罪歌は眠りを知らない。
 元々眠りとは脳を持った生物が身体と脳を休めるために取るものであり、生物どころか有機物ですらない妖刀・罪歌にはそんなものなど必要無かった。ゆえに宿主である人間が眠っている間にも罪歌は常と変わり無く人類に向けての愛を叫び続けていた。
 そんな時、ふと罪歌の意識にある存在が引っかかり、彼女はそれを認識する。
 それは彼女の宿主が眠るベッドの端に腰を下ろして罪歌に――正確に言えば罪歌の宿主に――手を伸ばしてきた。
「杏里、疲れてたのかな?」
 音量の抑えられた声が優しく部屋に響く。
 本来ならば他人の気配が部屋の扉の前に立っただけでも目を覚ますはずの宿主は、しかしその声を聞いても、また髪に触れられても眠ったままだ。そして彼女の宿主がここまで気を許しているのは今のところ一人だけだというのを罪歌はきちんと知っていた。
(杏里は本当に帝人が好きなのね)
 宿主―――竜ヶ峰杏里の髪を優しく撫でるのはその夫である竜ヶ峰帝人。人を愛する事ができなかった杏里が初めて愛したこの青年は、相手の体内に妖刀が寄生している事を知った後も変わらず杏里を好きだと言っていた。その言葉がどれ程杏里の心に響いたのか―――。おそらく帝人本人は理解していないだろう。しかし杏里の中でその心を感じ取っていた罪歌には帝人から言葉を貰った時の宿主の心情が手に取るように解ってしまった。
 ひょっとしたら愛する事を知らない少女だった杏里はそれまで誰にも向けられなかった愛を竜ヶ峰帝人ただ一人に向けたのかもしれない。そう思えるほど杏里の愛は深く大きく、また罪歌が“そう”と思うくらいに狂気じみていたのだ。
 既に高校生の頃、まだ出会って間もない時に帝人は杏里の生き方――寄生という生き方――を受け入れてくれた。その上で自分を下卑するなと(ただし実際にはもう少し違う言葉だったが)園原杏里の存在を肯定してくれた。そして今は杏里の中で一番の気がかりだった罪歌すらも許容されたのだから、思えば杏里が帝人に傾倒していったのも当然と言えば当然なのかもしれない。
 と、罪歌はそこまで己の宿主の事を理解していた。しかし罪歌は妖刀であり人間ではない。同じ『愛する』でも人間の中ですらその表現方法に差があるのだから、人間ではない罪歌の表現方法は全く異なっている。杏里にももう何度も、数え切れないくらい何度も「帝人を愛しましょう!」と告げていた。愛しているなら斬ればいい。彼の心が杏里から離れないように斬って『子』にしてしまえばいい。彼との間に愛の証を作るのだ。
 だが杏里は罪歌の提案に否と答え続けている。相変わらず杏里は帝人を愛していて、罪歌が帝人を愛する事は許してくれない。
(それってなんだか凄く嫌なのよね)
 もしかすると罪歌は杏里の『愛』に引き摺られていたのかもしれない。彼女の愛は全人類に向けられているのだから帝人も愛する対象に入るのは当然であるが、少しばかり罪歌の中の帝人に対する執着が他の人間よりも強くなっていたかもしれなかった。
 そしてチャンスは訪れる。
 帝人にだけ完全に気を許していた杏里は未だベッドの上で夢の中。杏里が愛する帝人はその傍で高校時代よりも長くなった妻の黒髪を優しく梳いている。
(やっぱり私も帝人を愛したいのよ!)
 呪いのような愛の言葉と共に罪歌は宿主の警戒の隙を縫って銀の刃を顕現させた。
「―――ッ!」
 杏里の身体から長く伸びた日本刀はそのまま帝人の二の腕を貫き、双方の衣服やシーツに赤い飛沫が散る。帝人は声を押し殺して己に刺さった刃に視線を向けた。だがそれが妻から伸びた妖刀だと気付いたのとほぼ同じタイミングで彼の頭の中に罪歌の愛の言葉が溢れ出す。
『愛してる愛している愛してる帝人大好きよ私も貴方を愛する事に決めたわ愛してる愛してる愛してる本当よ杏里と同じくらいちゃんと愛してあげる愛してる愛してるさぁ子をなしましょう愛してる私と貴方の子供を杏里と貴方の子供を愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる受け入れて飲み込まれて取り込まれて感じて恐怖して歓喜してちょうだい私の愛を!!』



「ああ、これが……いや。“君が”罪歌か」



『愛してる愛してる愛してる……あら?』
 帝人との間に子がなせない。
 それに気付き、罪歌は人間でいうところの“首を傾げた”。どうしてだろう。彼女の中には疑問が生まれ、しかしその原因にはすぐに思い至る。
 確かに帝人の身体に己の刀身で傷を付けた。これは相手との間に子をなすためには絶対に必要な行為だ。しかしこの場合において子をなすのに欠けていた要素が一つ。
『帝人は私が怖くないのかしら』
 恐怖。
 それこそが人間と妖刀の間で子供を作るために必要なもう一つの要素だった。だと言うのに帝人は斬られた事に対して全く恐怖を感じていないらしい。
 彼女の疑問の声はその刃を受けている相手にも流れ込んでおり、帝人は相変わらず杏里を起こさないよう小さな声で「そうだね」と答えた。
「確かに凄く痛いけど、怖いって感情は無いかな」
『どうして? 怪我をすると人間は恐怖を覚えるものでしょう?』
「普通はね。でも僕は君という存在をあらかじめ知っていたし、君の宿主である杏里を心から愛しているし、そして君のような存在が昔から大好きだったから」
『私が好きなの?』
「好きだよ。愛していると言ってもいい」
『…………』
 はっきりと告げられ、罪歌は言葉を失う。
 愛するばかりだった自分が宿主でもない他者に愛されている、と? そんな事が今まで一度としてあっただろうか。かつて子をなすのに失敗した平和島静雄でさえ、恐怖は覚えておらずとも罪歌に愛を抱く事はなかったと言うのに。
 驚愕と混乱で呪いのような言葉が止むと、帝人は刺されていなかった左腕を動かし、刀身に指を滑らせる。優しく、羽根のように。まるで愛撫のような―――否、これは帝人から罪歌に施される愛撫だ。
 罪歌は伸ばしていた刀身を引っ込めると、キィィンと小さく身を震わせた。
(早く止血してちょうだい。貴方を深くあいしすぎてしまったみたいだから)
「うん。ちょっとこれは危ないからね……」
 もう触れていないので声が聞こえるはずは無いのだが、それでも帝人は罪歌に答えるようにそう告げてベッドから立ち上がる。だがキシとベッドが小さく鳴り、帝人の気配が離れようとすると、それまで眠っていたはずの杏里がうっすらと目を開いた。
「みかど、くん……?」
 傍にいるのが帝人だけだからか、まだ少し寝惚けているらしい。だがすぐに血の匂いに気付いてバッと身を起こす。
「え、あ……帝人君!?」
「大丈夫だよ、杏里。慌てないで」
 鉄錆の匂いの発生源が己の愛する人だと知って杏里は激しく動揺した。だがそれを落ち着かせるように帝人は優しく微笑む。痛くないはずが無いのにそれを全く感じさせない表情で。
「罪歌がね、僕の事も愛そうとしてくれたんだ」
「“してくれた”なんて言わないでください! あ、あぁ。こんな事なら、こんな、事なら……!」
 取り乱し、杏里は両手で頭を押さえながら首を振る。「こんな事なら、こんな事なら」と何度も繰り返すのは、本心ではその先を言いたくないからだ。
 罪歌だけでなく帝人もそれに気付いたようで、自分から溢れる血が相手に付く事に少し躊躇ったようだが、両腕を伸ばし杏里の左右の手を掴む。
「“こんな事なら僕の傍にいなければ良かった?”」
「ッ!! だって!」
「そんなの僕が許さないよ」
「え……?」
 眼鏡のレンズを挟まずそのままの視線が二人の間で交わされる。
「杏里は僕の隣にいてくれるんだろ? 最初にそう言ったじゃないか。だったらいてよ。ずっと傍にいて」
「でも罪歌がっ!」
「それを承知した上で僕は杏里と共にいるんだよ。今更じゃないか。それに結局、罪歌の子は僕の中に生まれなかった。杏里が心配する事は何もないんだ」
「みかどくん……」
「好きだよ杏里。だから離れるなんて言わないで」
 幾分落ち着きを取り戻した――と言うよりも、帝人の告白に全てが吹き飛んだ――杏里に帝人は微笑みかけ、今度こそ止血のために部屋を出た。勿論それをぼうっと見送る杏里ではなく、すぐに夫の背を追う。
 罪歌はそんな宿主の中で『あらあら』と呟き、
(私、杏里に嫉妬しちゃうかもしれないわ)
 小さく小さく苦笑した。







愛を唄う刃








竜ヶ峰夫婦は別々の家に住んでいます→帝人は杏里宅の鍵を持っているのでそれを使ってお邪魔しました。