大の大人が立って両手を広げたとしても届かないであろう高さと幅の一枚硝子が使われた出窓からは燦々と陽光が降り注ぎ、赤く長い毛足の絨毯を照らし出していた。
豪奢な絵画が飾られた広い室内では二人の男が盤を挟んで向かい合っている。 「チェックメイト」 黒のクイーンを動かして年若い方が告げる。 硝子越しの太陽光を受ける髪は黒。瞳も同じ色で、肌は――あまり外出しないのか――色白とまではいかずとももう少し日に焼けた方が健康的だと思われる程度だった。身に纏うのは髪や瞳とは正反対の白い騎士服。男にしては少し長めの髪を後ろでひとまとめにしているのも白いリボンだった。 二十四、五程度のその青年は黒縁の眼鏡をくいと上げて正面の対戦相手を見る。 「また僕の勝ちだね」 「……お前は国王に勝ちを譲る気がないのか」 「それならこの国から数百年ぶりに現れた聖騎士である私に勝ちを譲る方が適切じゃないかな?」 「お前のような者が聖騎士とは笑えるがな」 「しょうがないよ。僕は彼女が守っていた聖剣を鞘から抜き放ってしまった」 「嬉しそうだな」 「そりゃ勿論! おかげであんなに素敵な奥方と一緒になる事ができたんだから!」 ああセルティ! と感極まったように青年が手を組んで天井を見上げる。 青年の名は岸谷新羅。この国、ライラに長く存在しなかった聖騎士の称号を持つ人物であり、色も白く細身ではあるが剣の腕前はこの国一とされていた。だが剣の腕が立つだけでは聖騎士になれない。 ライラには聖剣と呼ばれる不思議な剣があり、選ばれた者しかそれを鞘から抜く事ができないのだ。そして剣を抜く事ができた者は、それまで剣を守り続けてきた巫女―――<聖剣の巫女>と呼ばれる女性を伴侶とする。新羅が聖剣を抜いた代の巫女はセルティ・ストゥルルソンという女性で、彼は聖剣を抜いた栄光よりも彼女と伴侶になれた事の方が喜びであるらしかった。 「まったく……」 いつもの病気が始まった、とばかりに壮年の男性ことライラの国王は溜息を吐く。 「そのお前が愛してやまない奥方だが、元気にしているか?」 「まあね」 「おや、はっきりせん言い方だな」 「うーん……ほら、この前エーリがライジン傘下の公国と同盟を結んだだろう?」 「耳が早いな」 「酒場で聞いた。エーリの旅人が来ていてね。サンシャが開港して人の行き来も随分盛んになってきたから」 人と物の往来が盛んになる事はいいのだが、と新羅は続ける。 「エーリは頑張ったよ、本当。でもライジンにまた一つ小国が取り込まれてしまった。このままあの国が大きくなってしまったらと思うと……。セルティは優しいからね。同盟という名の侵略もその奥に見え隠れする戦争の気配も、彼女の憂いになってしまうんだ」 「そう言うお前は憂いなさすぎだ。少しはこの国の未来について考えてみろ」 「やだよ面倒くさい」 軽く笑って新羅は己に勝利をもたらしてくれた黒のクイーンを指で弄ぶ。 「ああそうだ国王。君、また面倒な事を企んでいるようだね」 「何の事だ」 「とぼけなくていいよ。僕の奥方は僕以上に耳がいいんだ。君が夜の森の魔王をどうにかしたがっているのも筒抜けだよ」 「そうだと言えばお前は出てくれるのか?」 王が問うと新羅はきょとんと眼鏡の奥の目を丸くし、次いでさっきと全く同じ調子で返答してみせた。 「やだよ面倒くさい」 「お前は……この出不精騎士め」 「セルティが言うなら喜んで魔王討伐だろうが何だろうがやるけどね。言ったろ? 彼女は優しいんだ。だから魔物と言えども無闇に狩る事は望まない。……ま、その魔王とやらがいたいけな子供を攫って食べているとかだったら違うだろうけどね」 「それでも聖騎士とその巫女か」 「似合いの夫婦だろう?」 誇らしげに新羅が告げる。 その顔を真正面から見据えつつ、国王は諦めの混じった重い溜息を吐き出した。 ここはライラ。夜の森に程近い、緑豊かな小国。その中心に位置する王城の一室での光景だった。 □■□ 空が紅に染まる頃、帝人は巨木の根本で目を覚ました。 身体を横たえていたそこが皺くちゃになったシーツではなく落ち葉をかき集めたものであると気付いてほっと一息吐くと、のろのろと起き上がり近くの川へと向かう。 両手で水を掬うのではなく水面にそのまま顔をつけて洗い、動物のように頭を振って夕暮れの中にキラキラと飛沫をまき散らした。 「……っふあ」 大きく息を吐き出し、帝人はじっと水面を見つめる。 比較的流れが緩やかであるためか、夕暮れに染まる童顔がこちらを見つめ返していた。 真っ黒な髪と真っ黒な瞳。夜の王とは対照的なその色彩に帝人は少し不満げな顔をする。だがすぐさま、自分があの色を持っていても似合わないだろうと思い直して苦笑を浮かべた。 その瞬間、細められた双眸が夕日の色を受けてどこか赤っぽく染まる。笑みの形になった赤い目の幻想を見て帝人は水面から顔を逸らした。 ずっと見つめ返していると何かを思い出しそうになったのだが、それを帝人の頭が拒絶する。必要ない。わざわざ思い出すような事ではない。脳裏に響くその声に従って、帝人は立ち上がった。 これから夜が始まる。早く腹を満たしてこの森の王様を探しに行こう。 黒も赤も全て意識の外に追い出し、帝人は頭の中を月色でいっぱいにする。それだけで身体が浮くような幸福を感じ、幼顔にそっと笑みを浮かべた。 帝人がこの森に来て少し経ったが、最初の朝以外は基本的に夜起きて朝寝る生活を送るようになっていた。その理由はだた一つ。夜でないと殆ど夜の王に会えないから(正確には帝人が見つけられないから)である。 ひょっとすると、昼間、夜の王はあの館にいるのかもしれない。だが赤林からは「入るな」と言われていたため、帝人が夜の王に会おうとすれば必然的に日が沈んでから森の中を歩き回って探すしかなかった。 赤林が用意してくれた食料を腹に納め、帝人は月明かりを頼りに手足の鎖を鳴らしながら森の中を歩く。 夜の王がどこにいるのか知らないが、ここ最近の探索で帝人は彼が静かな場所を好む傾向にある事に気付き始めていた。たとえば他の生き物の気配がない場所や、月光に照らされた川縁など。だから帝人は今日もそんな場所を探して足を動かす。 やがて月が真上に到達した頃、帝人は木々が少し開けた空間に辿り着き、その双眸に笑みを浮かばせた。 「……こんばんは、王様」 なるべく静寂な空気を壊さないように。囁くような声で帝人は月光色の魔物に語りかける。帝人に向けられた瞳は天に浮かぶ月と全く同じ美しく輝く金色で、ほう、と思わず感嘆の吐息が漏れた。 「おうさま」 賛辞の言葉すら思い浮かばず、帝人はただ夜の王を呼ぶ。たべてください、おうさま。自分を見つめる金色の瞳に見惚れながら帝人はもう今夜で何度目になるか分からないくらいに懇願した。 これまでの経験上、帝人がそう懇願した時の夜の王の反応は似たようなパターンしかない。まずは「消えろ」「目障りだ」「俺は人間が嫌いだ」と拒絶の言葉を吐いて帝人が立ち去るのを待つ。それでも無理なら自分が消える。ただし最近は帝人が懇願した後すぐに夜の王自らさっさと姿を消してしまう事が多くなっていた。 しかし――― 「……俺はお前の王じゃない」 ぽつり、と夜の王は言った。 これまで無かったその反応に帝人は黒い双眸を大きく見開き、驚きを露わにする。しかし驚きは半分で、帝人の心を占めたもう半分は歓喜だった。何せこの美しい魔物の王が帝人を見て言葉を返してくれたのだから。 喜びの感情を顔に乗せる帝人とは対照的に、夜の王は僅かに月色の瞳を不機嫌そうに眇める。 「お前は人間だろう。人間のお前にとって魔物の王である俺はお前の王にはなり得ない」 「僕は人間じゃありません。……そりゃあ魔物でもありませんけど。僕は、家畜ですよ」 それでも王を王と呼んではいけないのだろうか。 帝人が居た『屋敷』では、帝人はそこの主人のいいように扱われ続けていた。とても人間とは言えない。両手両足を鎖で繋がれ“飼われて”いた帝人はまさしく家畜だ。 帝人がそう答えると夜の王は再び目を眇めた。しかし月色の瞳が見据えるのは帝人自身ではなく、帝人の過去。帝人を飼っていた屋敷の主人ならば冷笑を浮かべて嘲りでもしただろうが、それとは全く違う反応に帝人はじんわりと心が温かくなるのを感じた。この美しい王は確かに帝人の事を哀れんでくれたのだ。人間が嫌いだと言いながら、帝人は人間であると言いながら、それでも帝人を哀れんでくれた。 (もったいないくらいだ) そう心中で呟きながら帝人がへらりと笑みを浮かべると、夜の王は不思議そうに片方の眉を持ち上げる。どうして帝人が笑ったのか解らないらしい。きっとこの王は優しい王なのだろう。だがそれを口にしても王は否定するだろうし、よって帝人は代わりに別の言葉で喉を震わせた。 「王と呼ぶのがダメなら、僕は貴方を何と呼べばいいのですか?」 自分には『帝人』という名前があるが、この王にはそれに類する名前というものがあるのだろうか。赤林は『夜光の君』と呼んでいたけれども、それはきっと違う。それはこの月色の魔物の立場を表すものだ。 帝人に問われた王はしばらく逡巡していたようだが、やがて諦めたように溜息を一つ吐き出すと、 「好きに呼べばいい」 ぽつり、と告げた。 「好きに……?」 「俺に人間のような名はない。俺は『夜の王』だ。だからお前が勝手につけて勝手に呼べばいい」 そう返され、帝人はふと赤林の言葉を思い出した。あの片目の魔物は言った。帝人は夜の王に許されていると。これも――魔物を統べる王の名を好きに呼ぶのも―― その許される事に入っているのだろうか。 嬉しい。嬉しい。 心の中でそう繰り返しながら帝人は「はい!」と目を輝かせて答えた。 そんな帝人の表情に夜の王はほんの一瞬だけ目を瞠ったのだが―――。帝人はそれを目撃する前に王の名前を考える事に没頭してしまったので、気付く事はなかった。 (何が、いいだろう) この美しい王に相応しい名前は。嬉しさにどきどきと心臓が踊っているようだった。 「…………」 うーん、うーんと一生懸命に考える帝人の姿を月色の瞳がじっと見つめる。 だが王は帝人を見つめるだけで声をかける事もなければ、漆黒の翼を微かに揺らす事すらしない。本人がそう意図しているかどうかは分からないが、彼の姿はまるで帝人の思考を邪魔しないよう気を遣っているかのようだった。 やがて――― (おうさまは静かな所が好き) それを思い出した帝人はぱっと顔を上げて笑みを浮かべた。 「静雄さん! 僕、これからは王様の事を静雄さんって呼びたいです!」 「しずお……。静かな、という字を書くんだな。俺の好む場所から取ったのか」 魔物の王の顔に苦笑のようなものが浮かぶ。それは本当に微かな変化だったが、確かに優しくて柔らかで温かいものを含んでいた。 「ああ、悪くない」 おまけにそんな一言まで付け足されて、帝人はきゅうっと心臓が縮むような心地に陥る。 自分の言葉が受け入れられた。この美しい魔物の王に。 今日は嬉しい事ばかりで、帝人は自分が夢の中にいるのではないかと疑ってしまいそうだった。 しかし今夜はそれだけでは終わらなかった。 夢見心地の帝人に、夜の王―――静雄は立ち去るのではなく帝人にもう一声かけたのである。 「……お前は何て言うんだ?」 「え?」 帝人は一瞬、何を言われたのか解らなかった。 黒目がちの大きな目で静雄を見上げ、ぱちぱちと瞬きをする。 「お前の名だよ」 「ぼ、僕はみかど。帝人って言います!」 「そうか」 (あ……) 笑った。 本当に小さな変化だったけれども、帝人の名を聞いて静雄は優しく微笑んだのだ。 それを目にした直後、顔面に体中の熱が集まってくるような気がして帝人はぱっと下を向いた。夜の王が、静雄が笑っている。それがこんなにも嬉しい。 (今、なら) 下を向いたまま、帝人は機嫌が良さそうな静雄の様子にふと思い到る。今ならば、と。 そうして帝人は顔を上げ、月色の双眸を真正面から見据えて告げた。 「静雄さん僕を食べてください!」 名付ける事を許された。ならばこのまま喰われる事を望んでもいいのではないか。単純にそう思いついての事だ。 しかし帝人が告げた瞬間、静雄の顔からは微笑みが消え、整った眉が苛立たしげに顰められた。 そして彼は腕を伸ばしたかと思うと帝人の顎を掴み、吐息さえ感じそうな至近距離で吐き捨てた。 「誰が人間なんか喰うか。反吐が出る」 ぱっと帝人を解放し、静雄は翼を大きく羽ばたかせた。そのまま「静雄さん!」という帝人の制止を振り切って夜空のどこかへと姿を消してしまう。残されたのは記憶の中の微笑みと、空から落ちてきた黒い羽根。その一枚を手にとって帝人はぎゅっと胸に抱いた。 「違います。僕は、僕は……」 ジャラジャラと鳴る手足の鎖を眺め、帝人は呟く。 「人間じゃ、ない、のに」 胸が酷く痛んだ。 次の日の夕刻。帝人は姿を見せた赤林の前で彼が持ってきた果物を口にしながら呟いた。 「ねぇ赤林さん。静雄さんに食べてもらうにはどうしたらいいんでしょうね?」 「しずお?」 首を傾げて繰り返す赤林に帝人は説明を付け足す。 「夜の王のお名前です。僕は魔物じゃないから、夜の王を王様って呼んじゃいけないって」 「ほう。名付ける権利を頂いたって訳だねぇ? あははっ、すごいすごい」 「すごい事なんですか?」 今度は帝人が首を傾げ、赤林が「そうだよ」と頷いた。 「言っただろう? 帝人は夜光の君に許されていると。……ああ、そうだ。それなら」 続いた赤林の言葉に帝人は目を見開く。 「今日は館へ行くといい」 「館……? 館ってあの、静雄さんの?」 そこへ行ってはいけなかったのではないか。視線で訴える帝人に赤林は苦笑を一つして深い赤紫色の目を眇めた。 「帝人、名前というのは坊が思っている以上に大切なものなんだよ。名前はその存在を表し縛るものだ。そして我らが王は坊にそれを許した。だったらきっと、館に入る事も許されるだろう」 「静雄さんの館に……」 「怒りを買えば殺されるねぇ、きっと。でも許されれば何かが変わるかもしれない。それに死さえ恐れない坊に今更どんな恐怖があるんだい?」 恐怖。その感覚はいまいち掴みかねたが、赤林の言っている事はなんとなく理解できた。加えて帝人の望みは静雄に喰われる事だ。ならば確かに、前の前の魔物が言う通り館へ行く事にマイナスはない。 「わかりました。僕、館に行ってきます」 すくっと立ち上がり、帝人は教えられた方向に足を向ける。だがその足が走り出す前に上半身を捻って赤林を振り返ると、「でも」と不思議そうな表情を浮かべた。 「赤林さんはどうして僕にそこまで教えてくれるんですか? 赤林さんの王は僕じゃなくて静雄さんなのに」 王が怒るかもしれない事を赤林は帝人にさせようとしている。それでは赤林が王に怒られてしまうのではないか。 帝人がそんな疑問をぶつけると、赤林はへらりと片目で笑って独り言つように告げた。 「そうだねぇ……おいちゃんの王はあの方だ。でもね、」 目を伏せ、何かを思い出すように赤林は呟く。 「夜光の君の幸福がどんなものかなんて、一体誰に分かるって言うんだい?」 |