黒い黒い森の中を帝人は歩いていた。
昼間でも暗いとされる場所だったが、星がまばらに散る天蓋の下では深い闇が口を開けているようだ。 まともな人間ならばその闇を恐れ、火を灯すか。それとも最初から近付こうとしないか。魔物の森とされるこの『夜の森』を知る者はおそらく後者を選ぶだろう。たとえ真昼であってもだ。 しかしそんな森の中を帝人は恐れた様子もなく歩き続ける。 (怖い。怖い? これが?) 闇を前に足が竦んだりはしない。高い木々の合間から僅かに降り注ぐ月明かりだけを頼りに歩くためギザギザの葉を持つ下草が帝人の手や足を切り裂いたけれども、その痛みすら不快ではなかった。 (だって僕はもっと痛い事を知ってる) 身体が竦み上がるのは“あそこ”に居た時だけだ。でも帝人はもうそこから出てきた。だから身体が硬直して歯がカチカチと鳴って声すら出なくなるような状態にはならない。 さあ、これからどうしよう。どこへ行こう。 この森まで来ればそう容易く追っ手がかからない事を帝人は知っていた。あそこの人間が言っていたのだから間違いない。憎々しげに「夜の森には強力な魔物がうようよいるから」と。焦る必要はないんだと帝人は木々の枝葉の向こうにあるはずの月を見上げる。 しかし、 (……お月様が二つ?) 夜空ではなく黒く塗り潰された木々よりもこちら側に丸い金色が二つ。―――ではなく。 「ぅ、わっ……!」 気配も無く自分の顔のすぐ傍に輝く眼球が二つ、だ。 “それ”との距離の近さに驚いた帝人はどすんと尻餅をついた。僅かに湿った土と落ち葉の冷たさが薄い布越しに伝わってくる。 「だ、れ」 弱い月明かりで浮かび上がったシルエットは低めの枝に腰掛けて少しだけ帝人を覗き込むような体勢で、姿は月と同じ色の髪を持つ人間の青年のようだった。しかしここは魔物が跋扈する夜の森。こんな軽装の人間が一人で居るはずもない。しかも相手の目と思われる部分はぼんやりと金色に輝いている。 「魔物?」 帝人が呟くように問いかけると“それ”は羽根のように軽い動作で枝から地面に降り立った。 「あ、の」 「帰れ。ここは人間の来る所じゃねえ」 「あっ……」 その時、一陣の風が吹いて木々を強く揺らした。帝人は反射的に目を瞑ろうとしたが、木々が大きく揺らいでこの場に差し込んだ月光の下、目前に立つ何者かの容姿に目を奪われる。 (きれい) 月光色の髪と瞳。すらりと伸びた手足。姿形は先刻のシルエットから予想したとおり人間―――それもかなり整った容姿の青年だ。ただし闇の向こうに溶ける漆黒の翼と、爛々と輝く瞳はどうしようもなく相手が人外であると示している。堅く引き結ばれた口元としかめた眉は威圧感を与えたが、帝人はその何者か――きっと魔物だ――を心から美しいと思った。 「帰れ。俺は人間が嫌いだ」 「帰る所なんてありません」 こんなにも美しい魔物に拒絶されて帝人は己の心臓がぎゅっと痛むのを感じた。それは声にも表れ、思った以上に情けない響きとなって口から零れ落ちる。 だが月光色の魔物に言った言葉は真実だ。帰る場所など無い。帝人はあそこから逃げてきたが、元々あそこ以外に帝人の居られる場所など知らなかったのだから。 (ああ、そうだ) 帰る場所がないのなら、と帝人はある事を思いついた。 「……何の真似だ」 己に向かって両手を広げた帝人に魔物は訝しげな声を出す。帝人は両手首を繋ぐ鎖をジャラジャラとめいっぱいに広げ、幼い顔に無邪気な笑みを浮かべて人間が嫌いだと言うその魔物に告げた。 「ご覧の通り僕は人間じゃありません。鎖に繋がれたただの家畜です。だからどうか僕を食べてください」 ―――綺麗な綺麗な魔物さん。お願いです。 帝人はあの場所で『ヒト』ではなかった。それは学のない帝人でもよく解っている。自分は毎夜毎夜“食べられる”だけの肉の塊だったのだと。そして逃げてきたあそこ以外の居場所を知らない自分はいずれどこかで野垂れ死ぬ。ならば家畜としてこの美しい魔物が生きる糧になれたなら……。夢想して、それはとても素敵な事だと思えた。 「ねえ魔物さん。どうか僕を食べてくれませんか」 * * * (……あ、れ?) 帝人は瞼の外から強い光を感じて不思議に思った。 自分は暗い森の中を歩いていたはずだ。なのにどうして瞼の向こう側がこんなにも眩しい? 「ッ、あ……」 身体に力を入れ、地面から身を起こす。その一連の動作で自分が落ち葉の上に倒れ込んでいた事を自覚しながら帝人が目を開けると――― 「よう。起きたかい、坊」 バサバサという鳥に似た羽音。その音と声の発生源に視線を向けて帝人は目を瞠った。 「貴方は……貴方も魔物?」 「正解。加えて随分落ち着いてるってのも高得点だねぇ。ぎゃーぎゃー騒がれちゃ煩くて敵わんから」 それは人型の魔物だった。 月光色の彼とは違う、また別の魔物だ。こちらは青年ではなく壮年の男性のような容姿で、右目に大きな傷を負っている。これでは左目でしか物を見る事ができないだろう。残った瞳は濃い赤紫色で、人間では持ち得ない色だ。髪は瞳よりも若干茶色がかっており、背中から生えた翼だけが月光色の魔物と同じで漆黒だった。 (本当に魔物だ) 言い聞かせるように胸中で繰り返し、帝人は人型の魔物に問いかけた。 「僕を食べないんですか?」 「おいちゃんは坊を食べないよ」 「どうして」 魔物とは人を喰うものだろうに。 そう言うと魔物は呵呵と笑って翼を揺らめかせた。 「元々この森の魔物はあんまり人喰いをしないからねぇ。それにいくら坊が喰ってくれって言っても、おいちゃん達は食べちゃいけないんだ」 「食べちゃいけない?」 鸚鵡返しに帝人が問うと、魔物は「そうさ」と続けた。 「夜の王が―――夜光の君が坊をお見逃しになったからねぇ」 「夜光の、君……?」 「昨晩お目通りしただろう? そして坊は殺される事なく朝を迎えた。ならば我ら他の魔物が坊を襲う事はできないよ。夜光の君が許すとはそういう事だ」 「僕はもうこの森の魔物には食べてもらえないんですか?」 「夜光の君がそれを望まない限りは」 「じゃあやっぱりあの人に食べてもらわないと」 言って、帝人は立ち上がる。 そう言えば昨夜、あの美しい魔物に出会って何度も「食べてくれ」と願ったが、彼は結局食べてくれなかったのだ。そのまま無言で姿を消してしまったものだから、帝人は若干ふてくされるようにしてその場で眠りについたのだった。もしかしたら気絶に近かったのでは、とも思う。本人の記憶が正しければ帝人はもう十五を迎えているはずなのだが、体質やそれまでの生活状態の所為で同じ年頃の人間よりもずっと小柄で細く、体力も無かったのでそれも影響していたかもしれない。何せあそこからここまで逃げるのにゆっくり休んだ記憶も充分に腹を満たした記憶も無いのだから。 立ち上がった帝人はとにかくあの美しい魔物を探そうと一歩踏み出す。しかし――― 「ありゃ……?」 ふらり、と足下が揺らいですぐに地面へと逆戻り。 「どうした? 坊」 ふらふらと倒れ込んだ帝人に魔物が問う。 「ちょっと痺れちゃって。もう少し休んでいれば歩けるようになると思います」 力の入らない足に目を向けるとそこは青く鬱血していた。おそらくおかしな体勢で眠ったのが原因だろう。 「あの、だからもうちょっとここに居てもいいですか」 「おいちゃんは構わないけどね。……にしても相手が魔物だと解ってるのにその態度……。坊は余程の変わり者なのかい?」 「坊、じゃなくて帝人です」 「みかど?」 「帝国の人、って書きます」 「皇帝の帝か。人の上に立つ者の名だな」 「そんな立派な立場じゃありませんけどね」 何せ自分は人どころか家畜だ。笑いながらそう言ってみせると、魔物は少し不機嫌そうな顔をした。だがすぐにそれを取り繕って「おいちゃんはねぇ」と己の名前を教えてくれた。 「―――・―――ってんだよ」 「え?」 「あはは。まあ、魔物の名前は人間の耳にゃ上手く聞き取れない音だからねぇ」 「じゃあどうすれば……」 「好きに呼べばいいさ」 そう答えた魔物の容姿を帝人はじっと見つめる。それから自分の耳に不思議な音として入ってきた彼の名を思い出して、 「赤林さんってのはどうでしょう」 「アカバヤシ……この髪と目から来てるのかい?」 帝人はこくりと頷く。 「よし気に入った。じゃあ坊、じゃないや、帝人はこれからおいちゃんを赤林って呼ぶといい。夜光の君にも許されたし、この森にいる間はおいちゃんが色々助けてあげるよ。困ったらその名前を呼んでおくれ」 「はい!」 |