱獲しちまったのが原因なんだが……その国の人間は自分達の王子に責任を押しつけ始めたのさ。王子がこんなになってしまったから花も減ったんだってね。そんな事、考えるまでもなく有り得ないってのにねぇ」
「それで……責任を押しつけられた王子はどうなってしまったんですか?」
 何の非もない一人の少年が多くの人間から悪意を向けられるなんて。しかもその人々はこれまでずっと王子を優しく見守ってくれていたはずなのに。彼は――― その王子は一体どんな気持ちで自国の民の視線を受け止めていたのだろう。
 自身の中に生まれた重い感情により、眉根を寄せて苦しげな表情を見せる帝人。
 赤林は本人がまだ自覚し切れていないその“悲しみ”を解消するためのストーリーを語れないと知っていて小さな苦笑を零した。
「王子は絵を描いたんだ。これまで民から献上された色料を使って描いてきた絵を、民の視線が悪意あるものになっても変わらずに。何故かって? 王子にはそれ以外、民に応える方法が解らなかったからさ。美しい色料を使って美しい絵を描く。それが彼にできた唯一の事だった。だけどそれしか知らない分、彼の必死さはいや増したよ。花の収穫量が減って青い色料は献上されなくなったけども、手元に残っていた青で王子は懸命に描き続けたんだ。己という存在全てを賭けて描かれた絵は、それはもう素晴らしいものだったさ」
 赤林がそこまで言った事で、帝人は彼が一体誰の話をしているのかようやく解った気がした。
 話の中に出てくる『王子』はきっと静雄だ。
 帝人が蒼炎花を採ってくる前から赤林は青い絵の存在を知っていた。つまり赤林は魔物の王になる前の人間であった頃の静雄とその手で描かれた絵を実際に見た事があったのだろう。
「存在を賭けて描かれた絵は魔物すら呼び寄せた。絵に込められた心と魔力を感じて私は傷ついた王子に言ったよ。このまま凍てついた視線に晒されて己を削るつもりか。望むならばお前を連れて行こうってな。……けれど王子は首を横に振った。ここにはまだ民がいて、自分はやれる事をやりきっていない、と。健気なモンじゃないか。だがそうやって絵を描き続けると決めた王子に対して、その国の人間達の反応は厳しかった。花が本格的に採れなくなってくると、彼らは王子の描いた絵を燃やし始めたんだ」
「えっ!? どうして、そんな。その絵は王子が皆のために描いたものなんですよね?」
「そうだとも。だが多くの人間にはそう受け取られなかった様だねぇ。彼らは絵を燃やしながらこう言ったよ。花が採れず自分達が苦しい生活を強いられている時にこの国の王子はなんて道楽をしているんだろう! と。あれは道楽なんかじゃない……王子のたった一つの想いだったのに。だが国民はそれに気付かない。そして色料が尽き、すでに描かれていた絵も全て燃やされた後、私は再び王子に問いかけた」
 自分についてこの国を出て魔物になるか、と。
「王子は……」
「今度ばかりは頷いたよ。身体は化物でも心は人間だったからねぇ。人間の醜さをまざまざと見せつけられて、幼い王子には限界が来てしまったのさ」
 それはそうだろう、と帝人は思う。十歳程度の子供がこれまで発狂せずに耐えられた事の方が奇跡なのだ。
「ちょうどその頃、夜の森では王の代替わりが始まっていてねぇ。人とは比べものにならんが、我等の王にも寿命はある。それが潰えた時、王の魔力は土へと還り、また新しい王を作り出す。けれどもう一つ、新しい王を作り出す方法があってねぇ。先代の王が指名すれば誰であろうと……魔物であろうと人間であろうと、魔物の王になれるのさ。そして私は王子をこの森に連れてきた。人間だった王子は王に選ばれ魔物となり、月色の瞳と髪を持つ王となった」
 これでおいちゃんの話は終わりだよ。そう言って赤林は小さく笑った。
 帝人も彼に合わせて笑おうとしたが、どうにも顔が上手く動かない。それどころか目から水が流れ出てきた。
「あ、あれ……?」
 拭っても拭っても溢れ出る液体に帝人は困惑する。だがぼやけた視界で赤林を見ると、彼は苦笑しつつも帝人の反応に不快を示している訳ではないようだ。それを許しと受け取って、帝人は涙が枯れるまでぽろぽろと泣き続けた。



* * *



「じゃあ」
「いってらっしゃい」
 帝人は涙で目を腫らしたまま、泣き止むまで待ってくれた魔物にそう答えた。
 相手を送る言葉は以前から知っていたが実際に使ったという記憶はない。けれども口から自然に零れ落ちたそれは全く違和感なく赤林の背中に向けられる。
 応えるように片手を上げた赤林はそうしてスッと空気に溶けるように姿を消した。翼を使って飛んでいく訳ではないんだなぁと思いながら、帝人はさっきの言葉を噛みしめるように繰り返す。
「いってらっしゃい、赤林さん」
 相手の無事な帰還を願い、またそれまで自分が夜の森の王と共にこの場で生きて待つ事を約束するかのように。