空が紅から濃い青に移り変わる頃、帝人は赤林に勧められた通り静雄の館へと赴いた。
 館は二階建てで、扉を開けて中に入ると一階部分は真っ暗だった。しかし入り口の正面にある大きな階段を上った右手側、その奥から明かりが漏れ出ているのに気付き、帝人はそちらへ足を向ける。
 とんとんとん、と軽い足音を立てて階段を上り、唯一明かりが漏れる部屋の前に立つ。そして扉を開けると―――
「わ、あ……!」
 広いはずの部屋は大小様々なキャンバスによって埋もれていた。中に入り確かめてみると、それらの絵は全て黒と緑で描かれている。
「きれい」
 雄大で、静寂に満ち、美しい黒と緑で描かれているのは夜の森。これが静雄の見ていた景色なのだと帝人はその絵を見て理解した。
 帝人はその中でもひときわ大きな――帝人が立ち上がって両手を広げてもまだ足りないくらいの――キャンバスの前に座り込み、絵に引き寄せられたかのようにそっと手を伸ばす。その時、
「その絵に触んじゃねえ」
 冷たく硬質な声がかけられ、ピタリと動きが止まる。慌てて振り返ると、扉のすぐ近くに二つの月があった。
「静雄さん」
「その絵に触るなと言っている。早く離れろ」
 苛立ちを混ぜて紡がれる声に帝人は全身を緊張させ、これ以上彼の怒りを買わないよう立ち上がって数歩下がる。帝人は彼に食べられたいと思っているが、彼を怒らせたい訳ではないのだ。
「あ、あの。ごめんなさい。大事な絵に触ろうとして……。でも、すごくきれいだったから」
 ぼそぼそと言い訳とも感想ともつかぬ言葉を吐き出しながら帝人は視線を彷徨わせる。しかし静雄の表情は変わらず、眉間に皺を寄せたまま彼は帝人に近付いてきた。
 伸ばされた腕に自分はついに喰われるか殺されるかするのだろうかと帝人が思っていると、静雄の大きな手によって視界が覆われる。ふわりと羽根のような優しい接触に「あれ?」と思う間もなく、帝人の意識は闇に閉ざされた。



□■□



 強制的に眠らせた小さな身体を腕に抱え、夜の王―――静雄はそっと帝人の手に触れた。
 静雄がこの部屋に戻って来た時、帝人は絵に触れるかどうかの所だったのだが、どうやらこの頼りない柔らかそうな指先が色料に触れる事はなかったらしい。
「……」
 小さな傷はあるがかぶれや腫れのない小さな手にほっと一息つく。
 この部屋にある大小様々な絵は全て静雄が描いたものだった。これらに使われる色料は魔物である静雄にとって何ら害はない。しかし人間である帝人が触れてしまえば、たちまちその小さな手はかぶれて腫れ上がるか爛れるか、どちらにしろ良い結果にはならなかっただろう。
 と、そこまで考えて静雄はほっとしている自分を訝しんだ。たかが森に迷い込んだ人間一人に自分は何故こうも焦り、また安堵しているのかと。
「くだらない」
 吐き捨て、静雄は口の中だけで何事かを呟いた。
 すると次の瞬間には部屋のすぐ外にもう一つの気配が増える。
「お呼びですかい。夜光の君」
 部屋の外から頭を垂れて答えたのは赤林だった。
「この子供を連れて行け」
「かしこまりました」
 答えはその一言だけ。何か思う事はあるだろうが、基本的にこの片目の魔物は静雄に対して余計な言葉を言わない。
 そうして静雄から帝人を受け取り、赤林は現れた時と同じように一瞬で姿を消した。
 一人部屋に残った静雄は呆気なく失われた腕の中の温度を思い出すように両の手をゆっくりと握りしめる。だがそれは無意識の行動だったのだろう。静雄ははっとしたように息を呑むと、頭を軽く振って部屋の奥へと歩みを進めた。
 帝人が見つめていた絵の前に立ち、自分には何の影響もない黒と緑の絵に触れる。
 それ以降は何も言う事なく、静雄はただ両目を細めて自分が描いた絵を眺め続けた。



□■□



「すごく、きれいでした」
 いつもの巨木の根本で目を覚まして開口一番、帝人は目の前にいた赤林に向かってそう告げた。
 赤林は帝人の口から出た台詞に一瞬左目を丸くしたが、すぐさまへらりとした笑みを浮かべて「そうだろう、そうだろう」と同意を返す。
「夜光の君の絵には魔力が篭められているからねぇ。それはもう素晴らしい作品になる」
 けれど、と赤林は言った。けれどあれは王が描く一番美しい絵ではないのだと。
「一番じゃないんですか……?」
 黒と緑で描かれた夜の森はどれも息を呑むほど素晴らしいものだった。だと言うのにあれらの更に上があると言うのか。
 帝人の問いに赤林は頷き、すっと天を指差した。
「ここにはあってあの絵には無かった色は何だと思う?」
「色?」
 館で意識を失ってから数時間程度しか経っていなかったようで、赤林が指差した先には深い青の夜空が広がっている。月は木々に隠れてまだ見えないが、きっと静雄の双眸と同じ色に輝いているのだろう。
「青色……?」
「正解だ」
 赤林はへらへらと笑いながら腕を下げて答えた。
「夜光の君が描く絵には『青』が足りない。そしてあの方の本当に美しい絵には『青』がふんだんに使われるんだよ」
「じゃあどうして今は青を使って描かないんですか?」
「そりゃ当然、青の色料が無いからさ」
 赤林は言った。夜の王が使う青の原料は特別な植物なのであると。そしてその植物の花粉は魔物にとって毒であり、容易に確保する事ができないのだと。
「色料の元になるその植物を『蒼炎花』という」
「そうえんか?」
「目が覚めるような青い花弁を持つ花だよ。この森にも群生する場所があるんだけどねぇ……。ほら、おいちゃん達は魔物だから」
「だったら僕が採ってきます!」
 脊椎反射のように帝人はそう答えた。
 帝人は魔物ではない。ならば赤林にその花がある場所を教えてもらって、自分が採ってくれば良いのだ。そして花を静雄に渡せば―――
「帝人にゃちょっとばかり危険な場所だと思うけどねぇ」
「構いません。僕は静雄さんに食べてもらう事が望みなんですから、もし途中で死んでしまってもどうって事は無いんです」
「そうかい?」
 だったら、と赤林が教えてくれた場所へ、帝人は夜が明けてすぐに出発した。



* * *



 赤林から教えてもらった群生地は帝人が寝床にしている巨木から直線距離でそれほど遠い場所ではなかった。しかし途中に崖があり、回り道は無い。静雄や赤林のような翼を持たない帝人はその崖をひょろひょろの細腕で登るしかなかった。
「い、っ……!」
 ジャラジャラと手足の鎖を鳴らしながら登る帝人の指は既に何枚か爪が割れ、血が滲んでいる。それでも歯を食い縛り、帝人はその黒い双眸に諦めを浮かばせる事なく身体を動かし続けた。
 何度か手足を滑らせてヒヤリとした瞬間はあったものの、その苦労が報われて帝人は崖を登りきる。少し進めば木々が覆い被さるように生えており、昼間だというのにその下は殆ど日の光が届かない。そんな陰った場所の奥に帝人の目的物はひっそりと花を咲かせていた。
「これが……」
 蒼炎花。
 背丈はそれほど高くなく、小振りな花の形自体は百合に似ている。しかし花弁の色は陰ったこの場所でも判る美しい青で、帝人はほぅと息を吐き出しながらその花の手前に座り込んだ。
 少しの間、帝人は青い花を眺めていたが、やがて自分の周囲をきょろきょろと見渡し始める。木切れを見つけるとそれを使って花の周りの土を掘り始めた。
『厄介な事に蒼炎花は枯れやすくてねぇ。そして枯れてしまえば上等な色料は取れない。だからまずは根ごと掘り起こす必要があるのさ』
 赤林の言葉を思い出しつつ、帝人は木切れと己の手を使って土を掘り続ける。
「……よし」
 堀り終わると帝人はここからが本番だと言わんばかりに力強く頷いた。そして木切れを探した時にちょうど見つけていた棘の生えた蔓植物へと近付く。
 帝人はその蔓へ手を伸ばし、棘ごと躊躇なく握りしめてそのまま手を滑らせた。
「―――ッ!!」
 蔓から放した左手は歪な切り傷が無数に付き、血の玉を浮かばせ始めている。出血はすぐさま「滴る」と表現できる程になり、それを確認した帝人は己の血を吸わせるように左手で蒼炎花の根を包み込んだ。
『花を枯らさないためには水が要る。けどあの花は特別でねぇ……』
 生き物の血を吸わせる事。それこそが、花を持ち帰るには絶対に必要な手段なのだと赤林は告げた。
 ナイフのような切りつけるための道具を使わずに付けた傷は、痛みが酷く、また治ってもきっと跡が残るだろう。それでも帝人はナイフを使う気にはなれなかった。赤林もどこからともなく調達してきて使うよう勧めてくれたのが、帝人はそれを断っていた。ナイフは嫌いなんです、と。
 蒼炎花を左手に持った帝人は酷い痛みに脂汗を浮かばせながらも立ち上がり、帰る準備を始める。行きは両手で登ってきた崖を、帰りは片手で降らなくてはならない。
「ちゃんと静雄さんの所に持って帰るんだ……」
 ふらつく足を叱咤して帝人は崖を降り始めた。


 なんとか崖を降りきった帝人は川に沿って歩いていた。
 日の光が比較的多いこと、また今は魔物避けになる花を持っていることで、周囲に自分以外の気配は全く感じられない。だがしばらく進んでいると―――
 ガサッと下草の揺れる音がして帝人はそちらに視線を向けた。
「……ひと?」
「おっ、俺を喰っても美味くないぞ!! って、え? 子供?」
「わあ……本当に人だ」
 下草と背の低い木々の向こうにいたのは赤林のような魔物ではなく、れっきとした人間だった。性別は男、年は三十か四十代だろう。格好から見て、おそらくは狩人。この森の近くには小国があったはずなので、そこの人間かもしれない。だがこんな森の奥に一人でいると言う事は、
「迷ったんですか?」
 そう問いかけた帝人に狩人は目を白黒させる。
 どうして魔物の住処である夜の森の奥に人間の子供がいるのだろうかと。
 答えない狩人にじれて帝人はとことこと男に歩み寄った。そして己が持っていた蒼炎花の雄しべを千切り、男に渡す。
「……?」
「僕は帝人って言います。正真正銘、魔物じゃありませんから安心してください。この花は蒼炎花と言って、花粉は魔除けになるそうです。雄しべだけだとすぐに枯れてしまうからそんなに保たないんですけど、無いよりはマシだと思います。それと森を抜けるならこの川に沿って進んでください。一番安全で最短距離でもありますから」
「君は、君はどうなんだ。森から出ないのか?」
 狩人に問われ、帝人は首を横に振った。
「僕はこの花を静雄さんに届けなくちゃいけないから」
 早く蒼炎花を持って帰って静雄に渡すのだ。その時の事を思っただけで帝人は頬が緩んでしまう。けれども何となく名前も知らない人間にその表情を見られるのが嫌で、帝人は俯いた状態で告げた。
「それじゃあ、もう行ってください。川に沿っていても日が落ちるとやっぱり危険ですから」
 そして自分も花が枯れる前に館まで辿り着かなくてはならないため、帝人は狩人に背を向けて早足に歩き出す。
 狩人はジャラジャラと鎖を鳴らしながら歩む帝人を止めようとしたが、己が教えられた道と帝人が進む道が正反対であったために小さな背を追う事はできなかった。しかし木々の向こうに帝人の姿が消えた後、
「そ、そうだ! 聖騎士様にお伝えしないと……!」
 慌てたようにそう言って走り去った。


 一方、帝人は順調に森の中を進んで館まであと少しという所までやってきていた。しかしその足取りはおぼつかない。疲れもあるだろうが、やはり未だ左手から滴る血の所為だろう。
 帝人もそれを理解していたが、だからと言ってやめる訳にはいかない。あと少し。あと少しなのだから。
 けれど。
「あっ……」
 木の根に躓き、細い身体が転倒する。左手の蒼炎花に意識を集中させすぎてまともに受け身も取れず、帝人は派手に地面とぶつかった。
(いたい)
 一番熱を持っているのは左手だが、強く打った膝からも激しい痛みが伝わってくる。
(でも早く起きないと)
 静雄の月色の瞳を思い出せばこれくらいどうと言う事はない。胸中でそう呟き、帝人は己を奮い立たせた。そして帝人が僅かに顔を上げた先には―――
「静雄さん……?」
 金色の髪と漆黒の翼と、二つの小さな満月。今はまだ日中であるため二つの月は白っぽい銀色に輝いている。それがじっと帝人を見据えていた。
「あ、これ」
 帝人ははっとし、左手に持っていた蒼炎花を差し出す。魔物にとって毒となる花粉は道中であの狩人に全て渡したから大丈夫だろう。
 受け取ってもらえる事を期待して帝人は霞む視界の中央に静雄を捉え続けた。だがその意識は朦朧としている。静雄にちゃんと花を手渡したいのに身体が動かない。
(……あ、だめだ)
 心の中で呟くと同時、帝人の意識はとうとう暗闇に飲み込まれてしまった。



□■□



 倒れたままの帝人と今は己の手にある青い花を交互に見つめて、夜の王は自分でも気付かないくらいに小さく眉根を寄せた。
 早くしなければ花が枯れてしまうだろう。だが花に構っていては帝人の身が危ない。
 静雄は口の中で何事かを呟く。すると直後、彼の背後にもう一つの気配―――赤林が現れた。
「お呼びですかい、夜光の君」
「蒼炎花だ。色料を作るから火を焚いておけ」
「その子供はいかが致しましょう?」
 魔物の王の表情を窺い、赤林は付け加える。
「目障りならば今ここで始末する事も可能ですが」
「いや……」
 王は小さな声で否定して赤林に色料作りの準備を優先するよう申しつけた。そして蒼炎花も彼に渡してしまうと自分は帝人のすぐ傍で膝を折り、そっと壊れ物でも扱うように手を伸ばす。
(これ以上見物するってのも野暮ってモンだねぇ)
 赤林はひっそりと笑い、己の仕事をすべく王に背を向けた。最後にあの小さく弱々しい人間の子供へ向けて心の中だけで語りかけながら。
(坊は本当に多くのものを許されているよ)