昼間の『夜の森』は濃い緑がどこまでも続き、夜とはまた別の顔を見せてくれる。帝人は両手首を繋ぐものと同じ鎖を足下でジャラジャラ鳴らしながら赤林と共に川縁を歩いていた。
「ここには赤林さん以外の魔物っていないんですか?」
 休んでいた所からここまで、帝人は赤林以外の魔物を見ていない。
 そう問いかけると赤林は左目を眇めて小さく笑った。
「そういう所を選んで通ってきたからねぇ。それにこの川沿いは森を抜けるまでずっと開けている。ほら、木も少なくて明るいだろう? こういう所は魔物が殆ど寄って来ないのさ」
「へえ」
 答えて、帝人は川面を覗き込む。全体的に短い黒髪と同色の瞳がゆらゆらと映し出されていた。
 その像の中へ帝人は両手を突っ込む。バシャバシャと手をこすり合わせて充分に洗うと、続いて水面に顔を突っ込んだ。
「帝人!?」
「ッぷはー。そう言えばずっと水も飲んでませんでした」
「だからって顔を突っ込むこたぁないだろう。折角洗ったんだから手を使えば良かったんじゃないかい?」
 赤林の言葉はもっともだ。
 帝人はどうして自分が手を洗うだけで終わり、水を飲むのに使わなかったのか解らずに首を傾げた。だが深く考える事はせず、再び歩き出す。
「行きましょう、赤林さん。あの魔物さんに会いに行かないと」
「……本当に行くのかい?」
「行きます。方向はあっちですよね」
「折角見逃されたと言うのに……今度も許されるとは限らないよ? 一瞬で灰になるか、水のようになって地面に消えてしまうか、それとも」
「喰われるか?」
 恐れるどころか嬉しそうに帝人は後ろを歩く赤林に笑いかけた。
 あの月光色の魔物に出会い、帝人の望みは決まった。どこにも行く当てのない、人間ではなく家畜である自分は、あの美しい魔物に文字通り喰われてその血肉となるのだ。
「帝人は変わった人間だな」
「人間じゃありません。両手両足を鎖で繋がれた人間未満です」
「…………」
 無言で赤林は立ち止まり、それに気付いた帝人が小首を傾げる。
「赤林さん?」
「何でもないよ。ただ、おいちゃんは呼ばれてないからこれ以上は行けないんだ。だから帝人一人で行くといい」
「僕一人で」
「ああ。運命が許せばまた生きて会えるだろう」


 しばらく一人で歩き続けると、帝人の目の前に一軒の館が現れた。
「わぁ」
 朽ちかけてはいるが大きな館だ。だが帝人に感嘆の息を零させたのはその建物ではなく、館の前で佇む存在だった。
 視線の先で漆黒の翼がゆっくりと動く。
 静かに振り返った魔物の双眸が帝人を射った。
「あ……」
 向けられた目の色に帝人は小さく声を上げる。
(真昼の月の色だ)
 昨夜黄金の輝きを放っていた髪はそのままだが、双眸は輝きを潜め、色も金ではなく白っぽい銀色を帯びていた。それが日中の天にひっそりと浮かぶ月の色だと気付いて、帝人はふらふらと夜光の君―――この『夜の森』に棲む魔物の王へと近付いた。
 恐怖はない。喰われるならば最初からそのつもりであったし、たとえそうではなく赤林が言ったように灰や水にされてしまっても、それはそれで構わなかった。それに何より今一番帝人の心を震わせていたのは―――
「きれい……」
 人型の魔物が持つ二つの小さな月。魔物だろうと人間であろうと、誰がどんなに手を伸ばしても手に入る事のないものを二つも持っている夜の王の美しさに帝人は心を奪われていた。
 だが王はその足を止めさせるように顔をしかめると、
「何をしに来た。人間の子供」
 そう吐き捨てる。
「俺は帰れと言ったはずだ。なんでまだこんな所にいる」
「その貴方に僕は帰る所なんて無いと答えたはずです」
 歩みを止めた帝人は間髪無く答え、昨夜と同じようにジャラジャラと鎖を鳴らしながら両手を広げた。
「だから僕を食べてください、王様」
「俺は人間なんか食べねえ」
「それも昨夜お答えしましたよね。僕は人間じゃありません。食べられるのが仕事の家畜です」
 だからほら、と腕の鎖を鳴らすと夜の王は白月の瞳を歪めて帝人を見た。帝人の微妙な言い回しに何か思うところがあったのかもしれないが、あえて言葉は発さず、そのままくるりと背を向ける。
「あ、待って!」
 追いかけようと駆けだした帝人だったが、すぐに足が絡まって転倒する。夜の王は振り返らない。帝人を灰にする事も水にする事も食べる事もなく、朽ちかけた館の中へと姿を消した。
「ま、って……」
 立ち上がろうにも力が入らない。ああそう言えば水は飲んだが食べ物はずっと口にしていなかったのだと思ったが、全く動けそうになかった。それに酷く眠い。逃げるのに必死でまともに眠っていなかったのも身体が動かない原因だろうか。
(食べてもらいたいのに)
 頭からバリバリと。そうしてあの魔物の血肉になれたなら―――。
 美しい真昼の白月を思い出しながら帝人はゆっくりと目を閉じる。今までならもう目覚めなくていいと何度も思って眠りについたのに、今だけは、再びあの月に出会えるならばもう一度くらい目を覚ましたいなぁと願いながら。



* * *



 名前を呼ばれた気がして帝人は目を開いた。視界の先には夜の王の館。だがそれよりも手前に見知った姿を見つけて彼の名前を呟いた。
「あかばやしさん……?」
「やぁ帝人。運命が許したのか、それとも夜光の君がお許しになられたのか。おいちゃんには判らないけど、どうやらまだ生きているようだねぇ」
「あは。また食べられ損ねちゃいました」
 寝そべったまま答えると赤林はどこか困ったように表情を歪めて頭を掻く。
「ま、いいや。充分眠ったんなら次は腹を満たそうか。人間は果物や魚なら喰えるんだろう?」
 魔物の彼が人間をどういう生き物として捉えているのか知らないが、間違ってはいないので帝人はこくりと頷く。そしてその場から身を起こすと、目の前で赤林がさっきから持っていた何かの包みを開いてみせる。
 大きな葉にくるまれていたのは赤林が言ったとおりの果物や魚類。しかも魚には既に火が通されている。
 驚いて目前の魔物を見上げると、赤林は「これでも色々と見て回るのが好きな性質でねぇ」と苦笑を浮かべた。
「森を出て人間の世界を見て回る事もある。人間は魚を食べる時、よく火を通していたはずだ」
「これ、僕に……?」
 人間ではなく家畜だと言い直すのも億劫で、帝人は腹の虫がきゅるきゅる鳴き出したのを自覚しながら問いかける。そして赤林が首を縦に動かしたのを見て取ると、用意された何日かぶりの食事にありついた。
 しばらくして空腹が満たされ始めると、帝人は自分のやせ細った身体とまだまだ沢山ある目の前の食物を見比べながら思う。
(もうちょっと肉付きが良くなったら食べてもらえるかなあ)
 あの月色の王様に。
 骨の一片も残さず喰われ彼の血肉となるのを夢想して帝人は微かに笑みを零す。美しい王が生きるための糧になる自分というのは、大層素晴らしい最期ではないだろうか。
「どうした?」
「んー……」
 不思議そうな顔をする赤林に帝人は笑みを向け、夢見るように告げた。
「夜の王は綺麗ですねぇ」
「当たり前さ。王なんだから」