―――嗚呼、失敗した。
 平和島静雄がそう感じたのは数年前。池袋全体を巻き込んだある事件の後、知り合いの少年が一つの会社を立ち上げた時の事だ。
 会社の名前は『DOLLARS』。設立者は竜ヶ峰帝人。
 首無しの妖精を通じて静雄が知り合ったその少年がカラーギャング『ダラーズ』と良く似たシステムを用いて会社『DOLLARS』を設立した際、『ダラーズ』を知る人間は帝人が『ダラーズ』の創始者だったと言う者と、ただ単にそのシステムを利用して上手いこと会社を作っただけだと言う者とに別れた。しかし結局真相は明かされず、また誰かが裏で何かをやったのか、その話題自体あまり表に上る事も無くなっていった。
 けれど、と静雄は思う。
 ダラーズのリーダーは間違いなく竜ヶ峰帝人だ。池袋の自動喧嘩人形と恐れられる静雄に笑顔で接してくれたあの幼顔の少年―――。静雄が初めて彼を認識したのは友人である首無しライダーが主催した鍋パーティーでの事であるが、その時から既に心のどこかで温かな空気を持つ帝人に惹かれていたのだと今の静雄は理解している。しかし当時の静雄はそんな事に欠片も気付かず、鍋パーティーの後、ゴールデンウィークに起こった一件にて少年にダラーズ脱退を告げていた。
 勿論、当時の静雄がもし既に自分の想いに気付いていたとしても、腐りきった人間のいるチームに所属し続ける事はなかっただろう。更には自分が抜ける際に帝人も脱退するよう強く望んだかもしれない。しかしそれは静雄が『その事実』を知らなかったからに他ならない。
(そう、俺はあの時なんにも知らなかった。でも竜ヶ峰が『DOLLARS』を作った時に解っちまったんだ)
 相変わらずあの温かな空気を持っているというのにどこか虚無的で見ているこちらが焦燥に駆られるような竜ヶ峰帝人の姿を目にした時、静雄は彼こそが自分の唾棄したチームの創始者であり、そしてあの時既に帝人の隣に立つ権利が自分から失われていた事実を否応なく理解してしまったのだ。
 別に帝人がカラーギャング『ダラーズ』の創始者であった証拠など何処にもない。しかし静雄は自分の予想が間違いではないと確信している。それと同時に帝人の両隣を埋める人間の存在にも気付き、自分とは違い最後まで帝人の傍に居続けた彼ら―――園原杏里と折原臨也の存在を静雄はひどく羨んだ。きっとあの二人はそれぞれの立場で最も帝人から近い位置にいたのだろう。だからこうして全てが終わった後、帝人の隣に立つ事ができている。そこはもう静雄が望んでも絶対手に入らない位置だ。繰り返すが、静雄はずっと前に自分からその位置に立つチャンスを捨ててしまったのだから。
 そうして静雄は残された立ち位置から今の状態を選んだ。
 かつて高校生の竜ヶ峰帝人が憧れていた自動喧嘩人形として、また彼の友人の友人として。その想いを今更本人にぶつける事もなく、またこれ以上彼から離れる事もなく。運良く出会った代替品を傍に置いて彼の笑顔を遠くで眺める事に幸福を感じる、そんな位置を。
 後悔は帝人への想いに気付いた時にもう充分なくらいやった。泣いて喚く事も手当たり次第物を破壊する事もなく、静かに静かに、じわじわと押し潰されるような重い後悔を身の内に溜め込んで今の静雄がいる。吹っ切れたのとも悟ったのとも違う感覚はおそらく静雄がこれから一生付き合っていくもので、酷く重くて、だけどどこか愛おしい。
 きっとこれは一生に一度の恋だ。成長してもずっと愛を恐れ続けていた化物がたった一度だけ胸に宿した恋心。幼い頃に抱いた憧れの混じったものとは違う、綺麗なものだけではない感情で形成されたそれは今もなお静雄の細胞一つ一つに宿っていた。
(だって、ほら)

「静雄さん、どうかしましたか?」

(声を聞くだけで、その姿を見るだけで、こんなにも幸せで悲しくて切なくて嬉しいんだ)
 カチャ、と小さな音を立てて“社長”自ら淹れた紅茶が静雄の前のテーブルに置かれる。その正面のソファに腰を下ろしたのは二十歳をとうに越えたというのに未だ十代に見える青年。短い前髪が白い額の上で滑るのを眺めながら静雄は「なんでもない」と首を横に振った。
 出された紅茶を一口飲んで、甘党の自分用に砂糖が加えられているのに気付く。静雄が少し驚いた表情を浮かべると、青年―――帝人はにこりと笑ってみせた。どうやら「流石情報屋」と言わざるを得ないらしい。同じ情報屋でもあの忌々しい男と全く逆の感情を抱けるのは相手が帝人だからに他ならない。
「で、竜ヶ峰。俺に用ってのは?」
「実はやっていただきたい仕事が一つありまして」
 帝人に呼ばれて静雄が訪れていたのは彼の会社の社長室。いつも傍にいる秘書は、静雄が嫌がる――なにせ帝人の一つ下であるあの青年はどこか静雄の嫌いな人間と同じ匂いがするのだ――と言う理由だけで、社長こと帝人の一言により別室にやられている。
 そんなちょっとした特別扱いにすら多大な幸福を感じながら、静雄は自分を今日ここに呼んだ帝人を見つめた。
「仕事?」
「ええ」
 そう言って帝人が頷く。
 静雄は未だテレクラ滞納金の取立て業務を行っているが、時折こうして帝人の会社でアルバイトを頼まれる事がある。帝人曰く本当は『DOLLARS』の正社員になって欲しいとの事だったが、静雄も自分が壊した公共物の借金を肩代わりしてくれた社長や今の仕事に就かせてくれた田中トムへの恩義があるため、それをしっかり返し切ったと自分が思えるようになるまでは取立て業を続けるつもりだった。
 閑話休題。
 帝人はその童顔に若干困ったような笑みを浮かべると右手の指を広げて4の数字を表現する。
「成功報酬はこれくらい。今週末の二日間、僕の護衛をしていただきたいんです」
「護衛?」
 これまで請け負ってきた軽い仕事――例えばセルティの真似事のようなものなど――とは毛色の違う内容に静雄は鸚鵡返しで問う。
「はい。静雄さんが暴力を嫌っている事は充分承知しているのですが……ちょっと厄介な所に行く予定が急遽立っちゃいまして、いつもお願いしている方には頼めそうにないんです。勿論最初から喧嘩目的で行く訳ではないのですが、もしもの場合を考えるとやはり実力があって僕も信頼できる人間でないとって思っちゃいまして」
「それで俺にお鉢が回ってきたって訳か」
「すみません。お嫌でしたらこれから他を捜しても―――」
「いや」
 帝人の言葉を意図的に遮り、静雄は告げた。
「その仕事、俺が請ける。詳細を教えてくれ」
「いいんですか?」
「何が」
「だって……」
 会社の長として自分から話を切り出した帝人ではあるが、やはり帝人個人としては静雄の事を気遣ってしまうのだろう。相手の思考が手に取るように解って静雄は小さく苦笑する。嗚呼そう思ってもらえるなんて嬉しいな、と。
 帝人の心配はもっともだ。静雄は己の力が好きではない。だが自分が断る事で別の誰かが帝人に“選ばれる”のはそれ以上に嫌だったのである。
 しかしながら静雄が己に課した立ち位置は引き受けたその理由を容易く口にしてしまえるものではない。ゆえに静雄は若干強引なのを理解した上で「いいから」と仕事の詳細を語るよう相手に促した。
(それに大事なモンを守るために使えるんだったら、俺もちょっとはこの力を好きになれるだろうしな)
 かつて妖刀相手に立ち回った際、静雄はその異常な膂力を怒りによって暴走させるのではなく自分の意思で制御できるようになった。あの時からもう六、七年の月日が流れ、静雄はほぼ完璧に力の制御が可能になっている。残念ながら怒りによる暴走は今でも起こるが、昔と比べれば格段に少なくなっているので余程の事が無い限り帝人の意思に沿った行動ができるはずだ。
「じゃあ、お願いしますね」
 帝人の応えに内心でほっと一息つく。
 ノートパソコンを取り出して「詳細はこちらです」と画面に資料を表示させる帝人の顔をこっそりと覗き見、静雄は彼の隣に立てないなりの幸せを確かに感じ取っていた。







化物の恋








幸せの閾値が低すぎる静雄さん。
ちなみにいつもの護衛は杏里ちゃんがメインで、そうじゃない時はセルティさんでした。杏里ちゃんの要望により。